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道徳規範は 愚の骨頂

noname#78908の回答

noname#78908
noname#78908
回答No.31

はじめまして^^自分は道徳は平和を維持していく上でとても、大切なことだと考えています。例に挙げられたものも、道徳だと思うのですが、道徳と言うのは、長い戦乱の歴史の中で、平和に仲良く笑顔で暮らせるように試行錯誤を繰り返しながら出来たものだと思います。つまり、道徳がなくなれば、社会正義がなくなり、損得や欲望が優先する世の中になるでしょう!そうなりつつ、ある世の中ですが、そうなれば、戦争ばかりが起き、人を大切にすることはなくなるでしょう!それこそ、獣と同じになるでしょう。そういう世界なら道徳は必要ないでしょう。そうなれば、平和だからこそ、得られるいろんな感情はなくなると考えます。そして、いつの日か、また、平和を求め、人は何故争うのだろうとなり、また道徳的考えに戻るのだと思いますが、何事も作ると言うことは、簡単ではありません。ですから、この憲法を作られた方は、本当に偉いと思います。平和を愛し、みんなが、それそれの、幸せを手に入れられるように、考えられたと思います。そして、平和を維持していく為に、お互いの心を大切にするところから入っていると思うのです。同じ行為をしても、善意と悪意とでは、結末が違ってきます。法律でも、善意と悪意とでは違う判決が下ります。だから、自首すれば、罪も軽くなると法律はなっていますが、今の悪党は、その法律を、うまく利用しています。そして、心を軽んじて、人を軽んじて、社会正義がなくなりつつある世の中でしょう!だからこそ、政治家が教育の見直しを訴えているのではないのでしょうか?ルールを守らない人が増えてる世の中だから、日本も戦争が起きる日も近いのでは?と危惧しています。道徳規範とは、物事を考える基準です。これを読んでいただいて、少しでも道徳の大切さを共感出来れば、幸いかと思います。

noname#80116
質問者

補足

 victoryroaさん はじめまして。ご回答をありがとうございます。  初対面なのに 言いたいことを述べます。  《憲法》と称する次のような《道徳規範》を持っていたのですが そして 初めの《和を以って貴しと為す》は いまも 通用しているように見えますが 果たして 総合的に判断して おっしゃるように 朽ちることのない大事なものであったし いまも そうであると判断できるでしょうか。わたしは 疑問を持つのですが その疑問は このように規範として 頭に頂くなら それは 愚の骨頂でしかないという意味です。もっぱらの公民である人たちだけには 好都合であるかも知れないという意味です。  ▲ (十七条の憲法)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm  第一条 (読み下し。以下同様)  一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  第二条 二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。  第三条 三に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。  第四条 四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。  (現代語訳) 四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いかがでしょう? 総合的に見て どういう判断をくだされますか?    * これまでの質疑応答を読んだ上で もう一度 ご投稿いただければさいわいですという横着なお応えなのですが どうでしょう?  * 言いかえると 今回おっしゃっていることは あまりにも 抽象的なご議論であると受け留めているものです。

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