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道徳規範は 愚の骨頂

arayata333の回答

回答No.29

No28からつづけます。 オブラスツォーフは、ドキュメントには 主題が必要だということを、映画界に参加してすぐに気がつき(でないフィルムの羅列は ただに雑録になる。) 人形劇の大家としての経験と知恵からの独特のその考えを生かす方法や技術を語った人としても有名です。 たとえば、 鉄工所のドキュメントであったとして、そこで働く人の大変さがその主題なのか、 あたらしい製品への開発やその情熱が主題なのか、あるいは 今ではこんなに簡単にその製品が出来上がってゆくというオートメーションシステムのすばらしさが主題なのか それとも、そこにたどりつくまでに、どれだけ大変な歴史があったのかが主題なのかで、 そのドキュメント作品はまったく別のドキュメントとなるということです。 そこを、彼は 長い間に身に付けた演劇人としての直感から ドキュメント映像と それを説明するナレーションとの関係を 深めていき、 その時間とタイミングの理論のように、現代ではさらに効率化されている技術も最初にはっきりとさせた人でもあるのですが、  そこには 現代でもそう簡単には追いつけない彼独自のナレーションの工夫もあったのです。 ロシアの人ですが、 世界中を旅していて日本にも文楽を研究しに訪れています。 また、チャップリンともかなり親交のあった人としても知られています。 その彼のドキュメント作品は どれも興味深いのですが、 その中の『映画は告発する』というドキュメントについて、 書かせていただきます。 スタッフとともに、ヨーロッパ中を取材してのドキュメントなのですが、 その『映画は告発する』というドキュメントの中にも その独自の深いナレーション技術が発揮されています。 フィルムは、取材した段にては、ばらばらな雑録、 しかして、 すでに主題があって取材したまさにドキュメントの主題であったところ、 ↓ ここで、大井数雄訳のオブラスツォーフの「続・人形劇 わたしの生涯の仕事」の中から、その文のままを書きますが。 ↓ 顔いっぱいのほほえみや流れるような涙、超豪華な家や貧民窟、恋人どうしや娼婦たち、教会の礼拝と戦争、死体、拷問、飢え、廃疾、レプラ、乞食、居酒屋、大麻、阿片、クー・クラックス・クラン、幸福そうな子供たちや腹がふくれた骸骨のような子供たち。  画面から私の声による言葉(アラヤタによる註、これがナレーションの部分です。)は、各シーンによってはじまっていく。 はじめの言葉とシーンとは、こうなる。 「家が倒れた。 犠牲者少数。 一名。 だが、この一名が……あなたの子どもだったら? あるいは、あなたの妻だったら? あるいは、あなたの父だったら? そのときに、あなたは、犠牲者がわすかだ、というだろうか? もしかすると、それはあなたの生活のすべてであろう! ひとりの人間は、二人より小さくない。人間を足し算したり掛け算したりはできない。人間はひとりひとり、唯一のものであり、またとないものである。 その人が生まれるまで、そういうひとはいなかったし、そのひとが死んだら、そういう人はあらわれないであろう」 最後の言葉はこうだ― 「すべての人間にはひとつの生命があり、二つ目の生命はない。だれでも、みんなと等しく、子どものときから、幸福になる権利をもたねばならない。そうなるだろう。世界中で、そうなるだろう。今日出なければ、明日。その明日がはやくやってくるよう、ひとりひとりが知らねばならないこと、忘れてはならないこと― 今日、いま、大地が燃えている。 子どもが泣いている。……。」 ****  と続いてゆく名文、名ナレーションの部分です。 時代はスターリンの時代へと入っていました。 どんな時代のどんな場所にも おなじ人間の叫び、 リスペクトの魂はあったのです。 今、 この叫びを 情報化時代の良心の旗印としたいです。 そちらの言われる「霊」の世界にも、、 その魂の叫びの一表現としてぶれないシンプルさを垣間見させていただきました。 ここから、語る思いが、その良心からの計算が、そちらの懐疑と質疑と祖の会議を彩っているわけです。 誤解なんてかまわない。 とはそれはわたしには見ていられないところだったわけなのです。 でも そちらご自身がそこをもすでに見つめられた上でのことならば、まさにでしゃばりなずべて 年寄りの取り越し苦労だったというお話です。 * この場をかりて、やはり、私の方から、このいち表現者の専門家の方から あたまのよい人たちへ訴えます。 brageloneさんのこの質問は ふかく正しい信仰からの 魂の叫びと理解してください。  ぶれないその魂からの質問だということです。 深すぎるがゆえの 誤解を わたしは、やはり 恐れます。 * 以上を私のほうからの、今回の回答とさせていただきます。

noname#80116
質問者

お礼

 どうですかねぇ。  まぁ せっかく書き込みがありましたので 応答しますが  そんなことを言ったら 何にでも 誤解はあるでしょう。  こう考えられませんか。誤解を持つのも その人にとって ひとつの過程として必要であるのだと。  避けられる誤解を避けるのがよいと言うのでしょうが 今回の《霊》および《三位一体》に対する誤解は もう何度も わたしは述べてきた内容であって いまさらと思うものです。誤解したい場合には 誤解するのとちがいますか。

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     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

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