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狂ってててもいい?

フーコーは近代の理性中心の世界で狂気を封じ込めたことについて考えてます。今(少し前)の風景をみてみるとかなり理性が減って、モラルダウンした社会を日本でもあったような気がするのですが、狂気は誰にもあるから露出していていいということでしょうか。

noname#209756
noname#209756

質問者が選んだベストアンサー

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  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.8

ホモでSM愛好者でエイズで死んだミシェル・フーコーのことですよね? (彼を貶める意図はありません。むしろ褒めてますよ?念のため) 彼ら『構造主義者』が何を主張したのか?を考えると自ずと答えが見えてきます。 『構造主義』とは、従来考えられていた社会構造を再検証しようという運動です。 従来の常識においては、人間が集まって社会を作るということを否定する人は 居ませんでした。これは近代以降、『個』の重要性が繰り返し説かれてきた 為であるとも考えられます。 しかしながら、構造主義者は 『人間とは社会の一要素であり、社会構造の結節点に過ぎない』 という発想の転換を行ったのです。 中でもフーコーの主張は苛烈なものでした。 彼の記した数々の書籍はある一定の観点から書かれています。つまり 『歴史につながりは無い。それはただの系譜論であって物語に過ぎない。 我々は研究者として、堆積した個々の地層の年代を調査する考古学者で なくてはならない』というものです。 これらの観点からフーコーは狂気についてある考察を行っています。 中世:狂人は心霊現象であり、人間の状態の一つ 理性の時代(近代哲学以降):狂人は理性の対極である(人間ではない動物) 現代:社会の為に働かない人間(精神病) 質問者さんの言うところの封じ込め、 つまり中世において狂人は動物であるとしたのは当時の基準(理性)では 狂人がその対極の存在である、としか説明できなかったからです。 ところが、現代において狂人とは、単に医学の問題として扱われます。 先の前提の通り、近代と現代において歴史としてのつながりは全くありません。 これは狂人の歴史という架空の概念ではなく、単に医学の突然変異(対処を研究する 技術から、発生原因をつきとめようとする学問への変化)によるものです。 この冷静さは、同時にかつてない絶対的な苛烈さを持って狂人にあたります。 隔離施設への隔離が行われ、医者の望む結果を生むまで開放される ことがありません。それは生きる権利の剥奪であって、他のいかなる時代にも 行われなかったことなのです。 医者が自分の『正常』を患者に押し付け、それを実現しないまで開放しない。 こういった絶対的な権力が存在するのが現代であるといえるのです。 要はフーコーは 『現代においては狂人は病院に隔離されるから、なお立場が悪い』といっているのです。 隔離されて、理性に生きる権利を奪われ、医者の理性を信じ込まされるまで 開放されなくても良いのであれば、現代においても狂ってしまっていいと思います。 少なくとも私は隔離されたくないので、正常な振りをしますけど。

その他の回答 (10)

noname#80116
noname#80116
回答No.11

 フーコーは知りませんが  ○ 社会制度をどう捉えるかと 個人のあり方とは 違う。  ☆ ように考えるのですが どうでしょうか。  ★ 狂ってててもいい?  ★ 狂気は誰にもあるから露出していていいということでしょうか。  ☆ これらは 個人の問題です。狂ってててたいのなら そうでなくても 自由ですが つまらなくないですか?

回答No.10

ちょっと今 感情的になってるので、回答も多少感情的となってしまいます。 狂ってててもいい。 どころか狂っててててててててても別にいいです^^。 それで 気がふれることができるんならやってみてください( 体験者より) 大丈夫です。 理性なんかかなぐりすててでも モラルに立ち上がる魂に狂って、狂いすぎることなんかないでしょう。 そんなことで 気がふれるような弱い命は存在しないです。 おそらく 立ち上がる勇気を持たないから、いろいろ狂ってくるんです。 弱くもなるんです。 そして 狂いが露出してくるんす。   そう思いません(きちがいより)

noname#84124
noname#84124
回答No.9

ふーこは読んだことないですが「狂気は誰にもある」のは、まぁそうでしょう。はっきり境界引けることばかりじゃないんだし、だいいち狂気といったって、いろいろあります。露出していいかどうかは、やっぱし方向性と程度問題でしょうなあ。 医者だからというより医者も相当ヘンだったりするけど(身内にいる)、何人であれ個人の基準を押し付けるのは治療とは関係ないですね。かえって病みますよ。 ドロドロした人間関係、歪みきった家庭環境、荒んだ社会。病んでること狂気であることを賞賛するなら、むしろ、いい効果になるかもしれませんが。 言葉の響きを楽しめるくらいなら大いに結構だけど、高層マンションの窓から人の通るところへデカい植木鉢ガンガン投げ落としたり、寝てる最中に、いつ何時火をつけられるかわからないなんてことだと生活していけないから。これくらいになると周囲も大変だけど本人だって大いに苦しい。だからこそ治療法を研究するんだし。 人間も動物の一種、人間と、それ以外の動物が一つ屋根の下で生活もできる。 ある特定の立場や個人の都合だけを押し通すのも、立場の弱い個人だけに押し付けるのも結局、狂気の受け入れには繋がっていきません。 受け入れ体制、許容度、寛容度の進化の過程で、狂気の発生のメカニズムも追究され、それにつれて社会システム全体のメカニズムも追究されるのは必然です。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

私は言葉に敏感な方ですが、質問者さんの「狂ってててもいい」という書き言葉の新鮮さに、詩を感じました。これは皮肉では在りません。「て」の繰り返しが意表を突いていて、新しい世界が生まれているからです。何か、アイクスリームとか、新幹線は感心せん、などと言う素敵な言葉と同じような響きが在るからです。これが、偶然の誤植でなかったら、この表現の中に在る「狂気」が新しい世界を創り出しているのですから、狂気に賛成です。

  • easy_all
  • ベストアンサー率60% (17/28)
回答No.6

「構造主義」とは、『境界線の引き直し』です。 ソシュールは言語を研究し、「茶色というコトバは、赤や黒と区別するから成り立つ。境界線を引いて、他との差異をきわだたせる」それが言語だ、としました。 構造主義は、ここから出発して、社会にある規範(コード)を疑います。 『境界線を引き直し』、狂気vs理性の規範がなぜ発生したのか?をフーコーは問いました。彼は言う。 西欧社会は、新たな快楽を発明したことは無い。 近親相姦・同性愛・獣姦・未成年者誘拐・両親の同意のない結婚。 近代社会は、そうした異形の性を、分類し確立し、性的倒錯として、 『権力』つまり『公共の利益』によって、ピンポイントで煽情した。 フーコーが言う『権力』とは、政権などではなく、 大衆社会の、公共の利益。つまり金銭です。 経済的な利益は、医学・精神病理学・売春・ポルノグラフィーのおかげで、 権力vs快楽が、二重のらせん構造で互いに炎をかき立て合う。 (フーコー「知への意志」新潮社、47-63頁『倒錯の確立』) 日本の現代の、モラルダウンそのもの。と思います。

回答No.5

 あくまで、はた、また の参考、箸休めでは在りますが、kigurumi氏もあまりフーコに関係なさそうなことから出しておられるので、http://kikitai.teacup.com/qa4360534.html  関連(となるかどうか知りませんが)で私は異端、反逆、叛乱、異人、奇人、変人、odds、アウトロー、反社会、いわゆる中国古代の賊、日本の服ろわぬ民、などに傾倒しております。抵抗権という超法規的方面もインタレストの範囲にいれています。

参考URL:
http://kikitai.teacup.com/qa4360534.html。
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

最近読んだ本の中に<時代精神>という言葉が出てきたんですね。 時代精神とはなんじゃらほい と思い調べてみた。 私の理解によれば、 <真理は普遍ではなく、時代によって真理だとするものは変化していく>ってことかなと思いました。 かつての常識は、今の非常識。 後世では非常識とされたので、かつての時代は狂気だった となるんじゃないか と。 でもかつての時代に生きていれば、それが常識だと捉えるので、異常性を疑わなかったんじゃないかと。 常識が固定するわけですが、世の中は変化していく性質を持っているので、常識に疑問を持つ人が現れ、時代精神を変化させていくので、常識が変化し、「あの時代は狂気の時代だった」とか後世に語られるようになるんじゃないかと。 >狂気は誰にもあるから露出していていいということでしょうか。 内在しているとは、ちょっと違うと思えます。 行為をどうとらえるかの問題な気がします。 時代により同じ行為が、別な捕らえ方になってしまう。

noname#96295
noname#96295
回答No.3

どのように構造化を果たし、成り立ったか、という話が、 なぜ、構造を解体し露出していい、という話にすりかわるのでしょうか?

回答No.2

確かに、モラルの水準と狂気は、連動しているように思いますね。 狂気と正常の境目は曖昧だし、社会が狂っていて、 個人が正常であるなんてことはないってことですね。 個人が狂っているから社会も狂っているんでしょう。たぶん。 露出したい狂気とモラルハザード。 何度も繰り返してきたことでしょうね。 社会システムの中に狂気の露出を織り込んでおく知恵が必要なんだと思います。狂気の露出ができない(露出しようがない)、露出する意味がない、あるいは狂気そのものを発生させないという知恵ですね。

  • owata-www
  • ベストアンサー率33% (645/1954)
回答No.1

狂気を露出してもいいですが、それを周りに迷惑をかけずに露出するのが“理性”じゃないでしょうか?

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