- ベストアンサー
篤姫が西郷に見せようとした書状
今日のNHK篤姫で、西郷の江戸攻めを思いとどまらせるために、篤姫が勝海舟に西郷に渡すようにと、箱を渡しました。 その中には薩摩守とかかれた手紙が3~4通はいっていて、西郷はそれを見たとたん、ひれ伏していました。 薩摩守という文字から、薩摩の殿様に関するものであったとは思いますが、篤姫は西郷に何を見せようとしていたのでしょうか。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (1)
- Domenica
- ベストアンサー率76% (1060/1383)
関連するQ&A
- 於一(篤姫)と西郷吉之助は会った事があるはずはない?
NHK篤姫で 於一(のちの篤姫)が西郷吉之助は何度も会っています。しかも 一度西郷が殴られかかるのを身を賭して守ろうとします。 そんなことがあったはずは有りません 篤姫の家は島津分家とはいえ 殿様の親戚で下級武士の西郷に会ったり家をたづねたりするはずはなく あまりにも史実にはんしています。 たぶん江戸城無血開場の時の交渉の伏線にして話を面白くしようとしているんだと思いますが。NHKの大河ドラマにしては、ちょっとどうかとおもいます。
- ベストアンサー
- ドラマ
- 西郷隆盛が江戸へ入れた理由
我ながら幼稚な質問と思いますが、よろしく。 西郷と勝海舟が江戸無血開城について会談をしましたが、敵軍が満ちている江戸へ西郷が単身?入ることができたのはどうしてでしょうか。状況がよく分かりません。
- ベストアンサー
- 歴史
- 池上本門寺での勝海舟・西郷隆盛会談について
江戸無血開城へといたる、官軍参謀の西郷隆盛と、幕府代表の勝海舟の会談は三田の薩摩屋敷のほかに、東京都大田区の池上本門寺の庭「松濤園」でも行われたとか。当時の本門寺の関係者が記録した資料があるようですが、具体的なことをご存知の方教えてください。
- 締切済み
- 歴史
- 西郷隆盛と勝海舟の会談場所について。
以前、東京都大田区に住んでいたのですが 近所に日蓮宗の池上本門寺というお寺がありました。 そこのお寺に松涛園という庭がありました。 その庭が勝海舟と西郷隆盛が会談したというような庭だったと記憶しています。 最近、気になってネットで調べたら、やはりいくつかそのようなことが書いてあるページに行き当たったので、そういうことだと思うのですが。。。 がしかし、田町薩摩藩邸跡にも会談したというような石碑があるらしいことも分かってきたのです。 そこで質問なのですが、いわゆる江戸無血開城が話し合われたのはどこなのですか?会談は一度だったのですか?松濤園と田町の薩摩藩邸の違いは何なんですか???よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 西郷さんと勝海舟の会見
テレビもそして無論、ドラマも見ませんので、もしもう皆さんには充分分かっていることでしたらお許しください。 http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_0730.htmlには、“三田の薩摩藩邸上屋敷”のことが出ていて、 ◎“三田の薩摩藩邸上屋敷”においては、西郷隆盛と勝海舟の会見の場はここの藩邸であるとあります。 ◎本日、ある日刊紙のコラムでは、大田区池上本門寺の松濤園の案内があり、そこが西郷さんと勝さんの会見のばだとありました。 どちらが本当なのでしょう? その日刊紙の発行者や上記の、http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_0730.htmlにお尋ねしようといろいろやってみましたが、上手くつながらないのです。 どうかよろしくお願い申しあげます ◎またこの“三田の薩摩藩邸上屋敷”の近くには、会見の図を刻した岩の碑があるでしょうか? 左に西郷さんらしい人、右に勝産らしい人が配されております。 そして右の武士は右側に大刀を置かないで、左においています。 その位置もお辞儀をして直ぐに左手で手に出来るようです。 西郷さんは人間の素晴らしさとは別に剣術はやらない人でしたよね。 多分その背後の唐紙の向こうを暗示した図なのでしょうか? どうかお教えください。いつもすみません。教わるばかりで。
- ベストアンサー
- 歴史
- 「江戸開城談判」絵画の疑問(その2)。
教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 畳のへりは踏んではならないという作法があったと思いますが、勝は、畳のへりにちょっとかかったところに座っています。微妙な位置ですが、どのように解釈できますか。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問ばかりで、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))
- ベストアンサー
- 歴史
- 「江戸開城談判」絵画の疑問(その1)。
教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 両者は正座していますが、当時、正座は、罪人がお白洲でするものではなかったのでしょうか。武士は、通常、胡座や合蹠座だと思っていました。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問で、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))
- ベストアンサー
- 歴史
- 「江戸開城談判」絵画の疑問(その3)。
教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 勝は、床の間を背にして座っていますが、床の間を背にして座るのは、その家の主人とする考え方もあります。そうであれば、両者の座っている位置をどのように解釈すればよいのでしょうか。 この会談の前日にも両者は、同じ屋敷で会談しています。このときの場面の絵では、西郷が床の間を背にして座っています。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問ばかりで、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))
- ベストアンサー
- 歴史
- 大河ドラマ「勝海舟」はどうだった?
30年ほど前にNHK大河ドラマ「勝海舟」の主役(勝役)が渡哲也、途中代役で松方弘樹だったそうですが、この二人は勝海舟役として良かったですか? 私から見ると、どうしても勝とこのお二人のイメージが結びつかず・・・(^^; 私の中での勝海舟のイメージは自由奔放かつ冷静で、からっとした江戸っ子気質の人・・・といった感じです。 渡さんは勝を演じるには堅物で実直なイメージがありすぎるような気がするし、松方さんは気風は良さそうだけどちょっと腹黒い悪人のようなイメージが・・・。 見た目もイメージとかけ離れていると思います。 数年前の大河「新撰組!」での野田秀樹さんは演技も見た目も結構「おお、勝海舟だ」と思うものでした(ちょっと軽かったけど)。 渡&松方の勝海舟を実際に観た方、どうでしたか?
- ベストアンサー
- 懐かしのテレビ番組
- 今さらですが、JIN -仁- 完結編について
ドラマJINが好きで今でも見返し、よくできた脚本に感心します。 ただ一点、気になってるのは、西郷との会見を明日に控えた勝海舟が仁にアドバイスを求めるシーンで 「先生、これだけ教えてくれ。江戸は火の海になるのかい?ならないのかい?これが禁じ手だってことはよく分かってんだ」 このセリフの「禁じ手」とは、未来から来たであろう仁先生に未来の事を聞く事か、あるいは江戸を自らの手で火の海にする事、どちらなんでしょうか?
- ベストアンサー
- ドラマ
お礼
つまりあの書状の束は、慶喜擁立に動いていた時期の命令書や意見書など、政治的な書状であり、徳川家を滅ぼすという西郷の狙いは、島津の殿様の意志をもつぶそうとしていることに気がついたのですね。 これで筋書きがつながりました。 ありがとうございます。