• ベストアンサー

倭・倭人関連の朝鮮文献

先日、たまたまウィキペディアで色々見てた時に「倭・倭人関連の朝鮮文献」という項目があり 三国史記(新羅本紀)に紀元前後の新羅と“倭”との係わりが瓠公の件も含めかなり詳しく記されていました。ただこれらの事は実際には教科書にも出てこないようです。朝鮮の文献があまり重要視されていないのは何かあるのでしょうか?研究されている方等の御意見も聞きたいです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

その朝鮮文献といわれるものはいずれも十二世紀以降に成立したものですから、紀元前後とでは1000年以上の開きがあります。 江戸時代に書かれた奈良時代に関する書物をどの程度信用するのかということですね。

hokennyasan
質問者

お礼

なるほど、そうだったんですか、ご回答ありがとうござました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (1)

  • jayoosan
  • ベストアンサー率28% (929/3259)
回答No.2

三国史記は朝鮮最古とされていますが、中国の史書や文献からするとかなり後のものです。 『三国史記』新羅本紀、倭侵攻記事の信頼性 http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-4sanngokusiki.htm 倭の新羅侵攻/新羅の人質外交 http://toron.chu.jp/kodai/nicchou/wa-shira.html 現代の韓国人で、倭は新羅(他朝鮮半島国)に数え切れないくらい朝貢していたと述べるものがいますが、彼らは彼らの文献をもとに発現しています。しかし、三国史記以外に中国の古い文献にあたったという感じがしません。

hokennyasan
質問者

お礼

参考になりました。ありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 天皇家・藤原氏・蘇我氏の出自について

    私はよくインターネット等で天智天皇は百済の王子の翹岐王だったとか 蘇我氏は名前が渡来系っぽいから百済人や藤原鎌足は豊璋だとか言っている人を見ます そこで疑問があります。 まず、いくら王子だからとはいえ日本の属国であった百済の人間が まして国外追放されて亡命してきた翹岐王や人質としてやって来た豊璋のような人間たちが 頑張ったとしても、朝献をする国の外国人が日本のトップである天皇や その側近に成れるものなんでしょうか? 名前を隠して入れ替わろうにも周りも馬鹿じゃないんだからバレて入れ替われないでしょうし 普通は周りの人間が大反対してそんな地位にはなれないんじゃないでしょうか? 倭が391年以来、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった。 (広開土王碑) 新羅百済は倭を大国と崇めた (隋書81巻東夷倭国) 新羅の4代目国王の昔脱解は日本人 (三国史記 新羅本記) 百済の王が王子を人質として倭国に送る (三国史記 百済本紀) 新羅は倭国に奈勿王の子未斯欣王子を人質に送る。 (三国史記 新羅本紀)

  • 韓国は、何故、古代朝鮮の歴史を歪曲するのですか?

    口汚い教科書批判により、日本の教科書は真実を書けなくなりました。 任那府は、教科書から消え去りました。 歴史書も文学書も存在しなかった古代朝鮮。 http://bit.ly/jFXAHq 日本人 = 日本書紀に「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。」 韓国人 = 捏造だ。 日本人 = 三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。 韓国人 = 捏造だ。 中国人 = 満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。 韓国人 = 捏造だ。 中国人 = 中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。 韓国人 = 捏造だ。 中国人 = 中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。 韓国人 = 捏造だ。 中国人 = 中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。 韓国人 = 捏造だ。 日本人 = 日本や中国の歴史書や発掘品は全て捏造なのか? 韓国人 = そうだ!韓国に都合の悪い歴史書は全て捏造だ。 中国人 = 中国の歴史書まで捏造か? 韓国人 = そうだ。歴史書が本物だとしても,日本という名前は7世紀まで無かった。倭と日本は違う。 日本人 = 三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。日の出る所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが? 韓国人 = 捏造だ! 中国人 = 中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」と公式に認めている。 韓国人 = 中国人の捏造だ!! 日本人 = イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」 書いている。それを世界50か国の学校に発行している。 韓国人 = オックスフォード大学の捏造だ!! 日本人 = アメリカのコロンビア大学やアメリカ議会図書館が「5世紀の朝鮮半島南部は日本の大和政権の支配下にあった。」と記載している。 韓国人 = 世界中が朝鮮半島を捏造している!!

  • 中国大陸の倭の場所

    古い歴史書には倭に関する記述がいくつか出てきます。 倭をあたり前に日本列島と結びつける考え方とは反対に、倭は現在の日本とは異なった、現在の日本からかなり遠い地域の人々や集団をも指すと考える歴史研究家もいるようです。 その立場にたった場合、 『山海経』   「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」    蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。 にでてくる倭は、現在の日本(および日本人)とは限らず、遼東半島から朝鮮半島のどこかにも見えます。 ここに出てくる倭は、現在の日本とはまた別の倭と考える人たちによると、どのあたりという説があるのでしょうか? (のちの加羅(伽耶)地域まで下がることはないと思うんですが) それから 『論衡』   「周時天下太平 倭人來獻鬯草」    周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず これも周というかなり内陸地域の(現在の中国と比して)小さかった国との関係をみると、倭国から海を渡って周に朝貢していたとは必ずしも言えないと思いますが、ここに出てくる倭はどのあたりと考える説があるでしょうか。 人によっては、長江南部の越人と文化的に近いという説もあると思います。 説は1つではなくて複数あるとおもいますが、どんな説があるかやどんな地域を指しているかなどご存じの方いましたら、よろしくお願いします。

  • 魏志倭人伝の情報源は?

    古代日本の状況が中国の文献でしか残っていないのは,なんとも残念なことです。ここに,中学校で習ってから半世紀にも及ぼうかという疑問です: 「魏志倭人伝」(「魏書」東夷伝倭人の条)の情報源は何だったのでしょうか? 政治的状況や文物について,やたらと詳しすぎると思われませんでしたか? ぼくがいろいろ勝手に考えたのは・・・ (総称的な地域名として「中国」を使っています) ・倭人の使節が中国に渡ってもいたようなので,彼らが自分の口で述べたのかもしれませんが,古代中国語はどれくらい通じたのでしょうか? また,片言でも中国語を操れるなら,倭人がみずから国内で大量の文書記録を残してもいいところです。 ・古代にもけっこう交易がさかんであり,倭国語も喋れる中国人商人などがかなりの情報をもっていて,史書の編纂者に(でたらめの里程も交えて)教えていた。あるいは,倭国から漂流してきた「元祖ジョン万次郎」が中国語を覚えて自国について語った。 ・中国・朝鮮など既知の地域の状況をいろいろミックスして,類推で書いた(魏志倭人伝には中国南部の記述と共通する部分もあります)。 ・中国人で倭国語を巧みに操れるスパイが,長期のあいだ倭国に潜入して情報を集めていた(笑)。 ・中国伝来の千里眼・順風耳の秘法,あるいは宇宙人のUFOで倭を偵察した(笑)。  いろいろ空想も結構ですが,ちゃんとした当時の文献記録があれば,教えてください。

  • 魏志倭人伝の情報源は? その2

    記述が長くなりますので,質問を分割しました。お手数ですが,下記の以前の質疑応答をまず読んでください。 http://okwave.jp/qa/q9193761.html 質問の主文を再録すると----「魏志倭人伝」(「魏書」東夷伝倭人の条)の情報源は何だったのでしょうか? 政治的状況や文物について,やたらと詳しすぎると思われませんでしたか? ぼくは,中学生として読んだ瞬間から,「この情報のかなりの部分は中国人が直接に得た」と受け取っています。ここにいう中国人は,(1)中国本土の役人や地理学者,あるいは(2)中国南部から倭国や弥生時代の日本列島へ移住し,倭人社会に融合した中国人です。集団遺伝学的にみて日本人の源流の1つは中国南部にあります。 ぼくが中国人だと考える理由はいろいろありますが, 1.そもそも,周辺諸国をも含む地理志を書くという「文明」的行為は,未開の倭人には理解不能でしょう。現代人のぼくらだって,1970年ころに「インターネットのウェブページをHTMLで書いてくれないか」と言われれば,「え?」でしょう。 2.「倭人伝」のような詳しい内容を,倭人には中国語で記載できなかったのではないか。ぼくも現代中国語を勉強しているのでわかります。中国に来た倭人は,中国人の世話役から教えられた「ウォメンツォンウェイクォライダ」(現代中国音;我々は倭国から来ました)みたいな挨拶を,オウムのように言っただけではないか。中国皇帝も,そんな連中に「おまえらの国は東海のどこらへんにあるのか? どんな気候風土だ?」なんて難しい質問はせず,「ニーライラ」(よう来たのう)しか返さなかったと思います。 3.詳しい話は,(前の質疑応答では)朝鮮語を仲介して倭人自身が行ったというのも,いささか不可解なのです。たとえば,(訳文はWikipediaによる) 1)倭国へ至る海路や陸地の長さを「何里」と記載していますが,倭国にも中国と共通の度量衡があったのですか? かりにあったとしても,測量技術があったのですか? 2)たとえば対馬国を「山は険しく,道は獣道のようで,林は深く,良い田畑がなく,海産物で自活。船で南北岸の市へいく」と記載しています。倭人の使節がこんなローカルな事情まで質問を受けると予期して,漢文の報告書に書いて中国に持参したのですか? 中国人調査員が現場にやって来て観察したと考えるほうが自然に思えます。 3)「倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった」。これは南太平洋の素潜り漁ですが,暖流の黒潮が流れる日本列島では例外的に高い緯度で行われます。しかし,倭人には当たり前のことなので,特記しないのではないですか? 4)「その風俗は淫らではない」。倭人が自分たちだけを見てこう判断できず,中国人の視点です。 5)「牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」。倭国に存在せず倭人が知らないはずのものを,「いない」とは記述できません。また,「倭の木には柟,杼,予樟・・・」。こんな博物学的な知識を倭人の使節がもっていないはずですし,それぞれの漢字がどの植物種を指すかどうしてわかるのですか? 中国人から「図鑑」みたいなものを見せられて,いちいち「在/不在」と答えたのですか 笑? 倭国に来た中国人調査員が記載したに違いありません。

  • 任那は存在した???                       (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説)

    日本側の主張 「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』 1、「宋書」 次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。 421年 讃 叙爵 438年 珍 安東将軍・倭国王 443年 済 安東将軍・倭国王 451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事 462年 興 安東将軍 478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事 451年の倭王済及び478年の倭王武の記述に「任那」の文字があります。 当時、任那という地域が存在し、その「軍事」(当時の中国の官職)に「倭王」が任命されていたことを証明しています。 2、「広開土王碑」 広開土王碑には次のような記述も見られる。 曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」 3、「日本書紀」 日本書紀には、当時の倭国は朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させており、任那日本府というのはその駐屯地などを兼ねた日本の朝鮮半島における拠点であった。 その後、百済・新羅などによって任那は軍事的圧力を受け続け、紀元562年に任那は新羅に滅ぼされています。(日本書紀、欽明天皇二十三年) 韓国側の主張 1、日本書紀の記述に関して「任那日本府を通じて、日本へ朝鮮半島からの文化が伝わった(要約)」ことが書かれているが、この中の「日本へ朝鮮半島から文化が伝わった」と言う部分だけを引用し、その前提となる「任那日本府」については虚偽であるとしている。 2、また、広開土王碑についても、旧日本軍の改竄説を主張して、論拠を否定している。 3、韓国では「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を認めていない。 任那は存在したと思いますか?

  • 邪馬台国までの距離で・・・

    女王国まで帯方郡より1万2千里と魏志倭人伝にあり、1里を漢の基準で約400メートルとした場合、太平洋に行ってしまいますが、単里の約76メートルとした場合はちょうど九州になるという説を読みました。 魏志倭人伝の陳寿の仕えていた西晋は短里を使っていたとか・・・ また、 「韓は帯方の南にあり、東西海をもって限りとなし、南は倭と接す。方4千里」 これは朝鮮半島の事だそうですが、4千里を約400メートルで計算すると、その大きさは朝鮮半島にはおさまらず、日本海に飛び出してしまうけれど、短里で計算するとちょうどあうそうです。 ですが、Wikipdiaの邪馬台国を見ても短里については書かれていません。この短里というのは信憑性が低いのでしょうか? 邪馬台国の九州説を否定する研究家は短里について、どう考えているのでしょうか?

  • 朝鮮渡来人の日本への歴史への書かれ方の疑問

    ネットの情報をみていると、弥生時代の渡来人は朝鮮半島から先端の技術をもってやってきた、地元の縄文文化をことごとく塗り替えたみたいに書いてあるものを、ときどきみかけます。 またむかし教科書で習った大まかなイメージも「縄文は原始、弥生は文化的で技術の時代」みたいなものがありました。 なにか一方的に朝鮮半島から日本への渡来があったように書かれているようにも読めます。 しかし昨今の書籍をあたると、たとえば90年代に発見された三内丸山の遺跡などから縄文時代といえども、高度な高倉の建築技術があったこと。 日本のジャポニカ米のルーツは、DNA的にも渡来の可能性からみても、朝鮮ではなく中国の長江の領域や上海近辺であったこと。 小麦は西南アジアで栽培が始まり、中国経由で日本に伝わり、また日本の小麦とウィグル地域(中国の西)に残る小麦も、DNA的に同じであることなどがわかっています。寿司のルーツである魚の発酵保存技術も、タイなど東南アジアを起源に広まり、中国と日本のマス寿司などは技術が同系だが、おなじものが朝鮮半島にはないことがわかっています(別の発酵技術)。 漢書だったとおもいますが鮮卑伝に倭人が来ていたこと、魚をとるのがうまいので倭人捕まえ移住させ、魚を取らせていたことなどがあったと思います。鮮卑は沿岸部のツングース系もいたとはおもいますが、概ね内陸部のモンゴル系・テュルクと考えると、意外と中国内部まで倭人はつれていかれていて、漁業は黄河でなければ渤海で魚をとっていたのではないでしょうか。 卑弥呼の時代にも渡来人はいたとおもいますが、逆に日本も中国に対して生口を何度も送っています。 また百済が敗れて日本に渡った人の数も、数千から1万程度というのでしたらわかりますが、中には10~100万人程度の朝鮮人がわたった、みたいにと書いているものもあります。 しかし、百済(と日本の協力兵)は唐・新羅に滅ぼされたので、日本人が戻る船があったとしても(逃げ道を残してあったとして)、百済の人間自身が何万も海を渡るには、どう船を建設し、調達したのだろうと思います。 仏教に関しても、最初の仏教関係品の伝来ばかり強調されていますが、実際には日本は京(みやこ)を作るにも中国の都城をモデルにしたり、後の遣隋使・遣唐使も直接中国に送っています。 どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在の場所であり、また日本は文化に関しては(本物志向のせいか)中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。 実際はどうでしょうか。 ネット上の情報は、どうも弥生=朝鮮=文化伝播者、百済=日本への影響大、を強調しすぎているように見えます(これは英語サイトの韓国人の記述もそうのようです)。

  • 朝鮮史:稲作文明と米食文化の証拠を教えて下さい。

    お世話になっています。 以下の質問と合わせて再質問させて頂きます。(未解決の場合締め切ってそうするサイトのようです) 「韓国と日本における稲作と文化について教えて下さい」 (http://okwave.jp/qa/q7287873.html) 丸投げではなく、自学もしています。 350ページにおよぶ「世界の教科書シリーズ13・韓国の中学校歴史教科書」(2005年。三橋広夫訳。明石書店)の中に水田の話はありません。これには期待を裏切られました。日本人に稲作を伝えたという【韓民族】の国定教科書には、水田技術について教えるページがないのです!そもそも農業史の話が基本的にありませんでした。日本の教科書とはまるで違います。 (1)韓国の国定教科書に水田の話や農業史がまったくないのは何故ですか。韓国に稲作にまつわる文化の痕跡がありますか。おにぎり(おむすび)とか。武士は年貢米とか。糠漬けとか。 仮に水田がない場合、蛋白源はどうしていたのですか。干したイヌの肉ですか。足りますかね。 (2)一方の日本の教科書(および一般書)では、朝鮮の稲作が(紀元前1000年とかで)日本よりも先だったと述べられています。どういう証拠に基づいて専門家が言っているのでしょうか。ふつうの科学者であれば、「証拠はない」という事を明示すると思います。 (3)韓国人ではなく、在日と日本の専門家が、日本を下げて、韓国を上げるために、やっているんじゃないでしょうか。誰ですか?教えて下さい。嘘をついたもん勝ちならば韓国社会と変わりません。 (4)『世界最古の稲籾。忠清北道清原郡・小魯里旧石器遺跡A地区で出土したものが17000~13000年前(後期旧石器時代)。出土した泥炭層を放射性炭素分析。稲籾のDNA検査によると,現生種と39.6%類似。忠北大学校博物館8/2発表。[東亜日報] 』というHPを見たのですが、これは日韓においてどのように扱われていますか。「日本人のルーツ」(宝来博士)もそうですが、韓国人専門家との共同研究が信用に値するでしょうか。 (5)過去においては朝鮮人由来説が無批判に教育されていました。そう教え込まれっぱなしです。従来の義務教育内容について否定される要素が出てくればその時点でニュースだと思うのですが、過去の教育に【不備】があった事についてマスコミは報道しましたか。(私はテレビはNHKもニュースも見ないのでご存知でしたらお願いします。) (6)戦前の日本の教科書では今日の教科書のように農業技術の発展などを教えていましたか。また戦前は朝鮮人由来説だったのでしょうか。 ★今回、朝鮮人由来説を強調しているのが本国韓国の教科書ではなく、日本の教科書だったとは!驚きでした。【韓国焼肉】に続いて、これまた騙されていました。 鵜呑みにせずに、国がらみの専門家を基準にせずに、自分で蓋を開けたら、こんなことばっかりでしょうか(笑)

  • 古来より日本は文明国ですよね?

    紀元前に日本には縄文人がいましたが、大陸から渡ってきた弥生人達を受け入れ争いなく平和に暮らした。また縄文時代から発達していた水稲である熱帯ジャポニカなど日本から朝鮮半島へ水稲が伝わった。彼らは倭人と呼ばれ、文身をしカラフルな服装をしていた。また船で航海をしあらゆる文化を吸収し高い文化を共有していた。 沢山の倭国が生まれ倭国連合になり大倭国と呼ばれるようになる。大倭国の範囲は朝鮮半島南部、九州、四国、中国、近畿と広大な範囲になり、大倭国は、百済、新羅、高句麗などをその支配下に置いた。百済王家は必ず后を倭人とし、王になるまでは大倭国に人質として暮らさなければならなかった。 大倭国のアメノ タリシヒコ大王は自ら天子と名乗り、隋の煬帝に「日出でる天子、日没する天子に・・・」を送り、煬帝が激怒した。当時、大倭国と隋の国家の広さは同じくらいなので当然といえば当然であった。 その後、隋は唐になり大唐になり、大倭国と百済の連合国と大唐と新羅の連合国が戦い大倭国が敗れ、日本に変わった。大唐に敗れた百済、高句麗の王族は日本に亡命し、百済王、高麗王と姓を与えられ下級貴族として日本の建国に貢献した。 敗れた大倭国の人達は自らを恥とし、日本に変わって新しい国家作りを行った。大陸侵略は止めて今度は、蝦夷や南方に進出し、北海道や沖縄などを日本国に吸収していく。世界では帝国主義的な流れになり、欧米などの国家が他国を植民地化し帝国を築き謳歌していた。 日本はその流れに危機感を感じ自らを大国にし他国の支配化にならないように拡大していった。大日本帝国である。範囲は、本土、朝鮮半島、樺太、台湾、南洋諸島など広大な範囲である。 世界の列強国である、アメリカ合衆国、大英帝国、大日本帝国、フランス帝国、ドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリー帝国、イタリア王国などの一角になり世界に発言力を持つようになる。 しかし大国同士の考えや価値観が違い次第に争うようになる。列強国同士の争いに他の国々も巻き込まれ、第二次世界大戦が始まる。大日本帝国は、オランダ、支那、オーストラリア、大英帝国を敗ったが、最後の砦であるアメリカ合衆国に敗れ、大日本帝国、大英帝国は崩壊。 その後、漁夫の利をいかし、ロシアと支那がアメリカと共に世界に様々なアピールをするようになっている。 これが大まかな日本の歴史じゃないですか? 支那、朝鮮が歴史教科書に文句を言う筋合いは無いと思いますが・・。