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キリスト教の異端・改革派・異教への弾圧・迫害について

 キリスト教の功罪を考えるときではないでしょうか。  功は 分かっています。ふつうの生活を送ってきたふつうの市民の歴史に 顕著です。  罪と言えば 具体的に集中して調べたわけではなかったので あらためて おしえていただこうと思いました。  単純に 世界史の知識によれば 《遺憾に思う》という反省のことばによっては つぐない得ないものがあると思います。丸坊主および二百年の謹慎というさばきを持ちますが いかがでしょうか。    * 罪は あやまち そして さばきは つぐないの勧めと それぞれ 言ったほうがよいでしょうか。  * 二百年の謹慎ということは 教会の自己解体を意味します。

noname#80116
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回答No.6

ANO1ですが、 ペースが遅くなってます。 コメント 感謝します。   今primeapeさんの方も読みましたが、 おかしくてしかたないのですが、primepeさんの文も、「めちゃんこ悪魔君」とか「牛」とか「鬼」とか確かに小学生でもわかりそうな言葉は出てきますが^^、  ムムっ! 聡明さを失っていない大人でさへ読み解くのが難しいのに、 よくまあbrageloneさんは、いとも簡単に読み解いてしまっているのですね。   はたから見ると特殊会話の達人どうしの話みたいです^^。 内容自体はめちゃくちゃ深いのですから、驚いてしまいます。 * ANO1への 私の回答へのコメントについてから書きますが、 教会組織に対しては サルになってでも「めざめよ、人間のくせに」とオコラないとだめみたいです。(ニセのオコリザルより) 昔 これは仏教組織の中のことですが、あるその組織の雑誌にその組織に暴力を振るった人が かなり残忍な死に方をしてるのを喜んでいる記事があったのですが、  これ?  普段偉い人達が、慈悲についてお話をされ みんなが涙で感動している そういう組織内での、同じ組織内でのみんなが読んでる雑誌です。    なんで、誰一人として、抗議や疑問の声を上げる人がいないのか?   なんでそんな非人間的な冷たい心に誰一人としてきがつかないのか?      理由は一つしか考えられません。  みんな 自分の心で考える力が骨抜きになってるからです。 信仰という名によってです。 偉い指導部の人たちも まったくそのへん盲目状態となってしまっているということです。  学問的にそれを慈悲を勉強していても、実際は 自分で考えることはおこがましいというのを「信仰」としてしまっているからです。 brageloneさんたちの信仰の世界と 間逆の世界となってしまっているのです。 洋の東西を越えて キリスト教に昔起こってしまったことも、これだと思います。  そして、今もおそらく目覚めきってはいない、ということが自己解体できないでいる、あるいは組織を超えた形に出来ないでいる最大の原因かと思います。 キリストが何を語ってくれたのか、その一番肝心なところが、まったく盲目状態で見えてはいない?という はたからみれば超不思議な現象が宗教には起こり続けてきてしまったのです。 * わたしは、人の血を流すような派手なこととか犯罪とかはしてませんが、それと等しいほど人の心を傷つけてしまったことがあります。 自分を弁護すれば半分ぐらいは非自覚的にですが…。 でも、今でも もしその人に会えるならば誤りたいし、なにかその分のことをしたいし、できればそれ以上のことをしてあげたいし、 そして、もし来世があるならば(これは、輪廻のことですが)それを思い出せるというのならばそこでは償いたいと思います。 今は やらなければならないことがほかにたくさんあります。 死んでお詫びすることも出来ません。     * 教会組織も 同じだと思うのです。  目覚めることを促すしか無い時です。 もっともっとです。   そうすれば自ら ほんとうはつぐないもしたくなるでしょうし、 それよりも、まずは、今度こそ、個人個人しっかりした「教育」組織を 作る責務にも目覚めるでしょう。 ですので、たしかに、組織的には、おそらく共産主義の粛清よりも重い罪なのでしょうが(共産主義には 聖書があるわけではないわけですから)それでも、盲目状態だったのでは これは半分はめざめていた私よりは軽い罪だと   今の今は、わかってあげていいことなのではないかと思うのです。 醒めて裏で操っていた人間がいたとしたら、そのデーモン性は、簡単なつぐのいで済ませられないでしょうが、  巨大な組織の全体が眠ってもいた状態であったのならば、    悲しいことではあっても そのへんを怒りようがないことも言えてしまいましょう。 brageloneさんの、キリスト教なのに??????!! という気持ちはわかります。  あまりにも対象的ですからね。 でも、信仰の概念自体、 血を流すような事態を生んだような時には、これもまたまったく逆に盲目だったのです。 それと いざ環境が 戦争という極限の恐怖状態にお互いが置かれることにもなってしまったのです。   イギリスにおける現代でのキリスト教の宗教戦争がそれです。 イスラムとアメリカで起こっていることも含めて、 これは、もはや「目が覚める」哲学無しには、 泥沼からは 私たちが抜けられない世界だと思います。 キリスト教の真の理解者達の出番の問題だと思うのですが…。 * そちらの、prmeapeさんへのコメントの中に、 >このように この問題は 一般の人びとの社会生活一般ということにも かかわっているように考えます。信仰の如何を問わず みんなが集まって 共同作業で 社会的な仕事をするという場合には 《信仰上の序列や支配関係が 生まれることもない》と思うのですが 《宗教》の組織になると ことが 違ってくるようです。そのような宗教組織を 社会の中に どのように位置づけて 社会の安寧を図るのか。こういう一般的な問題でもあると思えています。< というところがありますが、 ほんとにそのような問題なのだと思います。 誰かが上に立って 上から目線にまでなってしまって キリストになったつもりで「罪はゆるされた」という儀式の宗教ではなくて、   みんなが 赦しあえることを喜び祝えるようなみんなが司祭となり、その祭りと祭りの心を司り、他の人たちを助ける組織になったらいいなと  思います。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さんへの わたしからの ささやかな贈り物です。  ▼ (ローマ書8:22~28)~~~~~~~~~~~~~~  被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。  被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。  わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。  わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。  同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。  人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。  神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あやまちや失敗を含めて 《万事が 益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています》と。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  すぐ上の箇所と二重になりますが 重ねて 掲げておきます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  誰かが上に立って 上から目線にまでなってしまって キリストになったつもりで「罪はゆるされた」という儀式の宗教ではなくて、   みんなが 赦しあえることを喜び祝えるようなみんなが司祭となり、その祭りと祭りの心を司り、他の人たちを助ける組織になったらいいなと  思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも わたしには   ★ 盲目状態となってしまっている  ☆ からだとは 思えません。  ▼ (マタイ22:36)~~~~~~~~~~~~~~~~   ――先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。  イエスは言われた。   ――『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神で    ある主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。     第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように    愛しなさい。』     律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。 ▼ (ローマ書13:8-9) ~~~~~~~~~~~~  ・・・人を愛する者は、律法を全うしているのです。  「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ほかのことがらは忘れても この《愛》については 忘れるはづがありません。唯一考えられることは 異端者・改革者・異教徒について すでに 《さばき》を行なったということです。  異教徒については そもそも《教化されるべき人間》に属するかどうか 一たん考えたということですから。(つまりヨーロッパ・キリスト教徒以外の人類は われわれ日本人を含めて 同じ人間であるかどうか 協議して決めたということのようですから)。(この発言は きちんと調べたものではありません。何度も そういう記事に出くわします)。  ですから わたしは  ★ キリスト教の真の理解者達の出番の問題  ☆ を超えていると思います。そういう段階や次元を過ぎてしまっていると思います。《頭を丸めて 謹慎しなさい》と言ってやるときだと考えます。過去のあやまちを全部まとめて いま です。そこまでですけれど。  primeape さんの文章は もう長く交通して来ていて 抽象的に どういう人間の思いを指して言っていたり それが人間関係のどのような動きにかかわっていたりするのかということが ある程度は 分かります。《めちゃんこ悪魔くん》は――もう去って行ったとおっしゃっていましたが―― 世間の悩みや辛さを媒介し伝達してくれる役目を持っているとも わたしは 解釈していたので その後についても 聞きたいです。  ベルクソンの質問について 時代情況についての解釈を交えて うまく説明しておられましたね。わたしは 読んだことがないので ベルクソン自身の思想は 知らないのですが 全体として よくまとめておられると感心してしまいました。なんで記憶が脳からはみ出るのかと思っていました。情報が 外からのものもあるのは 当たり前ですし。

その他の回答 (24)

noname#117439
noname#117439
回答No.25

オコリザルです。 23.24のご返事は面白かったです。 わたしかbrageloneさんを被告にして魔女裁判を促す質問を立てるとふざけすぎでしょうか。 私の感受性を生かした信仰に関する見聞ではニセモノの信仰はあります。 少なくてもかつてはありました。 それがとりすがりであり、無い物ねだりです。 神様を奴隷として自らの願いをかなえようとする情動です。 神が全知全能ならば全ての願いをかなえるはず。 これですよ。 私の人生裏街道一直線。 そんなでしたので思い知っています。 聞き届ける能力のある知性といえばエスパー的にもなりますが私くらいで初めて普通人と言えるのだと言う人類進化の挑戦を挑みたいところです。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん   ★ 魔女裁判  ☆ は もう過去のことですから つまり 過去のこととした上で なお起こり得るかたちで たとえば信仰の具体的なあり方について 違っているのではないかというような物言いを 言ったりしますが そのまま出すのは 言葉の上では やはり わるふざけになると思いますね。  ですから 思想の内容として 被告を立てれば いいかも知れません。その思想を誰だれが言っているとつけ加えても おまけとして 構わないわけですが。  ★☆ にせ信仰   ☆ は 多いと思いますよ。ただし   ★ とりすがり 無い物ねだり  ☆ は 別ですが ひじょうに まじめな にせ信仰が多いので 困ります。きわめて精神的であり 道徳的にもなり しかも 純粋であろうとしている。ひとことで言えば 精神主義です。これは 霊の問題ではありません。それなのに 信仰を名乗っています。  すべて あたま(精神)の中だけの努力であり精進です。脳という天井が閊(つか)えていることを知らないのでしょうか。(閊える――こんな漢字があるんですね)。信仰を表ざたにしますし おのれの人格をも表ざたにします。聖書の文句が そのまま 外を歩いているというような人間類型だと思います。  この哲学質問欄によく見かけるのではないでしょうか。(それとも 今では 誰でも 言ってみれば お里が知れていますから 文章だけの 信仰気取りなのでしょうか)。

noname#117439
noname#117439
回答No.24

オコリザルです。 A23の >ところで時代が違えば私は魔女狩りの対象でしょうかね。 所が変わるだけで現代でもそうですね。 「光」をアマテラスさんとして信じるだけで、自らの信教が認知される日本人ですが、悪魔を駆使して他者の信仰に挑戦している私は所変わればやはり魔女です。 忠実な信仰とはいかなるものか話し合うきっかけはないでしょうか。 私は納得して火あぶりにされたりしません。 ですから私自身のためにも「信仰とはいかなるものか」この論議は切実です。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 忠実な信仰とはいかなるものか話し合うきっかけはないでしょうか。  ☆ 信仰に 《忠実なもの》とそうでないものとがあるとは思いませんが――つまり ふつうの信仰であるか にせの信仰(つまり 単なる精神の産物)であるかが あるだけだと考えますが―― その定義は 次の質問に回答として提出しました。よかったら 見てください。  《Q4492916:現代の黙示録=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4492916.html?ans_count_asc=20》のNo.1です。  昔は クリスチャンになるとなると きちんと 家族や親せき一同に 説明しなければならなかったのではないでしょうか。コミュニストになるとなれば もう地下にもぐるということだったかも知れません。  それとは別に 経験思考ではなく 非思考としての信仰を つまり 《霊》にかんすることがらを しゃべるとなると プロとして売れるか それとも そうではなく 異人と見なされるか ではないでしょうか。  ★ 悪魔を駆使して他者の信仰に挑戦している  ☆ これについては ちゃんと説明しなければ分からないと思いますよ。

noname#117439
noname#117439
回答No.23

オコリザルです。 22に続きます。 brageloneさん個人の忠実な信仰や、イエスさんの予言的側面を堅持した故の旧態依然とした宗教のありようを考えると、解体を促すのは部外者が被害者に同情してピーチクパーチク言ってもしょうがない気もします。 裏切り者探しの狂信だけ、史実に基づいて論議する価値があり、なるほど今回のご質問はそういう意義があるのかと思いました。 そういえば、信仰を表ざたにする立場では、自らの信仰は何がしかに由来する旨を紹介する必要が多く、自らの人生で学んだ克明な記憶を紹介することは少ないようです。 見出した神に関して語るのは禁じられているのでしょうか。 どうやら無神論者であろう私自身の隠れた信仰とは、この辺が逆でもあります。なんというべきか、求めるものが何であるかも知らないで、ただ歩んだ道のりの果てにたどり着いたのが、光かがやくまばゆい世界でした。 ところで時代が違えば私は魔女狩りの対象でしょうかね。 キリストの神は罪人の神なんて言ってますしね。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。    ★ ・・・解体を促すのは部外者が被害者に同情してピーチクパーチク言ってもしょうがない気もします。  ☆ そのようなご見解であるとうけたまわりました。  しょうがなくても 一度は きっちりと言っておくという意味ではあるのですが。  ★ 裏切り者探しの狂信だけ、史実に基づいて論議する価値があり、  ☆ この《裏切り者探しの狂信》が 分かりづらかったのですが? つまり 一般に そういうこともあるかと思いますが この過去のあやまちを 外形的に 処理するということに関して 《裏切り者》やそれを探すとは どういうことなのか よく分かりませんでした。  《裏切った》という意味内容での《あやまち》という意味でしょうか? それは なかなか 史実として明らかにするのは むつかしいと思いますが。ですから それでしたら 今回は 取り上げないつもりです。  ★ 見出した神に関して語るのは禁じられているのでしょうか。  ☆ いっさい 禁止事項も禁忌もありません。組織にはあるかも知れません。よく知らないのです。  ★ キリストの神は罪人の神なんて言ってますしね。  ☆☆ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~  《わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》というのも 単なるレトリックで 言葉のあやではないでしょうか。現場では 格闘技が たしかに おこなわれるのだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 早く言えば 売り言葉に買い言葉で 現場での応答は その場しのぎのためだということもあると思います。ただし 別にまちがいを言っているわけではないということだと思います。  ★ ところで時代が違えば私は魔女狩りの対象でしょうかね。  ☆ それは わたくしも 血祭りにあげられていたでしょう。

noname#117439
noname#117439
回答No.22

オコリザルです。 A21から後のつなぐ言葉がなかなか見当たりません。 信仰の内部にいるものとしての改革をお望みでしょうか。 権力の犯した神の名を借りた罪悪に同じ信じるものとしての咎めが欲しいのでしょうか。 個々の信教とはいかなるものでしょうか。 この点は卑怯な物言いですが信仰を表ざたにしない私は自由でもありまして私は宗教に翻弄されません。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん 毎回 ありがとうございます。  No.1の補足欄に書いたとおり 次が 質問趣旨です。  ☆☆ (No.1の補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~   1.キリスト教つまり ローマ教会およびそれに挑発されたプロテスタント諸教会は 人の血を流し過ぎたと思われます。その重大性について 事例を交えて おしえて欲しい。  2.現在すでに おおむね 反省して あらたなあやまちを繰り返すことも少ないと思いますが 過去の清算をきちんと終えたとも思えないものがある。単純にですが 自己解体し二百年の謹慎をもって つぐなうとよいと思われる。  3. 以上について 認識のあやまりがあれば 正しつつ ご見解をおしえてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから この質問にかんしてでしたら 信仰とは 直接にかかわらなくても いいほどなのです。ただし むろん 信仰の看板をかかげていて 犯したあやまちが 問題です。  それでも この回答を出すことじたいは 教会の内外どちらの立ち場からでも かまわないですし 信仰を表ざたにして 論じていただいてもよいという体裁です。  また すでに 述べましたように 《罪を認識しなさい》とか あるいは 昔よく言ったような《懺悔をしなさい》というようなことではないわけです。あくまで 外形的に 処理しましょう / そして その最適なかたちをおしえてください という意味合いです。  わたしの案は  ○ 丸坊主および二百年の謹慎(つまり 教会の自己解体)  ☆ ということです。賛成・反対などを寄せていただければ よいかたちです。どうでしょう。

noname#117439
noname#117439
回答No.21

オコリザルです。 了解しました。 「やり直し」「出直し」のつぐないですね。 それならば裁きはいらないかもしれませんね。 宗教は人の心を縛りすぎますからね。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん 思わず おおっと唸りました。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 裁き  ☆ も 《外形的》であるように見えながら そうではなく 内面的であり――つまり 自己裁定なのだと思われますし―― それを他者が 焦点にするなら あまりにも 人の内面に入り込むかたちになるように思われます。(詮索はするのですけれどね)。  とにかく 《和を以て貴しと為す》という標語のような道徳律でさえ 人の行動や生活に 何かと 制約を課します。まったく おっしゃるように  ★ 宗教は人の心を縛りすぎますからね。  ☆ ということではないかと思っております。よかったです。  ただ 考えてみれば この内面での《あやまち・罪悪感・そのつぐないへの葛藤・人を赦すかどうか・なぜ赦せないのか》等々といった問題が――そういうことを取り上げておられたのだと思いますが―― 文学や人生そのものの大きな課題になって来ましたし そのことによって 文化や芸術の華を咲かせてきたという実績もあるのだと思います。個人の内面の問題として これからも 哲学としても 考えていくのだろうとは思います。外形的な処理の仕方とは 別にだと思います。  しかし それにしても 宗教改革者らを よくも 火あぶりに処したと思います。そのローマ教会は 何と思っているのでしょう。聞いてみたいです。

noname#117439
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回答No.20

オコリザルです。 ひとつ言い忘れました。 社会で自らがなしたことに結果を受け取る責任はあります。 そういうわけで犯罪を犯せばつかまって刑務所行きです。 私は子供が10円のあめ玉を万引しても警察に通報します。 この行いの見てくれが許さないことを象徴しているのではないです。 その点で私が話したのは誤解され易い話で夢物語です。

noname#80116
質問者

お礼

 つづきです。  ですから   ○ 悪・悪意・罪・断罪・赦す・赦さない  ☆ これらは その人自身の内面における作業のようなものです。他人が詮索することも あります。あるのですが それは あくまで 外側にあって騒ぐだけです。当人の内面のいとなみとは 別です。  つまりは したがって そのあやまちに関して あくまで 外形的に 処理することのほうが 現実的であり効果的であるように思えたのでした。    つまりは キリスト教会のあやまちに関して まだ その外形的な処理が 終わっていないように考えられます。《心から赦した人たち》さえも この処理について――赦しとは別に―― 考えるべきだと思います。つまりは ここ(この質問)では つぐないを勧めるというだけの処理ですが。

noname#117439
noname#117439
回答No.19

オコリザルです。 自らの心情です。 「ごめんなさい」は謝罪であり罪を認めることです。 こちらは罪などないといいたい。 心を解き放って「ありがとう」といって欲しい。 ごめんなさい、が将来的約束として機能するならば罪のみそぎを始めるとも受け取れますが、この約束が果たされたのは見たことがありません。それでも被害者は納得することは知っています。 これらは無意識の回答です。まだ知性のみが暴走していて行いが伴わない理想であります。 それでも神の言葉ではありませんよ。 自らの言葉です。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今夜は 久し振りに テレビを見ていて 眠ってしまいました。昔から けっこうよく あったのですが ここ一・二年は あまり なかったのでした。  けっきょく primeapeさんとわたしのあいだで こころは あまり変わらないじゃないですか。《赦す》という表明の有る無しを超えているのじゃないですか。このあとのご投稿をも読んで そういうことではないでしょうか。ニュアンスに違いはありますが。  ★☆ 「ごめんなさい」――《こちらこそ》  ☆ これで たいていは 済んでいきます。ただし  ★ ごめんなさい、が将来的約束として機能するならば罪のみそぎを始めるとも受け取れますが、この約束が果たされたのは見たことがありません。  ☆ ですから むしろ外形的に そのあやまちを取り上げ そのつぐないのほうを 問題にします。  ★ 〔罪のみそぎの約束が果たされたのは見たことがありません。〕それでも被害者は納得することは知っています。  ☆ これで すべて一件落着となれば いいのですが。もしこれが 尾を引いて――あくまでも primeapeさんご自身というよりは 一般にですが―― ほんとうに《赦した》のかどうかを問題にするくらいなら つぐないの仕方のほうを問題にしたほうがよいと思うのです。《赦す・赦さない》を 棚上げにするかっこうです。  まだ その線は あり得ると考えております。

noname#117439
noname#117439
回答No.18

オコリザルです。 悪も罪も概念のみの心の問題として、悪ならとがめることが出来ますが、罪はそっとしておくしかない。 そして許せないのはどちらなのでしょうか。 私にはわかりませんが、心の均衡のとり方からして、許せないのは多分罪でしょう。 そうすると断罪の道は悪に染まることとならないでしょうか。 この転落の道がまかり通っているのではないかと思いました。 これらは心の問題なので思いが行いに先行します。 要するに、人として悪があるか確かめたい。 又は、人として罪があるか確かめたい。 犯罪とは、悪が悪を働くのではなく、罪が罪を働くのではなく、(これは言葉として常識的にはおかしい)人間として自らを確認したい善行です。 悪人なり罪人なりは行いが確かめられて、それを神ではない他者に認められて事で自らを知るのです。 勇気を持って許すといいそれからの話し合いが大切です。

noname#80116
質問者

お礼

 つづきですね。  ★ 許せない  ☆ のですが そうは言わないわけです。《赦すとは 言えない》。その代わりに 《赦さない》をも言わない。という方針です。  罪も悪も その加害行為にかんしてのみ 相手に対して 何か もの申すかたちをとります。罪を犯したではないかとか それは 悪ではないかとか 基本としては 言いません。  あやまちとしてその加害行為を取り上げるのですから そう言ってもいいと思いますが 基本的な考えとして 《悪を反省しろ》とか《罪をつぐなえ》とかとは 言わない。《そのあやまち(加害行為)について つぐないをすべきだ》という言い方です。  ちなみに いやだ / その提言は拒否すると言われれば もうほとんど 放っておきます。  表現としては  ★ あなたを断罪する。とか あなたは罪を犯した。とか  ★ あなたを赦す。とか 赦さない。とか  ☆ 言わないわけです。  ★ 犯罪とは、悪が悪を働くのではなく、罪が罪を働くのではなく、(これは言葉として常識的にはおかしい)人間として自らを確認したい善行です。  ☆ これは 第三者としての分析だと考えます。その第三者としても あやまちに対するつぐないを 加害行為者に迫ってもよいと思うのです。ただし 加害者の内面については 表現のかたちでは 出しません。その人自身の問題だからです。つまりは その人も  ★ 人間として自らを確認したい  ☆ ということなのでしょう。それを  ★ 善行です。  ☆ と分析するのは 内面を推し測っての内実です。つまり その人自身の問題であり 処理すべきことだと こちらは 捉えている恰好です。  ★ 勇気を持って許すといいそれからの話し合いが大切です。  ☆ ちなみに 《ごめんなさい》と言うことばが発せられれば こちらが それに応えるのは 当然です。そういう挨拶と言いますか とっかかりとしてのやり取りのことではなく 内実について どうつぐなうか これに絞って 行方を問いますし 追います。  もっと言えば どう更生するかに関心があります。罪を重さ軽さや悪の度合いを こちらから うんぬんすることは ありません。赦すとは言いませんが 赦さないとも言いません。話題にはならないし しないと捉えているわけです。

noname#117439
noname#117439
回答No.17

オコリザルです。 A16に続いて。 罪人には悪と断罪される転落の道と許されることの二つの道があります。 これを選ぶから迷いになるんでしょう。 まっすぐな道は許されるほうです。 行いよりも心が先行します。 ですから心のよりどころとして神に許されることを望むのでしょう。 人間も許すことが出来ると思いますよ。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ ですから心のよりどころとして神に許されることを望むのでしょう。  ☆ この点については 誰もが 同じく そのようであろうと思います。  この《赦し》を 他人のぶんまで 考えるかどうかです。考えるのは考えるでしょうが その考えを持って その相手に 何か言うかどうかです。  わたしの場合 まだ 言わないと思います。ただし 言う側面もあるわけです。加害行為をおこなったではないですか。その点 世話を焼くようですが つぐないをしたほうがよいと思いますよと。  つまり いまのところ 相手に言ったりするのは あやまちとその償いのほうです。  と言っても このように考えながら では この考えが いったい どこへ向かっているのか。こう考えると なかなか むつかしくて 分からなくなったりするのですが。  それと おおまかに言って この場合  ★ 罪人には悪と断罪される転落の道と許されることの二つの道があります。  ☆ この点については――その内容にかんしてではなく―― その内容を 相手にあてはめることは しないと思います。つまり あやまちとその償いの線でのみ 相手に対しては 言葉をかけることになります。  ★ 人間も許すことが出来ると思いますよ。  ☆ きれいさっぱり 赦すと言えるかどうかは 心もとないです。その代わりに 赦さないとも言わないのですが。そういう構えでいます。

noname#117439
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回答No.16

オコリザルです。 * 罪は あやまち そして さばきは つぐないの勧めと それぞれ 言ったほうがよいでしょうか。 悪ゆえに裁かれるのか、罪ゆえに裁かれるのか。 この点ははっきりしているのでしょうか。 はっきりと分けたほうが良いです。 いずれも「許せる」と言う気持ち、又は、「許したい」と言う衝動、これを人間は等しく内包しています。 この点は積極性を発揮するかどうかの個性でしかありません。 「嘘」とも関わります。 なんなんでしょうかね。

noname#80116
質問者

補足

 直前のご回答とは 話が変わりますね。  ★ 悪ゆえに裁かれるのか、罪ゆえに裁かれるのか。 / この点ははっきりしているのでしょうか。 / はっきりと分けたほうが良いです。  ☆ 《悪 / 罪》については 一般的な言い方に合わせたものです。ほんとうは 《善の損傷 / あやまち》と言いたいところです。  さばき つまり 《つぐないの勧め》は 実際の観点としては 《こうむった被害のゆえに》です。《悪(つまり 善の損傷) / 罪(つまり あやまち)》にかんしては それぞれ 一人ひとりが 自己の内面において 捉えることですし 反省することです。ですから 全体として 問題の中に入っては いるのですが 直接に問うては いません。  たとえば 異端の信徒を迫害し 殺しています。そのように 他者に損害を与えたことに関して それは あやまちであると考えられ 或る意味で第三者でありながら つぐないの勧めをするという趣旨です。  ★ 〔悪あるいは罪にかんして〕 いずれも「許せる」と言う気持ち、又は、「許したい」と言う衝動、これを人間は等しく内包しています。  ☆ たぶん 軽い傷や損害であれば 《赦そうか》という気持ちがはたらくと思いますし あるいは 逆に 重い損害である場合にも かえって 《赦したほうがよい》というような気持ちが芽生えることもあると考えます。  ★ 「許せる」と言う気持ち、又は、「許したい」と言う衝動  ☆ とは 表現も違っていますし 実際 その内容も 違っています。考え方やものごとの感受性として違いがあるゆえかと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この点は積極性を発揮するかどうかの個性でしかありません。  「嘘」とも関わります。  なんなんでしょうかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから この点では 見解の相違が 作用しているようですね。  悪や罪は 個人の内面におさめたかたちを わたしの場合 基本とします。加害行為つまりは被害について そのつぐないをすべきだと考えますし その点を 話に出して 迫ります。  したがって そのあやまちを わたしは 赦します あるいは 赦しませんというように 言ったりしないという見解でいます。赦しは 本人自身の問題だという捉え方です。    もう少し ぶっちゃけた話をしますと 教会は 勝手に人を殺したのですから とうぜん そのあやまちに関して 自分を赦せないだろうと 推し測っているのが わたしです。そのように他人の内面にも 手をつっこんでいます。いるのですが 卑怯だと見えるかも知れないにもかかわらず その内面のことには触れません。問題を 一般に 表に現われた加害行為にしぼります。そのとがに関して つぐないをすべきだという話を 持ちかけているのです。二百年 謹慎しなさいと。つぐなわれたと 社会一般から見て 思われたときに あらためて 結社を持てばよいという意味です。  悪・悪意・罪・赦し この系列の概念とは 大いに 関係してはいるのですが 直接には 他者に対しては 問うていないという構えになっております。  ご批判・ご見解をどうぞ。

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    都内で、同性愛者である自分をそのままで受け入れてもらえるキリスト教会を探しています。 個人的には、日本基督教団の霊南坂教会や、聖公会の聖アンデレ教会が気になってるのですが、これらの教会はゲイである自分をそのままで受け入れてくれるでしょうか。 もし、この両教会が現在のところ同性愛者に門戸を広げられていなかったとしたら、他にゲイOK!な教会は都内にはどこになるのでしょうか? 「同性愛は罪である」等、自分じしんを激しく否定される教会に間違えて行ってしまうのが怖くて、悩んでいます。 ご存知の方、よろしくお願いします。 ちなみに上の2つの教会を挙げたのは、今まで調べた中で、それぞれの教会が属する同志社・組合教会系列や聖公会系列といったところは、比較的同性愛(者)が受け入れられやすいということがつかめたのと、歴史と格式がある教会である、という2つの点から、興味を持ったためです。 あと、将来的には、形だけでも良いので同性結婚を祝福していただける教会だとうれしいです。

  • キリスト教会に人が来なくなる理由はなにか

    キリスト教会に来て洗礼を受けても、3年くらいすると もう教会に来なくなる人がほとんどです。 なぜでしょうか? 私はヒトが教会にこなくなるのを残念がるよりも 「今の教会ならば来なくなるのが当たり前で、教会に続けてきている ヒトのほうがおかしいのだ。」と思っています。 イエス様の周囲にも無理に集まってたヒトはいなかったはず。 またクリスチャンは仏教のことを、「偶像崇拝」、「葬式仏教」と馬鹿にしている ふしがありますが、よくみてみると日本の仏教というのは芯があって、かえって「普通のヒト」の悩みを感じ取ってくれています。 キリスト教会は、終末期医療とか自殺者とか「特殊なヒト」に注目しますが、「普通のヒト」の悩みを感じ取る感性がないのではないでしょうか??

  • プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教

    プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教関連の本は結構読んでいますが,キリスト教の教義というか,根本原理(精神)等が未だに理解出来ません。取り敢えず下記の疑問点に付いて教えて下さい。*キリスト教で云う贖罪(罪を贖う)と罪を償うとの基本的な違い。*又イエスは十字架で処刑される事により人類の罪(原罪)を贖ったと云われていますが,この場合の人類とはクリスチャン以外の人(例えば仏教徒・イスラム教徒等)も含まれるのか。*前に述べた「原罪」はキリスト教徒以外の者にも有るのか*「贖罪論」・「原罪」等は聖書のどこに記述されているのか。以上宜しくお願いします。

  • イエス・キリストは救世主と言いますが何を救ったのですか?

    イエス・キリストは救世主と言いますが何を救ったのですか? 映画や本を読んでもいまいちわかりません。 当時の権力を脅かすような活動をしたから代表ではりつけになっただけのように見えます。 第一、死んでしまったら救いも何も無いと思うのですが、直接的に何かを救ったということではなく、精神的に救ったということでしょうか? はりつけにかけた人達もとがめられることなく普通に暮らしてるんですよね。 病人を癒したりしたのは直接的な救いですが、それでもごく一部の人間ですよね。 権力を脅かし代表で罪を背負わされた人は歴史上いくらでもいると思いますが、イエス・キリストの場合は何で宗教にまでなり世界中に広まったんですか? 何が偉大とされてるんですか?

  • キリスト教を信じておられる方に質問です。

    キリスト教を信じておられる方に質問です。 下のような疑問に対してどう考えられているのでしょうか。 (1)神とは何でしょうか。絶対唯一神がすべてを造った。そして神は全知全能、完全であり 愛であり、善である、等等いっておられますが、その存在の因果関係、神の実体は全く 明かされていません。もし本当に完全な神が私たちをつくったというならば何故、生まれながらの 不平等や一生、不幸の宿命に泣く人がいるのでしょうか。 (2)キリストの贖罪愛で地上の罪は消えたはずなのに、いっこうに減らずますます複雑多元化している 事実。 (3)キリスト教では、よう信仰が深まれば死に 直面しても驚かないとか、不安に耐えうるとかいってるが、それはすべて あきらめの結果であるのではないか。 (4)キリスト教には現実の生活を変える力がない。生活の 苦悩をいいわけする論理をくみ上げてあるだけである。 現世の宿命すら 転換することができないのだから、まして天国などという来世の保証など およびもつかぬ話である。というのに反論できるのでしょうか。 (5)宗教の究極である生命に関して、 紀元前4年に誕生したキリストの母は、処女マリア、 父は神であったという。 そして三十歳ではりつけになったキリストは、三日目に 復活し、1ヶ月後には昇天したとしている。 たんなる科学の常識から考えても、 まことにバカらしい話であるが、キリスト教では、これをそのまま信じている人も あれば、宗教上の一表現として、合理化した解釈をたてたりしている。 しかし どんな理屈をつけようと、宗教の教義は万人の納得する普遍妥当性のある哲学 でなければならない。仏法は生命とは何か、死後はどうなるか、原罪の幸、不幸はなにによって決ま ったのか。 こうしたらあらゆる生命の状態を、因果のうえから解き明かし、そのうえ で原罪の宿命を打開し未来の宿命を開いていこうとするものである。仏法に劣る教義ではないか。 (6)敵を愛せよというキリスト教が、教会に対立したガリレオ等、多くの科学者を迫害してきた事実。 (7)日本のキリスト教の町、長崎に、真っ先に原爆が投下されたこと。 (8)日蓮大聖人は竜の口で命におよぶ難に勝たれたが、キリストの死は悲惨きわまる横死であった。 (9)キリストの予言は1つよして実現していない。 (10)世界教会運動が提唱されているほどの内部不統一は、教義が無力だからではないか。 (11)清貧、精神愛を説きながら、ローマ法王庁が示してきた膨大の権力、圧政の歴史ついて。 (12)キリスト教各派中どれが正統主義のキリスト教か? 他派はみな邪義をかまえ、キリストに背く罪深き人になる道理だが・・・・。 (13)法の無力をカバーするために盛んに社会事業を行って民衆を迷わせているのではないか。 拙問ですが、おねがいします。

  • 外国人による日本文化弾圧

    外国人は昔から日本に「教化」や「文明開花」などと宣って、キリスト教を押し付けてきましたが、最近は、西洋文化が日本文化、アジア文化圏に押し付けられるほど優らないことがわかってきたのか、日本文化、アジア文化の放棄をさせるところから始めたようですね。 >外人、熊本県に元号の使用をやめるように提言 はっきり言ってうざいです。お前らが来たんだから自国文化を持ち込むな。お前らが合わせろと思います。侵略者と何も変わらない。 潜在的にアジアを下に見、日本文化を見下してるからこういうことが起こる。表だった差別はしなくなったとはいえ、これは日本差別だ。 と、いうのも、西洋人は、西洋文化圏でないものを未開、野蛮として差別して、侵略してきた歴史があるからです。彼らは歴史の過ちから何も学ばず、いまだにそういった差別意識を持ち続けてる。「日本遅れてるぅ」「日本文化を2020年になっても持ち続けてるなんて野蛮ねぇ」 彼らが言いたいのは結局こういうことでしょ。 キリスト教を盾に他文化を破壊し、他民族を滅ぼしてきた時のマインドセットとなんら変わらない。野蛮なのはどっちなのか。 こういった人たちを日本に来させない方法はないのでしょうか?

  • キリスト教の「遺体」観についての疑問

    こんにちわ 昨日、インターネットの世界びっくりニュースで、ロシアにあるという人骨で華麗なインテリア装飾を施された教会の紹介がありました。 これは咄嗟に、ヒッチコックの映画「サイコ」の原案となった1950年代の「エドワードゲイン事件」と同じ所業を教会が実施したことになるのでは?と思ってしまいました… 数年前にも、スペインにあるというミイラ(檀家信者たちの遺体)が陳列装飾された教会の紹介、というニュースも見たことがありました。 これも、民間(キリスト教の教会は「民間」ではない「特殊機関」だから許されるのでしょうか?)で実施されたら長年月にわたる大変な大規模大量猟奇事件の大犯罪になってしまう訳ですよね… いずれも「美しく遺体を飾る」という、エジプトやインカ文明等からみられる共通の理念ですが、「教会(宗教組織)や国家が実施した場合は供養」で、「個人が実施した場合は犯罪」という位置付けになりますでしょうか? ソビエト連邦時代のレーニンの生きミイラも、このごろは「もうソビエトではないんだから、普通の墓に埋葬すべきだ」との世論と保存派の世論が対立している、ということも聞きました。 世界中に広がって、いろいろな宗派に分派してしまって一概に「キリスト教では…」といいきれない状況かもしれませんが、これらの事実をうまく納得する概念を教えて頂けましたら幸いです。

  • 世界で一番熱心なキリスト教国は?

    私は10年ほど前イギリス(イングランド)を訪ね、その答が 1.ポーランド、2.アイルランド、3.韓国 ではないかと思いました。 理由は、イギリス人、ポーランド人、韓国人と4人で教会のミサ参列した時、私(日本人)とイギリス人は聖体拝領(キリストの体に擬した聖なるパンをミサの中で頂く儀式、聖餐式ともいう)のために神父様の前に進み出たのに、あとの2人(ポーランド人、韓国人)は進み出ようとせず、「最近、告解(懺悔)もしてないのに、聖体拝領は受けられない。」と言ったことです。 私たち、日本のカトリック信徒の常識としては、年に2回ほど、イースターとクリスマスの前には告解をして足れりと思っていますが、この2人にとって、最近告解をせず、罪を清めてもらっていない分際で、聖体拝領をするなんてとんでもないということだったようです。 まあ、この話はさておき、冒頭の質問に戻ります。 私の挙げた3つの国はいずれもカトリックの国ですが、プロテスタントの国も含め、最も熱心ないし厳格なキリスト教国を教えて下さい。

  • キリスト教の人との結婚について質問があります

    とりあえず、プロフィールから 私は海外で勉強している日本人の学生です。 彼女 :香港出身 :キリスト教(プロテスタント) :アニメオタク :ヤンデレ?? :私より一つ年下 今は付き合ってもうすぐ1年になります。 結婚するには数年歳がまだ足りないんですが。たま~にキリスト教に改宗して欲しいと言ってきます。 理由を聞いてみると、キリスト教になってくれないと結婚できないって言ってくるんです。 それまたなぜ?と聞くと、、聖書に書いてあるからと。。。 今の時代そんなこと言われるなんて思ってもいませんでした。 彼女がそう考えるのには少し理由があって、彼女の両親がキリスト教なんです。しかもお父さんが牧師?さんです つまり彼女の両親も同じことを考えていて、私のことをあまり良く思ってないらしいです。 最近私との交際がバレたらしく、この前キリスト教の子と付き合いなさいと言われたらしいです。 改宗するかどうかは今はまだわからないけど、彼女に私なりに意見を言わせてもらいました ’’私達すべての人間が同じ意見とか宗教とか持たないよね?あなたが好きなものが必ず私が好きってことは無いよね。 改宗することをには少し抵抗あるけどできるだけ教会に行って理解を深めたいと思う。でも私は日本人で小さい時から昔話や神話を聞いてるから一神教になるっていうのはちょっと無理かも、でもキリストの教えっていうのはすこし興味があるかな。 お互い愛し合っていれば宗教なんて関係ないでしょう?’’ ↑のように言いました。分かったと彼女は言ってくれましたが、ちょっと微妙ですね。 そこでなんですが、質問です。 やはり聖書にはキリスト教を信仰するもの同士でしか結婚はできないと載ってあるのか? キリスト教の人に非キリスト教は差別されているの? これからどのように彼女と付き合っていいのか? それとも異なる宗教同士の結婚、交際は無理なのでしょうか?。。。 この出来事から、キリスト教というものに嫌気というかマイナスなイメージが私の中にできてしまいました。 キリスト教とは一体どういうものなのか教えて頂けるとうれしいです。 宗教の話題が出ない限り彼女とは普通にアニメの話をしたりしてお互い愛しあってます。 女の子にとって結婚は夢なんでしょうけど、そういう話はすこし早いですよね。。。 文章読みにくいですけど、解答よろしくお願いします。 わからない点があれば、追記します

  • キリスト関連の職について質問があります

    キリスト関連の職について質問があります 私は現在高校1年生です 進路を考える中でキリスト教に興味が湧いてきましたがまだまだあいまいなイメージだけで具体的な職というのがわからないです もしそちら方面の道に進んだ場合どんな職業があるのか教えてください(私のイメージだと神父とか歴史研究家とかが想像の限界です) それと高校のうちに少しでもそちら方面の知識を独学でつけるにはどうすればいいでしょうか?(高校は普通の公立です) お願いします