解決済みの質問
(1) 薩摩藩の勢力図
私が生まれ育ったのは、因幡藩(鳥取県)です。 ここのお殿様池田治道候の娘周子が薩摩藩の名君島津斉彬候のお母様です。 また、斉彬候の弟君の斉敏は岡山藩に養子に入り、藩主となっています。 妹の候姫は佐賀鍋島藩主の下に嫁ぎ、大変な賢夫人として明治維新後も活躍しています。
薩摩藩は西日本に大きな影響力を持っていたのです。 長州を攻めようとしても、簡単に同意出来ないほど薩摩藩が大きな力を持っていたことが判ります。 いざ長州へ向かおうとしても、途中の因幡鳥取藩と岡山藩がにらみを聞かせており、近畿以東の藩は手出しが出来ません。 九州だって佐賀鍋島藩が縁続きでにらみを利かす。
(2) 長州征伐と言っても、積極的に動けるのは
長州藩のある中国地方で幕府の味方は、親藩である雲州松江藩くらいのもの。 西日本の雄藩は、殆ど外様です。 彼らに出兵を要請しても、薩摩藩が《NO》と言えば、これを無視しては動けない。 結局、様子見に徹することに。
要するに、幕末になると、徳川幕府の権威は地に落ちていたのです。 江戸城のある江戸を中心とした関東はいざ知らず。 西日本では元々外様藩の力の方が強かったのです。 ここに西日本の外様の薩摩、長州が同盟を結んだ以上、パワーバランスは完全に逆転です。
(3)当時の日本の西洋との窓口長崎は薩摩と長州を積極的に支援
徳川幕府にはフランスが、薩摩と長州にはイギリスがついていました。 グラバーが資金援助し、坂本竜馬の海援隊のパトロンであり、長州の若い藩士の英国留学に尽力しています。
誰が見ても、薩長軍が圧倒的に有利。 当時の世界で最強のイギリスまで味方につけていたのですから。
投稿日時 - 2008-10-30 22:10:28
お礼
ご回答ありがとうございます。実はいろいろな藩が親戚であったよはビックリでした。参考になりました。
投稿日時 - 2008-11-03 03:25:28
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ベストアンサー以外の回答(1件中 1~1件目)
他藩と言っても、軍事力としての戦力を出してもらうのが目的ですから、せめて30万石程度ないと意味がありません。
広島藩は慶応3年(1867年) 10月8日に薩長と組んでいます。
倒幕の一翼をしっかりになっていました。この藩は藩主と家老辻将曹のもとに中央集権化を図っており、辻将曹が攘夷派であったため、幕府の力さえ落ちればすぐ寝返ったと言うことだと思います。
備前藩は、基本的に藩全体としては日和見主義で、その内情は藩内で佐幕派と討幕派が激しく争っています。鳥羽伏見が決してから新政府軍に合流しています。
投稿日時 - 2008-10-25 22:38:11
お礼
なるほど、参考になりました。西国は外様だらけですからね。
投稿日時 - 2008-11-03 03:26:29