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幕末の攘夷派と開国派について

komesの回答

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  • komes
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回答No.6

No5です。 最初のご質問からかなり踏み込んだ質問に変わりましたので私の回答では説明不足だったと反省しています。 大政奉還は徳川慶喜が打った大芝居で世上の予想を超えたものでした。 これは徳川幕府の発達した官僚制度を頼み、大政奉還しても朝廷は実務上徳川幕府に頼らざるを得ないと予測していたのです。 そこで政治総裁(首相のような地位)を維持できると期待していました。  一種の徳川幕府存続の奇手であったわけです。 しかしこれが討幕という事態の引き金に進んでしまったわけです。 その手段としてはその意思をもつ有力諸藩の結集が必要でした。 坂本はこの情勢を見て勤王の意思が強い長州と、軍事力は強大な薩摩の結合を図ることが必要と考え両者の仲介に乗り出したのです。 確かに坂本の現状打破の思想からして当然の帰結とはいえその政治力はすぐれていました。 しかし彼には内戦にまで進むのではなく平和裡にことが進む希望があったのではないかと私は考えたいです。

taka1012
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 仰りたいことがわかりました。

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