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幕末の攘夷派と開国派について
caesar-x2の回答
- caesar-x2
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幕末思想は大きくわけて、国体問題で尊皇と佐幕、公武 そして外交問題で攘夷と開国がありました。 この組み合わせ、つまり6パターンで、だいたい幕末の志士の立場は分類されます。 これは基本的なことなんで覚えておいたほうがいいでしょう。 1: 坂本竜馬は、国体問題ではあまりはっきしてません。 一時期、尊皇攘夷に傾いたこともありますが、 尊皇派とは袂をわかっています。武力倒幕で民衆が苦しむのを嫌ったので、 師匠の勝海舟と同様、公武派とみなされることもありますが、 単に開国派だったというのがじつのところでしょう。 薩摩藩は、佐幕開国(斉彬)→佐幕攘夷(久光)→公武攘夷(久光上京)→公武開国(薩英戦争後)→尊皇開国(久光公武断念後)と 幕末の動乱の進む過程で立場を変えています。 2: 長州藩は、強烈な尊皇攘夷派でしたが、下関戦争の敗北後、 尊皇開国派へ変わって倒幕へと推し進んでいきました。 人物でいうと、吉田松陰、久坂玄瑞から、 高杉晋作、桂小五郎への移行ということです。 3: 朝廷の人々は、そもそも内裏の外のことですら疎くて、 京都の情勢もよく把握してませんでしたから、 攘夷といっても何の根拠もない主張でした。 彼らはまったく浮世離れしていて、いうことは考慮する必要はありません。 4: 佐幕攘夷はけっこういます。代表はやはり新撰組でしょう。 新撰組は、攘夷のために集められた浪士隊のなかの佐幕グループです。
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ご回答ありがとうございます。 とてもわかりやすい解説に感謝いたします。