- ベストアンサー
幕末の攘夷派と開国派について
komesの回答
- komes
- ベストアンサー率29% (147/494)
幕末の思想を2つに分けて理解するのは少し短絡的ではないかとかんがえます。 尊皇開国派も佐幕開国派もいました。 いろいろな思想が混在し、また流動的でした。 薩摩藩も同様で藩主は佐幕派に属しましたが攘夷、開国についてはどちらかといえば中立といえましょう。 坂本は郷士身分からの上昇を狙い明確な思想は持っていませんでしたが、現状打破が彼の思想でした。 しかし種々の交友から次第に成長し、どちらかといえば政治よりも経済活動の方向に進路を定めていった様です。 したがって分類するとすれば公武合体開国派といえましょう。 長州は公武派と尊王攘夷派が混在していました。 後に後者が主流となりましたが外国との戦争に敗れて開国派に鞍替えしました。 朝廷はなんの定見ももたず、右往左往するだけでした。 ただ孝明帝は強固な攘夷思想でしたからこれに引きずられて尊王攘夷を叫んでいました。 諸藩では佐幕が多かったし、攘夷を唱えるほどの武力はありませんでした。 長岡藩や佐賀藩は国産や輸入による近代武装を初めていましたが思想的には開国派でした。
関連するQ&A
- 幕末の各勢力の立ち位置について
黒船が来航したことで、幕府は開国をしましたよね。 それに反対する形で、薩摩・長州などが 尊皇攘夷を唱えて対立したのが、幕末の始まりだと思います。 でも、薩摩や長州が外国との戦争で負けたことをきっかけとして、 開国に主張が変わったのに、その後も倒幕運動が行われたのは どうしてなんでしょうか? スローガンが尊皇だけだと、倒幕の根拠が薄いような気がします。 なぜなら、幕府は朝廷と対立したのは幕府が開国したためで 尊皇を唱える薩摩・長州も開国に主張を変えたなら どちらも、朝廷と対立する立場になると思うからです。 個人的には、関が原の戦い以降の毛利・島津の恨みが根底に あって、尊皇や攘夷は口実に過ぎないと思ったりもしたのですが。 どうなんでしょうか。よろしくお願いします。
- 締切済み
- 歴史
- 日本開国後の攘夷思想
幕末に興味があり、現在少しずつ勉強中の者です。 『幕末の日本では大抵の人は外国を撃ち払おうという攘夷の考えを持っていた』と様々な本やサイトで見るのですが、明治新政府の人物というのは攘夷思想は持っていなかったのでしょうか?持っていたのだとすれば、その後の日本の外交に少し疑問を持ってしまうのです。 幕末に出てきた人々は、例えば桂小五郎等の尊皇派にしろ新選組等の佐幕派にしろ、「攘夷」という点では目指すところは同じだったのですよね? 明治新政府のメンバーの中には勝海舟のように外国に良い感情(?)を持っていた人も居たのかもしれませんが、大半はそれまでは攘夷思想の持ち主だったはずです。なのに明治になってからは「攘夷」という言葉はほとんど出てこないのです。それは一体何故なのでしょうか? 私の考えられるところは… とりあえず、国を外国から守るためには逆に外国の技術を自らの物にし、国内の戦力を高めなければならない。(坂本龍馬の思想が確かこんなだったはず…) →そのために政府上部により「攘夷」の考えを削がれた。 →その結果、攘夷思想は薄れていった。 といったところなのですが、勉強不足で本当のところはどうなのか良く解りません。 長文になってしまい申し訳ありませんが、明治新政府の思想について詳しい方、少しでも情報をお持ちの方は是非回答お願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 尊王攘夷運動について。(中二
教科書に、 1863年、尊王攘夷運動の高まりをおそれた幕府は、 天皇や薩摩藩の支持を取りつけ、京都から急進派の公家や長州浪士を追放し、 翌年には、長州藩を攻めて屈服させました。 と書いてありましたが、どうして天皇は、自分と開国反対派の長州に攻撃したんでしょうか? 意味がわかりません。
- 締切済み
- その他(学問・教育)
- 幕末の志士達自身の思想とは?
長州藩は連合艦隊の攻撃によって攘夷思想から開国思想へ変わりましたが、桂小五郎や高杉晋作自身はそれより以前黒船来航時から開国思想の人物だったのですか? 一方久坂玄瑞はコテコテの攘夷思想だったのですか? また薩摩側の西郷隆盛や大久保利通はいつから開国思想をもったのですか? やはり、黒船来航時からですか? それとも薩英戦争後からですか? 色々とぜひ教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 幕末の攘夷思想はどこからきたのでしょうか?
16世紀の南蛮貿易が盛んに行われていた時代には過激な攘夷思想はなかったと思われます。 しかし、幕末に黒船がやってくると日本中が攘夷に湧きかえります。 当時江戸にいた青年坂本竜馬も父へ「黒船に斬りかかって、追い払えないのは残念だ」というような趣旨の手紙を出しています。 思想的にまだ無垢であった青年竜馬はどうしてそのように思ったのでしょうか? 日本は神州で、異国人は野蛮だという一種の神道思想が一般に信じられていたのでしょうか? あるいは仏教でしょうか。 それとも、黒船が武装していたから脅しととらえ、反発しただけなのでしょうか? 黒船が武装せず、友好的にやってきただけなら、攘夷思想は起こらなかったのでしょうか。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 尊皇攘夷
今司馬遼太郎の本を読んでいますが、もともと脳のキャパが狭いので少々混乱しております。 幕末~明治維新の時代において、「尊皇攘夷」はひとつのキーワードだったと思いますが、きちんと理解できていないので助言いただきたいと思います。 (1)まず、尊皇攘夷の意味について。 天皇を敬い、夷敵(アメリカなど)を排する事 と理解していますが、あっていますか? (2)幕末において、攘夷派の志士(薩長土)が明治維新を起こしましたが、「尊皇攘夷」を唱えていた彼らが明治維新を成し遂げたあと、「攘夷」であるはずが開国に踏み切ったのはどういう訳なんでしょうか? (3)新撰組の近藤勇も「攘夷」派だったらしいですが、これはどういうことでしょう? 彼のような左幕派も「攘夷」を掲げていたのでしょうか? (4)また、同時代において水戸藩は左幕派の代表として薩長土と戦いましたが、水戸といえば元は「尊皇攘夷」思想の総本山だったのではないでしょうか? いつの間に攘夷志士と戦う左幕派になったのでしょうか? かなり誤解して覚えている部分もあると思いますので間違いを指摘していただけたら嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
- 締切済み
- 歴史
- 長州藩の尊攘派の攘夷
恐らく似たような質問があるかと思われますがあえてこの場で質問をさせて下さい。 私は尊王攘夷の思想の意味は分かりますが長州藩の尊攘派の攘夷は土佐藩や水戸藩とは違っていたと聞いており、それが以下のような事で合っているのか伺いたいと思います。 ・吉田松陰は尊攘派として有名だが開国派の佐久間象山を師事している うえ、西洋の文化にも興味があったことから実は開国派である。 ではなぜ、幕府の開国を批判したのか? それは幕府が開国をする際にアメリカと結んだ条約があまりにも日本 にとって不平等で、しかも天皇の勅許も得ないまま結んだので吉田松 陰としてはそんな腰ぬけな幕府を批判した。 さらにこんな不平等な開国に対しては攘夷だ!という事で尊攘派とし て運動した。 開国するならするでちゃんとお互い対等な条件と勅許を得た上で調印 しろ!といった感じで。 ・よって吉田松陰の弟子にあたる長州藩の尊攘派の中心、桂小五郎や高 杉晋作や久坂玄瑞なども表では攘夷とさけびながらも実は攘夷などは もう無理でいずれは開国し国力をつけなければと思っていた。 しかし、今回の幕府が行った開国は不平等であるので攘夷を実行し た。 不平等な条約での開国は反対という事で攘夷を唱え、実行していた。 ・しかし、その攘夷を実行して4カ国艦隊でやられ結局そのまま開国へ と変えた。 この概要であっておりますでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
ご回答ありがとうございます。 >しかし種々の交友から次第に成長し、どちらかといえば政治よりも経済活動の方向に進路を定めていった様です。 私の知識では、坂本竜馬は薩長同盟や大政奉還をすすめた経緯を踏まえれば、彼のとった進路は経済活動かもしれませんが、根底にあったのは政治というか「日本の将来」であった考えます。