- ベストアンサー
天璋院篤姫の最期の所持金はなぜたった3円だったのか?
- 天璋院篤姫は徳川家や家達からの援助で生活していましたが、最期の所持金はなぜたった3円だったのか疑問です。
- 家達は立派な人物であり、留学や公職など多くの活動を行っていました。しかし、天璋院篤姫が最期の所持金に困っていた理由は何でしょうか?
- 天璋院篤姫の最期の所持金がたった3円だった理由について疑問が浮かびます。徳川家や家達からの援助はあったのか、それとも援助したお金はすぐに使い果たされていたのか気になります。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
関連するQ&A
- 「その時歴史が動いた」で天璋院篤姫を演じている人は?
1月16日のNHK「その時歴史が動いた 大奥 華にも意地あり~江戸城無血開城 天璋院篤姫~」の再現ドラマ中、天璋院篤姫を演じている方はどなたでしょうか? 和宮は吉井怜さんだと思うのですが…。
- ベストアンサー
- 各種テレビ番組
- 「篤姫」の出演者で・・・
こんにちは。 今放映中の大河ドラマ「篤姫」の出演者ですが 晩年に養育した徳川家達役は、誰がやるんですか? できれば子役も大人の方も教えてくださるとありがたいです。
- ベストアンサー
- ドラマ
- 江戸時代の石高制について(篤姫)
江戸時代の石高制について教えてください。 今、BSで再放送されている大河ドラマ「篤姫」を見ております。無血開城後、 徳川家は新政府から駿府で70万石との沙汰を受けたとのドラマの展開です。 ドラマですので言い渡された「70万石」は正確には諸説あるのでしょうが、そんなに 大差はないと思いますが、知りたいのは徳川家が最も繁栄した時代に石高はどれ ほどだったのでしょうか? また大政奉還した(篤姫で言う「無血開城」した)直後はどれほどの石高だったのでしょうか? あと根本的な質問ですが、石高とはそもそもどのようなものでしょうか? 色々調べると「人間が一年間に食べる米の量を基準に設定されたもの」と書いてあり約150kg。 「1石=10斗=100升=1,000合」との記述もありました。 そもそも「加賀100万石」「島津77万石」などと時代劇や書籍で出てきますが、これらは その藩の米の生産量を表しているのか、又はその藩の人的な規模やその藩の穀物など の生産性を表しているのでしょうか? それとも今で言う「各都道府県の税収や人口規模」、「世界におけるGNP」などと同じ意味 合いなのでしょうか? 加賀100万石というのは「米などにそれだけの生産性がある=藩に入るお金が多い=人口も 多く兵力もある」という事なのか、ただ単に本当に米の生産量のみを表して、その藩の力 (権力の大きさ)などはまた別なのでしょうか? ドラマでは「70万石」に減らされたことで、徳川家が食べて行けず大騒ぎしている様子が描か れていますが、これは今までの徳川家の規模(人口)のまま米の生産量が低くなると食べてい けなくものが出てくるという事と共に、その分藩の人口も減らされる(自然と減ってしまう)という 事でしょうか? 一般的にいう「石高」と時代劇などでいう「石高」は違うものと考える方が正確なのでしょうか? 無知で恥ずかしいのですがお教えください。 よろしくお願い致します。
- 締切済み
- 歴史
- 何故、徳川家基は綱吉の霊廟に合祀されているのか?
何故、「幻の第11代将軍」と言われた徳川家基は、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%86%B2%E9%99%A2%E9%9C%8A%E5%BB%9F (↑)この上記のページによれば、常憲院霊廟は、 被葬者 常憲院(5代将軍、徳川綱吉) 以下の将軍等が合祀されている。 有徳院(8代将軍、徳川吉宗) 温恭院(13代将軍、徳川家定)、天璋院(家定正室、篤姫) 孝恭院(徳川家基) となっています。 そこで疑問があります。 将来の第11代将軍として期待されていたが、夭折し、「幻の第11代将軍」とも言われた徳川家基は、 何故、その父の10代将軍・徳川家治と同じ、徳川家綱の厳有院霊廟ではなくて、 徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? 「徳川家基が突然亡くなった時、父・家治は、自らの後継ぎがいなくなったため、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだという。」そうですから、 徳川家治は『徳川家基を自分と同じ所に合祀したい。』と思ったはずだと思うのですが。。。 しかし、実際は、 徳川家治は、徳川家綱の厳有院霊廟に合祀されているのに、 その子の徳川家基は、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されています。 因みに、実際の11代将軍・徳川家斉は、家治と同じ家綱の厳有院霊廟に合祀されています。 だから、交互の順だという理屈は成り立ちません。 何故、徳川家基は、家治とは別の、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? 徳川家基が、徳川家治とは別の、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されている、考えられる理由を教えてください。 <参考> 徳川家基 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%9F%BA 常憲院霊廟 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%86%B2%E9%99%A2%E9%9C%8A%E5%BB%9F
- ベストアンサー
- 歴史
- 勝海舟の人物像
幕末・維新の簡単な通史を読むと、勝海舟について、概略、以下のようなことが出てきます。 (1)ペリー艦隊の来航(いわゆる黒船来航)時に、海防に関する意見書を提出した。 (2)幕府の遣米使節派遣時に、護衛と言う名目で咸臨丸も渡航し、遣米使節の補充員として乗船した。 (3)徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身で談判に臨み長州の説得に成功した。 (4)明治元年、官軍の東征が始まると、旧幕府方を代表する役割を担う。早期停戦と江戸城の無血開城を主張、歴史的な和平交渉をなしとげる。 (5)明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。 しかし、何故か、勝海舟の人物像というのが浮かんできません。勝海舟を主題にした小説を読んでいないからだと思いますが、幕末・維新史への登場が断片的な気がするのです。 ウィキの記述や参考書から、その人物像の一端を、私なりに整理してみました。(下記) (1) 幕府の要人でありながら、明治32年まで生きたということは、それなりに世渡りが上手かったのか?そのことが、関連するかどうかは分かりませんが、旧幕臣の代表的人物でありながら、なぜか榎本武揚をはじめとした旧幕臣からの信頼も薄いようにも見受けられます。徳川慶喜の信頼は厚かったようですが。 (2) 『明治維新後改名して安芳。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。』……発言の意図は分からないが、多少のユーモアのセンスがあるのか?あるいは、卑下しなければならないような理由・経歴があるのか? (3) 神戸の港湾としての発展を見越して、付近の住民に土地の買占めを勧め、勝自身も土地を買っていた……お金に無頓着ではなかったということか? (4) 徳川家の取扱いに関する交渉に当たり、江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。……外交的、戦略的センスがある人物か? (5) 旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い妨害している。……幕府の要人であったにもかかわらず、このような行動をするということは、彼の活動の中に、何か後ろめたいものがあるのか? (6) 「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。……(4)とも関連するが、適切な表現が見つかりませんが、「見栄っ張り」の性格を持っていたのか? ここで質問なのですが、 (1) 勝海舟の人物像として、上記の(1)~(6)について、どう思いますか? (2) 勝海舟の人物像について、あなたが知っていること、考えていることを教えて下さい。 (3) 勝海舟の人物像がよく理解できる小説をご存じであれば、紹介して下さい。 ご回答は、上記(1)~(3)の一つだけでもかまいません。
- 締切済み
- 歴史
お礼
ありがとうございます。 大変参考になりました。