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こういった哲学、無について

私には単純に無というものが理解出来ません。 私が生きているからでしょうか。 無です。無という概念がは何をしたって理解出来ません。 完璧な無とは0でしょうか。 もしかして理解出来ると考えているほうがおかしいのでしょうか。 哲学は特には詳しくありません、著名な哲学書は読んだ事があります。 1、無を深く扱った哲学があれば、教えて下さい 2、貴方自身の無に対する考えをお聞かせ下さい。 どちらか一方のみでも結構です。

noname#71328
noname#71328

みんなの回答

noname#91067
noname#91067
回答No.14

「無」の哲学といえば中国からは老荘思想ですね。 日本からは「武士道」でしょうか。 老子はありのままの真理を追究することを薦めました。 是非や善悪の常識が真理の求めかたを誤っている。 真理の求め方の捉え方はどのような点で誤ちをおかしているかと 「道徳径」という警句集にまとめています。 老子の「言葉によらない直感の哲学」で 人間の持つ言葉の不完全性、常識的思考法の欠陥がその原因になっていて、 人間は混沌としたものを、そのまま知識の対象にすることは出来ないので、 必ずこれを分断することによって「わかる」ものとすることをする。 一つのものを断ち切ること、 もともと一つであるものを二つに分断するというのが 人間の思考法の特徴として、このような分断という人為を加えることは、 ありのままの真理を傷つける恐れはないであろうか。 それは人為によって真理を曲げることである。 常識では一つの空間を此処(ここ)と彼処(かしこ)、 前と後ろ、右と左というように二分する。 そして此と彼という場所の区別が実在するものとして信じている。 だが果たしてそうであろうか? 人間は自分を中心にして勝手に前後左右といった差別を 作りあげているのである。 もしそうした差別を捨てればありのままの空間に差別はなく、 ただ一つであることがわかるであろう。 同じことは是非や善悪というった価値の差別についてもいえる。 もっとわかりやすいのは美醜の差別で 美人というのは人間に対してのみある相対的な存在に過ぎず、 人間以外には美として通用しないことがわかる。 人間以外の或いは、人間以上の立場に立つなら、 一挙に判断は雲散霧消してしまう。 この万物斉同の立場に達するには差別する人為をなくすこと。 つまり無為ということが必要である。 この万物斉同の立場から見えば常識の世界に満ちている あらゆる相は全て否定され、消失する。 全ては一つであり、全て等しい。としました。 ただ一つ、すべての相対差別のうちで最も根本的なもの、 すなわち有と無の対立について確かめる必要がある。 老子は「有は無より生ず」といった。 その場合の無というのは、有に対する相対無ではなく、 有を包み込む絶対無であり、正確には「無限」を意味する。 しかし、老子はこの無限の世界に足を一歩踏み入れただけで、 その解明には不十分であり不徹底であった。 荘子はこの点をさらに深く突き止めようとし、 万物の始めに無をおくのはおかしいのではないか、 もし、あくまで「始め」というものを固定した一点として捉えるのは 「始め」がまだなかった始めを考えなければならず、 更には「その始めがなかった始め」がまだなかった始めを考えなければならない。 そうすると「始め」というものは無限の彼方に後退してゆくことに なるだろう。 「固定した無」をおくことは誤りであることがわかる。 それでは万物の始め、万物の根本となるものは何か? 実は無限そのものでなくてはならない。  このように無限は、無限の有をそのうちに包容するから無ではない。 しかし、無限は有でもない。 なぜなら有は有限であるのに対して無限は逆だからである。  このような無限者の対立を超えた次元にあるものを荘子は鏡に例えて説明している。 鏡は無色透明でその意味は虚であり、無である。 自らが虚無であればこそ、万物の姿を迎え入れ宿す空間となる。 しかし、これは一物に執着することがない。 荘子はよく虚無恬淡(きょむていたん)であれという。 それは非情の進めであるかのようにみえて、 実は無限者たれというすすめであったようです。 日常生活のうちでも、異質なものを(草木や石等を)擬人化したり、 遠い時間や空間を隔てた存在にさえ想いを馳せることはありますね。 例え瞬間でもそこかしこにあるものと分け隔てなく身近に思えることがある。 西洋哲学は絶対有ばかりでもなくて、 哲学には懐疑や判断の停止(エポケー)もあり、 ありのままを受け入れる無の哲学に繋がっていると思います。 参考文献:「人類の知的遺産5 老子・荘子」(古本屋さんでこれだけ購入) 私の無についての考え・・・というほどでもないですが、 宗教のように理論体系はないものの 実在者によって実践を固辞し受け継がせていた日本の「~道」 というのに興味をもってます。 肉体を持たない神や信仰の福音より、 これこそ実在論の証明であったのでしょう。 厳しさがありながら超楽天的な一面がある武士道には惹かれます。 歴史には(も)疎いですが、新渡戸稲造さんの「武士道」は つっこみどころも多々あるものの、超男らしい~。 しびれてまう(笑) 時代劇DVD見て涙してと、武士はかっけーな! 質実剛健と温故知新を教わり、 無となっても道を残した日本のヒーローは 今の私のストレス発散にも役立て?すごいと思います。

回答No.13

こんにちは。 1.零の発見―数学の生い立ち (全然哲学じゃないですね。) 2. 「無」と「有」についてちょっと考えたのですが、 先に概念として生まれたのは、きっと「有」の方だろうなあ。 暗闇に何かあるな!! とか おっあんなところに麦チョコがあるぞ とか そういう思い出、俺にもあるよ とか うちにはピアノがあるのさ などです。 んで、有る(存在する)状態と比較したときに 「うちにはピアノがない。」と落胆したりします。 目の前にクロワッサンがあったけど 食べたから目の前からなくなった。 1-1=0 うちにはクロワッサンはもとからない。 0=0 という思考法でいくと存在することの比較概念として 無が生まれたのではないでしょうか。 「無」が良く分からないと思いつつも人々はこの「無い」と いう概念をはっきりと心で理解しています。 それを便宜上「0」と考えた人はすごいですね。 この概念がないと数学も物理も成り立たないと思います。 なので「無」とは、それほど難しい言葉ではなくて、 我々が日ごろから感じるあったものが無い状態や 元から無い状態などを示す概念としておけばいいのでは ないでしょうか。 でもそうすると 「すべてが無い状態ってどんな状態だろう」と思います。 んで、自分の周りを見回してひとつひとつ 目に映るものをなくしてみます。 なくなったあとの世界の「色」だけどうなるのか 分からなくなりますよね。 色がないってどういう色だろうとか考えちゃいます。 んでそこで「考えちゃいます。」って考える自分が在ることに 気づきます。 「考える自分も無い状態にすれば、 無いと考えている自分もなくせて全部無い状態ができる!!」 とも思います。 でも考える自分を無くす方法は、私にはわかりません。 素人考えですが参考なれば幸いです。ヾ(・ω・)

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.12

まぁ、見える性質のものさえ観ることなくっていうのは…ねぇ。 と言った感想です。 とりあえずいま認識できるものを全て客観的に妄想捏造をいれずに観察することに挑戦し、成就したら何かわかるかもしれませんね。 サンガ出版の「仏法」やスマナサーラ長老の「現代人のための瞑想法」などを読まれることをオススメします。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.11

>1、無を深く扱った哲学があれば、教えて下さい う~ん、西洋哲学では無より有に重きを置くことが多いので、無そのものを扱った哲学はあったかな~?って感じですけど。 無に一番注目したのは、やはり「実存主義哲学」でしょうか。 とくに、サルトルの『存在と無』が有名ですね。 ただ、これも「絶対無」を扱った哲学書だったかな~?と聞かれると少し記憶がアヤフヤですね。 哲学でも、あまり「絶対無」という概念は使われない気がします。 つまり、「あるモノが無い」ことが「無」なんですね。 当然、「あるモノが有」れば「有」となります。 >2、貴方自身の無に対する考えをお聞かせ下さい。 んと、「無」を考察するときによく混同されるのが、「有の対義語としての無」と「絶対無の存在」ですね。 「有の対義語としての無」とは、「有が無い=あるモノが無い」という意味で、必ずしも「絶対無」を指すわけでは無いんですね。 例えば、「無意識」ですね。 これには、色々と概念があって一定の定義ではないんですが。。。 例としてフロイトの精神分析学での「無意識」ですが、これは「意識してい無い」事なんです。 つまり、「意識はあるけど、(私が)気付いていない部分」を「無意識」と呼びます。 なんで、「無意識の無」は「意識の存在が有る・無い」の「無」ではなくて「意識している・していない」の「無」なんですね。 一方、「絶対無」とは「なにものもない」事なんですね。 つまり、物質的にも精神的にも何も存在しないこと。 しかし、これはタダの「概念」であり人間が作り出した幻想だというのが、最近の風潮でしょうか。 特に、物理学ではもはや「絶対無」という事を定義することはありません。 また、西洋哲学でも「絶対無」というのはそもそも「矛盾した概念」なので、せいぜい「(キリスト教の)神」の事を「有であり無である存在」とするくらいでしょうか。(つまり、「(矛盾している故に)人智を超えた存在」)

noname#71328
質問者

お礼

どうも有り難うございます。 そういえば、全知全能のパラドックスとか言うのもありました。

  • adwd
  • ベストアンサー率19% (11/56)
回答No.10

「無」を実在物のように扱うこと自体が間違いです。 無というからには、必ず対象があります。「何か」が無い状態です。 その何かを外して「無」そのものがあるかどうか?というのは本来問いようがありません。 例えば、「何か質問はありますか?」と聞かれたときに、あなたの頭の中に質問が存在すれば「(質問が)ある」ですし、存在しなければ「(質問が)無い」です。この「(質問が)」を外して「ある」とは何か?「無い」とは何か?なんてことを問うても、それは現実に即していない、言葉だけの世界で語るほか無く、水掛け論になってしまいます。 あと完璧な無という言葉も出てますが、この完璧というのも、必ずある観点から見ると完璧と言えるだけであり、別の視点から見たら完璧ではありません。 例えば、「走攻守三拍子揃った完璧な野球選手だ。」と言ったとします。しかし、それは野手として見て完璧といっているのであって、投手としては駄目かもしれませんし、もっと言えば人間として駄目ということもあるかもしれません。それに、名選手=名指導者ではないという事実もありますよね。選手としては文句のつけようが無いが、指導者(監督)としては全然駄目だねって人は沢山います。 このように、言語とは必ず「前後」「文脈」がありますし、必ず物事を限定します。限定することが言語のもっている性質です。そうでなければ言葉なんて成り立ちません。 言葉は必ず現実の必要に応じて発生します。必要が無かったらそもそも言葉なんてありません。だって必要ないんですから。だから、言葉というものをきちんと本来的な意味で使うというのは、何より重要です。そうでないと、言葉ではなんとでも言えるという不毛な水掛け論をすることになります。

noname#71328
質問者

お礼

どうも有り難うございます。 つまりは、 言葉の持つ意味、性質を理解すれば、無とは何かという問いが不毛な言葉遊びになることだと分かる で結論として >>「無」そのものがあるかどうか?というのは本来問いようがない。 ということで宜しいのでしょうか。というか正しいでしょうか?

回答No.9

寝てるときは? それに気づかなかったのが無の 証拠じゃないかと思われました。

noname#71328
質問者

お礼

確かに無意識ですね。 有難う御座います。

回答No.8

1、無を深く扱った哲学があれば、教えて下さい  無は書物で扱うことはできても表現することはできません。  思想ですらないのですから、結局表現しようがないと書いてあるに  すぎません。何もないのに何を語るというのでしょう。 >私には単純に無というものが理解出来ません。  理解する対象などないのです。それがあるならもはや無ではありません。理解すべき無などありはしません。ないものがある? 無を対象にする思考ほどばかげたものはありません。  思考、感覚、感情、物質、空間、時間、次元ことごとく何もありません。  それすらありません。それすらありません。  量子論、次元、特異点も無への対立ではなく、それそのものを思考することが正しいと思います。 2、貴方自身の無に対する考えをお聞かせ下さい。   ”無”

noname#71328
質問者

お礼

本当の無とは 考え存在する事すら、許されないモノなのかも知れません。 有難う御座います。

回答No.7

有は始まると全てが終わりに向かっていますが無とは終わりも始まりもないのではないでしょうか? ゆえに0とも言えるかも知れませんね。 それとも無とは始まりで有は終わりでしょうか? 何にしろ、無でさえも永遠でなく諸行無常や万物は流転すると いうことなのでしょうか?

noname#71328
質問者

お礼

無とはなんの性質も持たない、モノなのでしょうか。 有難う御座います。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.6

1.無というとすぐ思いつく著作は「存在と無」ですかねえ。読んだことないけど。あるいは無とはちょっとズレるかもしれませんが仏教の空の思想なんかはそっちかも。虚無というところから、ニヒリズムなんかは一応無に関係ある思想ですよね。 2.無を0と言ってしまうのは簡単ですが、じゃあ0とは何かと言うと無と堂々巡りで答えるしかなくなってしまうような気がします。なにかがあればとっかかりがあるんだけれども、そのとっかかりがない、とりつくしまがないというようなまっさらな状態。というところから考えて、無とは制約が無い状態なのですから、自由であるといえます。何も禁止されていないし何も命令されていない。これは確かに自由です。ただその時、宙ぶらりんになります。なぜなら、何をするにしても、そうしなければならないという必要性がないからです。それに気力すらないでしょう。しかし脱力というのは可能性を広げます。制約がない自由な状態なら、可能性は無限です。なんでもありということになります。ですからその結果として無と無限って一緒なんだ、ってなことに気づきます。無=∞、と言うこともあながち間違いではない。となれば、無限とは何か、ということを考える方が無を知るための近道かもしれません。野矢茂樹さんの新書で「無限論の教室」というのがあります。これは参考になるかもしれません。

noname#71328
質問者

お礼

無は突っ込みどころが多すぎると言った感じですね。 有難う御座います。

回答No.5

無ですか? 無は無ですよ。ですから0と捕らえるのも正しくはないと思います。 何も無い、何も感じない、言わば思考も感情もない状態ですから。 正負の法則を考えれば、無が何なのかヒントを得られるかもしれません。 何故、無がこの世界に存在するか、それは有があるからです。 その逆も同じですね。正と負、善と悪、愛と不安、 この世界はすべて正負の法則が働いています。 参考になれば幸いです。

noname#71328
質問者

お礼

無そのものの像(あくまで概念上の)が私にはまだ理解できていないようです。 無とは何なのか?という問い自体に、既に複雑な意味合いが含まれていますね。 有難う御座います。

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