• ベストアンサー

「コーランか剣か」の出所(でどころ)

「宗教」というカテゴリーがないようなので、 「哲学」で質問させていただきます。 よくイスラム教の性格を表す言葉として、 「コーランか剣か」という言葉が引き合いに出されますが、 この言葉の出所(でどころ)はどこでしょうか? コーランは翻訳しか読んだことないので、 そのような言葉があったかどうかおぼえていません。 私の勝手な想像では、 おそらくクリスチャン側から出たのではないかと考えているのですが、 歴史的な文献に見られた言葉なのでしょうか? 詳しい方いるかなぁ?よろしくお願いします。

noname#6938
noname#6938

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • appaloosa
  • ベストアンサー率34% (28/81)
回答No.1

詳しい出所はわかりませんが、確かこの言葉はイスラム帝国の拡張・征服の姿勢を表した言葉です。自分は「コーランか、貢納か、剣か」という風に聞きました。これは「イスラム教を認めるものにはコーランを読む権利を与え(つまりムスリムへの改宗を認める)従うものには改宗こそしないが税を納めさせ(つまり服従を認める)逆らう者には剣をとる、つまり殺す」というイスラム帝国の姿勢がこの言葉に表されているようです。

noname#6938
質問者

お礼

確かに、納税もありましたね。忘れてました。 しかし、出典はどこなんでしょうね。 ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • netcatme
  • ベストアンサー率20% (76/371)
回答No.2

「左手にコーラン、右手に剣」という言葉はキリスト教徒がイスラムの残酷性を宣伝するための言葉だったと覚えています。 「コーランか剣か」も、おそらく、コーラン等の書物の言葉ではなく、伝聞で広がった言葉だと思います。 イスラム社会で広がりそうな言葉ではないので(アラーの神は寛容だそうです、イスラム教徒にいわせると)、キリスト教側で広がったものではないでしょうか。

noname#6938
質問者

お礼

伝聞ですか。では確かめようがありませんね。 ご回答ありがとうございました。 御礼が遅くなってしまい済みませんでした。

関連するQ&A

  • コーランの成立について

    ムハンマドの行動と、イスラム教の発展については色々読んだのですが、 その中間、コーラン編纂時期の社会状況と編者たちの人物像が分かりません。 集めた「ムハンマドの言葉」の取捨選択経緯などを知りたいのですが、 それは残っているのでしょうか?歴史好きな方、お教えください。

  • イスラム教で女性劣位を起源にした論拠について

    イスラム教ついて調べています。なぜ女性は経典で低く規定されてしまったのでしょうか。女性の地位が経典「コーラン」「ハディース」で述べられていることはわかりります。ただ、それを根拠とする理由が歴史的な理由という曖昧な論拠しかなく、宗教哲学・法哲学にみてその経典の起源がなんなのかを知りたいです。 よろしければ直近の研究論文資料や参考文献をご教示いただけると助かります。

  • イスラム教 本来テロに関係なく良い宗教と感じますが

    敬虔なイスラム教徒はテロ、ジハードに関係ないと思いますが? コーランに書かれた教えには異教徒を排除するような教えは 存在していなくて、 それは新約聖書に描かれているキリストの教えと同様です。 イスラム教自体は、極めて差別性とは無縁な宗教であって、 異教徒を差別するような論理は、 真のイスラムの教えには存在しないと言われています。 この点を指摘することは、今後の世界平和を考える上で 重要な論点であって、 イスラム過激派の主張はあくまで政治的なもので、 イスラム教とは基本的に無関係であるという認識が重要です。 この事実は、キリスト教との比較でもより鮮明になります。 一般にキリスト教の信者は、神の子キリストを特別視しています。 しかし、イスラム教信者はモハメッドをキリストのように 特別視はしていなくて、モハメッドはあくまでアラーの神の教えを 人々に伝えるメッセンジャーに過ぎず、 私たちと同じ人間だと考えられています。 この違いは、キリスト教とイスラム教の違いに反映されています。 キリスト教徒の世界では、 キリスト教徒と異教徒とは、もともと厳密に区別されてきました。 それ対してイスラム教徒は、異教徒に対して極めて寛容です。 しかも、その寛容さはコーランの教えに由来しています。 キリスト教には差別の歴史が濃厚にありますが、 イスラム教には基本的に宗教絡みの差別の歴史が存在しないと言われています。 ただし、シーア派とスンニー派の対立など、 宗教的な教えの解釈も絡んだ政治的な対立は、この間に一貫してありました。 しかし、これは宗教的な対立というよりも、極めて政治が深く絡んでいる問題です。 ひとつ象徴的なこととして、キリスト教徒は 歴史的に布教活動を積極的に行ってきましたが、 そもそもイスラム教徒は布教活動自体を行いません。 キリスト教徒の布教活動には、 異教徒を正しい宗教に改心させるという狙いがありますが、 イスラム教徒にはそうした発想がありません。 そこはイスラム教が、異教徒を含めて すべての人間が神の前で平等であるという発想を、 まさに教えの基本にしていることに由来しています。 イスラム哲学の権威として有名な井筒俊彦氏の著書などを読むと、 その辺のことが詳しく説明されています。 こうしたイスラム教についての基本的な認識が、 大多数の日本人には欠落しているので、 上記のような点を指摘することは重要なのです。 イスラム過激派が、コーランの文句を言えない人 を異教徒として殺害したからといって、 そうした常軌を逸した行為をイスラム教と結びつけるのは、 おそらく正しい判断とは言えないのです。 イスラム教自体を批判しても、 およそ発展的な議論にはならないのでは、という感じがします。 少なくともテロに心を痛めている 大多数の敬虔なイスラム教徒との連帯を阻害するだけにしかならないと思います ただ異教徒差別はないものの、女性差別は存在します。

  • ヒンズー語を話す人たち

    こんにちは。 カテゴリーを宗教関連にするか迷いましたが、言葉に関することなのでこちらで質問します。 1)ヒンズー教徒の人たちはヒンズー語が話せるのでしょうか?(日本人で改宗した、というようなケースは除きます。) 2)アメリカ等に移住した3世、4世などの場合、ヒンズー語は話せるけれど宗教は違うということはあるのでしょうか? (日系人の場合、祖父母はアメリカのお寺に行くけれど、自分はクリスチャン。ということがありますが、イスラム教徒の場合はあまり聞きません。ヒンズー教はどうなのでしょうか?) よろしくお願いします。

  • アメリカ・イギリス イスラム信者

    Wikiを見たのですが、イスラム教はイギリス・アメリカでは国内第2位の信者数を有する宗教であるそうです。 私は宗教に興味があり、東南アジアへよく行きますが、今まで出会ったムスリムはモスクだけでなく電車で家や会社でも毎日必ず5回の礼拝をします。 そして格好からも男性は礼拝中には帽子を被り、女性は頭を隠していてムスリムとわかります。 アメリカやイギリスではクリスチャンのイメージが強く、映画や音楽などにもキリストに関することがらが見受けられます。 ゴッドセーブザクイーンやアーメンなど。 ですがムスリムが多いにしてはイスラムらしい格好をアメリカやイギリスであまり見ないし、礼拝についてもあまり聞きません。 町を歩いていてもイスラム圏のようなモスクは見つかりませんし、コーランも聞きません。 アメリカやイギリスのムスリムはあまり熱心ではないのですか?

  • イスラム教についての疑問(偶像崇拝に関連して)

    ・パキスタンで、コーランを燃やしムハンマドを批判した男が死刑判決を下された。  ・日本(富山)でコーランが破かれているのが発見されムスリムによる抗議デモが起こった。  いずれもウィキペディアに載っていたのですが、これを見て疑問を持ちました。  イスラム教は唯一の神を信仰するもので、コーランは神の言葉=神の一部であるということですが、それは当然コーランの「内容」であって、被造物である本そのものではないわけですから、本=インクのついた紙が焼かれようが破かれようが何の問題があるのでしょうか。本を粗末に扱われることを忌むのはまさしく、イスラム教において禁じられている偶像崇拝の消極的な一態様ではないかと感じました。少なくとも部外者からみると同じことに思えてしまいます。  神仏混交の日本人である私自身の素朴な宗教感覚としては上記の事件は「ムスリムがコーランを焼くなんてそりゃ罰当たりだ」などと思うわけですが、それはいろんなものに神が宿るであるとか言霊信仰云々といった神道的な感覚に過ぎず、イスラム教というのはもっと純粋というかいろんな意味で徹底された宗教である、と思っていたこともあり違和感を覚えたわけです。  あと、そもそもイスラム教に「聖地」があるというのも少し違和感があります。義務の一つに巡礼がある以上当たり前といえば当たり前なんでしょうが、メッカの土地や街も、他のものと同様神の前で平等であるべき被造物なのに、そこだけに宗教上の特別な意味をもたせるというのは一種の偶像崇拝ではないでしょうか。  宗派によっては偶像崇拝を全面禁止しているわけではないところもあるということは知ったのですが、どうも合点がいきません。     私はムスリムではありませんし、知識もほとんどありません。なので的外れな質問なのかもしれませんが、ムスリムの方や、ムスリムでなくてもイスラム教に詳しい方にこの疑問について教えていただきたいと思い投稿しました。よろしくお願いします。

  • イスラム教の宗教指導者って?

    適当なカテゴリーがよく分かりませんでしたので、とりあえず哲学にしました。 よくテレビ・新聞などで、イスラムの宗教指導者○○師という人物が出てきて来ます。○○師は、政治的な活動などもしていて、イラン革命をやったり、殺人命令すらします。社会に与える影響は絶大ですね。 1,○○師は、宗教指導者というのは、わかりましたが、お坊さんですか? たしか、高校の歴史か倫理で、イスラムには仏教のお坊さんやキリスト教の神父にあたるような、専門の宗教職はないとならったような記憶があるのですが・・。すごく宗教に詳しい一般信者?なんでしょうか。宗教指導者って、職業ですか? 履歴書に書けるような社会的身分のようなもの(会社員とか学生とか)は、別にあるんでしょうか? 2,そのイスラム教のお坊さん?らしき人物は、どうやって、その「宗教指導者」になったのでしょうか? 神学校があると聞いたような記憶もありますが、神学校を出た後、どうやって、その神学生が、政治的発言力を持っていくのでしょうか? だれがその人を宗教指導者として任命したり、どうやって世間から認識されるんですか? どこかに就職するんでしょうか? 3,生活は、だれが支えているのでしょうか? 収入源は? どこに住んでいるのでしょう? モスク? 以上大きくは3つの点について、よろしくお願いします。

  • 宗教の正しさは信者数では計れません

      実際キリスト教は過去2000年の歴史を持ち、今日約20億の信者に支えられているが、奇跡を説くカルトに過ぎないことは変わっていない。 イスラム教は全世界に11億の信者をもつ巨大宗教であるが、その信者は世界中でテロとジハードを繰り返す救いようのないカルト宗教である。 またヒンズー教は10億の信者を抱えるがその中身はカーストであり、それ故インド国内ではレイプ事件ばかり繰り返す畜生の教えである。 それゆえ哲学が宗教について考えるとき、宗教の正しさはその信者数とかその歴史や年数では決して計れないものであることをまず第一に認識すべきでないか。  

  • エホバの証人はなぜエホバと呼ぶようになったのか

    エホバは神のことで、ヘブライ語で子音のみで書かれていたのだが読む便宜のため母音記号がつけられて、アドナイと読まれるようになった。では jehovah はいつどういう経緯でそう呼ばれるようになったのでしょうか。 (歴史か哲学どちらかのカテゴリーで質問しようと判断しました。宗教も哲学の範疇に入りますよね?)

  • 神の言葉なる聖典も 言葉として 偶像ではないのか?

     (1) 組織宗教の場合に 組織上の権限〔を持つ人間の意向〕が各人の信仰にまで及ぶという――それによって信教・良心の自由を侵すおそれがある――問題があります。具体的には オシエが――それはいかに神の言葉だと言っても 人間の言葉で自己表現された文章であるからには神ではなく信じるものでもなくただ考えるものであるのに――信じるように説かれたりするという問題です。  (2) ここでは 偶像崇拝を禁じるというオシエについて考え問います。  (3) 旧約聖書には こうあります。  ▲ (出エジプト記 20:4-5) ~~~~~~~~~~~  あなたはいかなる像も造ってはならない。  上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。  あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですけれども このオシエは 人間の言葉――声および文字――で発せられ書かれているからには ただの偶像ではないのか? 地上のものであり そうとすれば被造物なのではないか? そのような言葉という素材で表わされたオシエを神の言葉として守ることは 偶像崇拝になるのではないか? こういう問いです。  (2) 新約聖書にも 偶像崇拝を否定する記事が――パウロの書簡などに――ありますが 教会も カトリックもプロテスタントもすったもんだしながら 特に偶像が問題ではないというところに落ちついたと言ってよいのでしょうか。  (3) イスラームにおいては 読誦されるアラビア語によるクルアーンが 神の言葉そのものであると説かれます。その根拠についての説明があります。  ▼ (ヰキぺ:クルアーン) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3  § 2 特徴  § 2.1 イスラーム教における位置付け  (3-1) クルアーンは、神がムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。  (3-2) クルアーンが神の言葉そのものであることを信じることはイスラーム教の信仰の根幹である。  (3-3) イスラーム神学では、クルアーンは神の言葉そのものである以上、神に由来するもので、神の被造物には含まれない。  (3‐4) クルアーンを記した文字や本、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来被造物の世界に存在しない神の言葉である。  (3‐5) 従って、神の言葉であるクルアーンが地上に伝えられていることそれ自体がムハンマドに対して神がもたらした奇跡であると主張される。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (4) さて どうでしょう?   (4‐1) すなわち いかにアラビア語と言えども言語として被造物の一部であってその限りで偶像をつくりうる素材なのであるが そのような偶像要素としての人間の言葉を用いて著わされたクルアーンは しかしながら 被造物ではなくなる。ということか?  (4‐2) 被造物ではない神の言葉が 被造物という素材によって現わされたのではある。  (4‐3) 被造物であるというのは 偶像もしくはその要素だということ。ということは クルアーンは 偶像であって偶像ではない。  (4‐4) さて どういうことでしょう?