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カール大帝の戴冠
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カール大帝の戴冠は、教皇レオ3世の都合によるもので、カール自身直前まで知りませんでした。 当時の教皇レオ3世の時代は、教皇庁内部で問題が多発していた時期です。 最大の問題は、ビザンツ皇帝との問題で、教皇は皇帝の支配に従うのかどうかの問題でした。 ビザンツ帝国では、コンスタンティノープル総主教は、皇帝の支配下にありましたが、ローマ教皇庁では、西ローマ帝国が滅亡している事もあり、独自の地位を得ていました。 「教皇庁は唯一のローマ皇帝であるビザンツ帝国の支配下にあるべきである」という考え方と、「教皇庁は東ローマからは完全に独立している」という考え方が対立していました。 カールは、周辺諸国が安定しない中で、ビザンツ帝国との問題を抱えたくないため、戴冠には困惑してしまいます。 結局カールは、ベネチュア周辺の領土をビザンツ側に譲る事で、ビザンツ帝国での承認を取り付けます。 実際それで問題が解消したのではなく、その後もモラビアなどで対立がおきています。 また、このころキリスト教会内で、深刻な問題が起きていました。 偶像崇拝問題です。 ビザンツ帝国内で偶像崇拝禁止の処置がとられた事に対して、ローマ教会側でも反対派と賛成派の抗争状態にあり、教皇レオ3世は、賛成派の代表的人物でしたが、当時は劣勢にあり、強力な後ろ盾を必要としていました。 偶像禁止派が、ビザンツ帝国の支援を頼る中で、レオ3世が頼みにできるのはカールだけでした。 教皇庁内部の対立に巻き込まれる事も、カールとしては望むところではありませんから、戴冠にはこの面でも不満が有りました。 また、カールが教皇から戴冠を受けるという事は、教皇には皇帝を指名する権利があるという事になり、形式的には教皇が皇帝の上に立つ存在である事をアピールする事になります。 (それをもって教皇レオ3世は、ビザンツからの完全独立を意図していたのかもしれません) カール大帝後のオットー大帝の戴冠で、その流れは決定付けられますが、最終的には聖職叙任権闘争までこの問題は引き継がれます。
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- kaiserster
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戴冠するということは、カールが西ローマ皇帝としてローマ教皇の支配下に入るということです。つまり教皇>カールとなります。名実ともに支配者として君臨したかった、カールとしては不満です。また、ローマ教皇レオ3世とは不仲でした。「そんな奴の支配下に・・・」という思いもあったでしょう。 それを踏まえて、「戴冠(教皇の手下になる儀式)のためにわざわざローマに来たくはなかった(知っていたら来なかった)」ということです。 URLの脚注6番にも書かれています。参照してください。
お礼
戴冠されることは、名誉なことだと思っていたけので(教皇>カール)という意味があったなんて驚きました(00)! ありがとうございました(^^)
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お礼
カールは、冠をもらえて、西ローマも自立できてよかったと言う感じで教科書に書かれていたのでずっとわかりませんでした(**) カールは利用されただけだったんですねー!! ありがとうございました(^^)