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表に出す情報と裏にしまっておく情報

噂話などで、あの人はどういうことがあるないということを言っていて、会話している当人同士の関係性はもちろんあるのですが、そのときに、これは知っているけども公開するべきだとか公開すべきじゃないとかいう価値判断が問われる場面がありますね。例えば、あの人は障害を持っているとか、悪癖があるとか、養子だとか、一般的に、ちょっとさらっとした会話で口に出すのがはばかられるような事があります。しかし、この価値基準というのは、いったいどうやって生まれるのでしょうか?世間一般に拡大しても、この価値基準は普遍的にあって、「明るく公開すべきもの、暗くて基本的には伏せておくもの」という、ほとんど無意識的な規制のようなものが存在しています。この規制の ※発生原因 ※価値基準の作成基準システム のようなものをどう考えたらよろしいですか? それからなぜ、こういうものは暗い、こういうものは明るい話題だという、価値観が生まれるのでしょうか?下衆な宇宙人にとっては、障害があるなんていうのは最も賛辞されることかもしれませんよね。

noname#41852
noname#41852

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

「暗い/明るい」という感覚は、ある事柄に関して、「人間としての可能性が収束傾向にあるのか、あるいは増大する傾向にあるのか」ということに対する判断の結果ではないかと思います。 ここで、人間としての可能性とは何かということが問題になります。 物的な面での豊かさが喧伝される(あるいは顕著な)現代においては、資本の蓄積能力がその可能性の基準として圧倒的優位を保持しているように見えます。 当然のこととして、強いもの、速いもの、正確なもの、均等なものetc.が可能性としてクローズアップされます。 弱かったり、遅かったり、不正確であったり、均一でないものは可能性に逆行するものとして排除されがちでしょう。 ただ、これらは概ね非常に表層的な判断に基づいたもので、何より本質的には全ての人間が(外面的であったり内面的であったりしつつ)抱えている要素でもあるはずです。 にも拘らず、その自他共の本質と対峙するのが面倒なので(あるいは怖いので)「>基本的には伏せておくもの」という規制を働かせることによって、表層的な要素だけで様々な判断をしたがるのだろうと思います。 いずれにせよ、こういった感覚は非常に狭量なものと言えるでしょう。 最大の可能性の収束は(肉体的であれ精神的であれ)展望の皆無状態だと思いますが、現代人は、あらゆる方面に対する展望を幅広く考慮する能力を獲得する進化段階には未だ至っていない、ということになるのではないかという気がします。  

noname#41852
質問者

お礼

社会的価値観の大きく規定するところだという話なんでしょうかね。それだと実に理屈に合う。効率主義ですか。考えてみると実に価値観を限定して暮らしているもんですね。

その他の回答 (4)

  • spitzer3
  • ベストアンサー率9% (3/32)
回答No.5

人は他人より劣っているときに、自分より優れている他人のようになりたいと思い、得られないものを得ようとして苦しむ可能性があると思います。  そういうことから、障害を持っている人に対して、その人が他人より劣っていることを思い出させるような差別的用語を使うことを控えるのだと思います。  また、他の人より劣っていることを嫌だと思わない社会ならば、差別用語は讃辞されると思います。宇宙人は劣っていることをなんとも思わないかもしれませんしね。 地球人でもそういう人もいると思いますよ。

noname#41852
質問者

お礼

思い出させるような、という非常なまやかしを使うということでしょうね。それも社会感覚が規定したことです。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.4

少ししか関係ありませんが 1871年にダーウィンは『人類の起源』の中で、道徳的生物は自らの行動について省察し、評価することができねばならないと述べている。彼の意見では、空腹や情欲などの短期的な欲望は、長期的な価値観によって抑えねばならない。ダーウィンは予期計画者が直面するジレンマを認識していた。将来の様々な必要を見越せる人間の能力は、二種類の複雑な状況に至る。まず、将来の様々な可能性を考えねばならないので選択肢の数がずっと増えてしまう。第二に、自らの選択について省察することができるので異なった種類の評価を互いに比較検討するということである。これら二つの複雑さは選択者に大きな不確かさをもたらす──甚だしい場合は存在上の不安を。この不安を緩和するために、人間には選ぶ際の手引きとなる原理が必要になる。 興味深いことに、ダーウィンは道徳性、すなわち自らの行動を省察し判断する能力を、進化の結果だと考えている。この考えは、殆どの人が道徳的な導きを得るのに宗教的な教理に頼っていた時代にあっては革命的であった。道徳は神によって与えられたものと見られていたからである。 道徳の原理は分離型の価値観であるといってもよい。動物も様々な目標──必要や欲求──を持ちうるし、それを満たそうとする意志も持ちうる。しかし、目標の分離型の表象を持てないので、その目的を達成したいのかどうかについてはハッキリした態度をとることができない。集団で暮らす動物は、ある種の社会的な規則、とりわけ集団内の序列に関する規則に従っている。しかしながら、それらの規則は個体にとって分離型の表象としては存在していない。動物は規則に気付かずに従っているからである。 ピアジェの主張によると、子供の道徳的価値観は、親や権威者に従うことからくるのではなく、他者に感情移入できる能力、すなわち他者の状況に自らをおくことができる能力からくるのだという。そのような役割の交換は、子供が他者の感情という概念をもっていることを前提としている。しかし、これだけでは道徳が生まれるには十分ではない。私が貴方に対して単に感情移入するだけでなく道徳的であろうとするなら、私は意識的な選択をしなくてはならない──つまり私の目標の分離型の表象をもち、それを他の可能な目標と比較できなくてはならない。従って、道徳的であるためには、自己意識と自由意志とをもっている必要がある。マーク?トウェインは、「人間は唯一顔を赤らめる動物、そうする必要がある動物である」と言っている。 道徳的な選択は個人的なものでありうる。しかし、我々が、他の誰かが同じ状況をいかに経験するかを省察することで、成すべきことを決断したのなら、他者が同じことをすると期待するのは自然なことである。従って、我々は言語を用いて、他者がすべきだと思うことをさせる。予期計画力に関する私の議論では、人間のジレンマに焦点をおいた。これは「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからだ」という使徒パウロの言葉がその一例である。道徳的な規則は、長期的で全体的な目標を、今現在の自己中心的な欲求との格闘の中で支えていくために必要である。社会はそのような規則を、法律や宗教的教令としてハッキリ打ち出すことで成り立っているのである。 長期的な目標のために協力するか、今したい気分のことをするのかの選択は、しばしばゲーム理論では「囚人のジレンマ」と呼ばれる葛藤につながる。囚人のジレンマは、全員が協力すると全員が利益をうるが、自分以外の全てが協力する状況では、一人だけ利己的になって協力しないとより利益をうる。しかし、誰も協力しないと、結果は全員にとって最悪なものとなる。 経済学者ロバート?フランクは、恥や愛などの感情と信頼や誠実さなどの社会的価値は、囚人のジレンマにおける短期的な利益をうることを避けるために、進化の過程を経て生まれてきたと論じている。例えば、税金を払わないなどの、他人に対してズルをすることで得をしようとするなら、その結果としての恥のために得がさほどのものに感じられなくなり、次からはそのような詐欺的行為は避けるようになるであろう、ということだ。感情が我々に、短期であれ協調することに利があるということを経験させるのである。 社会生物学者は、遺伝子はそもそも利己的で、できるだけ多く再生産しようとする、と言っている。とすると、自分の子供や親戚に対しては時には利他的であるべきだ、ということになる。自分の遺伝子の再生産を促進するわけだからである。 多くの形態の利他的行為は、長期にわたる主体な関わりを必要とする。利己的でない者の戦略は、信用を築き上げるために、短期的な自分本位の選択をしないでおく、というものだ。信用は、将来の様々な協力関係に発展するだろうし、それは一時の儲けよりも価値のあるものとなるからだ。そのような戦略は、通常は意識的な選択ではない。言い換えると、人は自分の評価を気にするために利己的ではなくなる、というこだ。良い評価が得られれば、将来に利益があるかもしれない。つまり短期的に利己的でないのは、長期的に利己的なのである。 こうした、信用が通貨である、というような投資モデルをもとに考えると、日常の良識的振る舞いの合理的な説明が得られる。しかし、注意すべきことは、この議論は二つの前提に基づいている。一つは、予期計画力で既に今、将来の選択の状況のために計画しているのである。利己的な短期の選択の価値と、将来の協調から得られるかもしれない利益とを比べることができなければならない。動物は今に生きていて、良識的振る舞いの戦略に必要とされる予期をうまく扱うことができない。同様に、小さな子供は先のことを考えるのが難しく、可愛い盛りに大いなる利己主義なのである。 二つ目は、この投資モデルの前提である。すなわち、利己的でない個人は社会に住んでいて、そこでは同じ人々に長期にわたって会うことが期待でき、従って信用から発展する有益な協力関係をずっと続けていくことが可能となる、というものだ。

noname#41852
質問者

お礼

長すぎて読めませんでした。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

例えば医者には、業務上知った情報を、外部に漏らさないという守秘義務がありますよね。 何故か。 例えば、検査の結果、患者が癌だとわかったとする。 患者は会社の社長だとしたら、部下は社長の復帰状態が気にかかる。 この部下に、患者が癌であることを漏らしたらどうなるか。 いろいろ患者は不利益をこうむることになる。 だから法律で規制している。 逆に検査の結果、ただの胃炎だったら、社長の部下が、「もしかして社長は癌じゃありませんか?」と言ってきたら、事実とは違うので否定できる。 患者の不利益にならないので言えるわけです。 障害認定は、障害を持った人が一般社会で少しでも困難を減らして生きていけるようにと認定されていると思うんですね。 障害も情報ですから、その情報を業務上得た人は、他人に漏らしてはならない。 でも、情報をもらわなくても、あきらかに障害があると思えたら手加減できます。 例えば、字があまり読めない。 同じように学習したのに、その人だけ、漢字が特に読めない。 単に勉強を全くしないから読めないのか、それとも実は失読症という障害を持っているのではないか。 もし障害を持っていたら、字が読めないのは本人が悪いからじゃないですよね。 字が読めない生徒を目の前にして、「なまけもの」と叱責する教師と、もしかして障害があるからではないか とカンを働かせる教師。 この「障害があるからじゃないか」と思おうことは、暗いことじゃない。 本を読めないということが暗いことなわけです。 障害は叱責されて恥をかかされれば治るものじゃない。 治らないから障害があると認定されるわけです。 で、教師がやることはみんなの前で、本が読めない子を叱責し恥をかかせることじゃない。 両親に説明し、疑いがあるからと、子供をしかる機関に行って検査させるよう助言すること。 両親は障害を暗いできごととしてとらえ、「そんなことありません、先生はうちの子が障害があると差別するんですか、うちの子は優しいし、嘘もつかないし、とてもいい子なんです」という。 もし、この子に障害があれば、両親が障害を否定することは、この子の未来を暗くすることになる。 トム・クルーズ。 有名なアメリカの俳優ですが、彼は失読症。 しかし、その障害を本人に伏せなかたので、本人は自分の弱点を知った上で、この障害をカバーできる方法を編み出したわけです。 もし、家族が否定し、障害があると認めず、本人も認めなかったら、彼の輝かしい今の生活は無かったでしょう。 ということで、病気や障害自体は本人にとってやっかいで暗い問題ですが、それに対する対応の仕方次第で、本人の未来が変わってくるわけです。 差別として使えば暗いです。 差があると認めたら明るいです。 前者はつきはなし、後者は仲間に引き入れるから。

noname#41852
質問者

お礼

この種の情報を、よりよく生きるためにどう利用するか、どう向き合うか、人間性が問われるところですね。大変納得できました。

回答No.1

「生まれる」に、どうやってもこうやっても無いデス。 どうやってかは、わたくしも分かりませんが、 「生まれる」からこそ「産まれる」のです。 まぁね、重力とか、太陽光とかについて すこし勉強するとイイかも知ンない。 答えは案外、そういうトコにあんのョ。 自分でアンテナ張ってりゃァね。 なんかエラそうでゴメンね。

noname#41852
質問者

お礼

よくわかりませんでした。

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