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無意識的なものをなぜ想定できるのか?

nisekantの回答

  • nisekant
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回答No.1

的外れかも、参考までに…… 私達が自覚する以上のものが、ボディランゲージなどを通じて表に現れることを許すからだ。 近年、意識の意味合いについて新たな認識が生まれつつあることを受け、基本的な道徳の問題を抜本的に見直す議論をする必要性がある。 とはいえ、禁止権説が興味深いのは、高尚でスケールの大きい道徳的議論との関連のみからではない。この説は、いたって日常的な問題を考えるうえでも、実に面白い視点を提供してくれる。 リベットの禁止権説は、意識が機能する仕組みを鮮やかに記述する一方で、日常生活における人間の実像を、根本的に誤解させる説明とも言える。「意識があって初めて意識ができる」という、あの基本原則を思い出してほしい。このコンテクストで考えれば、意識的な禁止を実行できるのは意識だけ、ということになる。ありとあらゆる無意識の欲望に無意識の禁止を課すことはできるが、そうすることは意識には全く関係がない。 意識的な禁止とは、私達が意識できる禁止だ。では、行為を実行する0.2秒前にその決意を禁じるようなことを、実際に私達はどれほど頻繁に行なっているのだろうか? 確かに状況によっては、自分の衝動を頻繁に意識的に禁じるようなこともある。しかし、大抵そんなことはしない。頻繁には起きない状況でしか、禁止が頻繁に起きることはないものだ。例えばこんな場面だ。恥ずかしさと緊張のあまり、足がもつれ、言葉がつかえ、いても立ってもいられず、唐突な身振り手振りを使い、やりかけたことを不自然な形で中断し、奇妙奇天烈な言葉を口走って周囲の人々を愚弄したり当惑させたりする。でなければ、上手くできずにぎこちなく、自分の出来る事と出来ない事に、切ないくらい自意識過剰になり、やりかけては途中でやめ、いかにもきまり悪げな初心者といった面持ちで立ちつくす。 或いは、自分にとって非常に大切なことがあって、それが大切であるが故に、まさしくそのために、全く馬鹿げたことをしでかして、上手くいくものも台無しにしてしまう場合もある。映画『ボギー!俺も男だ』のウディ?アレンのように、女性に触れようと興奮する間中、自分で自分の行為を中断するようなおかしなまねをする。つまりそれは、自分自身について意識したり、行動への衝動を繰り返し抑えていることに気付いたりする、なんとも嫌な場面と言える。 何かしたいという衝動を禁じるのが不快なのは、天罰を怖れるときばかりではない。そのプロセス自体が不快なものだ。ぎこちなく、無様で、不自然なのだ。 やりかけて途中でやめることを繰り返すのは、上手くやれる自信がなかったり、他人の目が気になったりするからかもしれない。私達は、人に笑われるのが恐い。自分を意識しているとき、私達はとにかく自分に批判的になり、自分を外側から他人の目を通して眺めがちだ。 意識的禁止が必要な唯一の理由は、意識的な意図と無意識の衝動の求めるものが違う点にある。無意識な衝動を禁じる行為には、意識と無意識の好みに違いがあるという事実が現れている。この意識の禁止権を発動させずにすまそうと、人はアルコールや精神安定剤、その他もろもろの薬物を際限なく自らに注ぎ込む。私達は、どうにかして自分の衝動を禁じるような場面を避けたいと願う。 とはいえ、意識と無意識との対決という視点は、リベットの見解とうまく馴染む。日常生活における禁止権についての手紙の中で、リベットはこう記している。「意識的禁止が不快な場面でより多く現れるというのは、なかなかいい視点だと思います。ただ、私としてはあまり狭く限定したくありません。他にも、愉快とは言わないまでも少なくとも状況で、意識的禁止はしばしば重要な役割を果たしています。例えば、人に何か言いたくなるのを思いとどまる場合や、子供が今にもやりかねないことを止めなくなる気持ちを抑える場合などです。しかし、意識的な意図と無意識的に始動する衝動との対立などの結果として禁止権を捉える貴殿のお考えは、決して瑣末なものではなく、十分主張する価値のあるものです。 20世紀初頭、デンマーク哲学、心理学者ハラルド?ヘフディングは、禁止権説についても、禁止に不快感が伴うという考えについてもむろん知る由はなかったが、この点についてきわめて明確にこう述べている。「無意識の行動傾向が意識的な思考や感情と同方向を向いているかぎり、人はその傾向にはなかなか気付かない。……殆どの場合その力は、意識に上る動機の力と一体化している。そして、行為全体の名誉や不名誉は、意識的動機のほうに帰せられる」 言い換えれば、私達が無意識に気付くのは、それが意識に反する場合のみということのなる。というのも意識は、自分と自分の持ち主を同一視したがり、無意識の衝動に屈するのを良しとしないからだ。 〈禁圧〉された経験が前意識的性質を持つことを、フロイト派が特に強調してきた理由は、このメカニズムで説明できるのかもしれない。無意識は意識されないという、まさしくそのために、意識は無意識の存在を認めたがらない。そして、人間には意識以外のものもあることを意識が認めざるをえなくなるのは、意識と無意識との間に葛藤がある場合に限られる。そのため、逆説的ながら、かえって〈禁圧〉された衝動ばかりが目につくことになる。 前意識……意識の現前野から外されている心の領域。とっさには意識されないが、無意識へと抑圧されたものではないので、比較的容易に意識化される。 禁止プロセスがたいてい不快感を伴うとしても、そうした意識的禁止を行いうることには変わりがない。使わなくても禁止権は存在する。使ってもいいが楽しくはないというだけだ。それはまた、私達が一番安らかでいられるのは、意識が自由意思を行使しないとき、ということでもある。人は、意識を介さず無意識の衝動に従うときが最も幸福だ。ただ行動するだけのときが一番満ち足りている。 しかし、こう考えると、気分のいいときに主導権を握っているのは意識ではない、という事実を突きつけられることになる。すると疑問が浮かぶ。人間は不快なときにしか自由意思を持たないのだろうか?気分のいいときにも自由意思はあるのだろうか?そうだとしたら、それは誰の自由意思なのか?

spitzer3
質問者

お礼

>人は、意識を介さず無意識の衝動に従うときが最も幸福だ。ただ行動するだけのときが一番満ち足りている。 確かに、意識して行為をしようと思わなくても、無意識に行為を行いますから、いちいち「~しよう」とか言わなくても満足した動きをするということなんですね。 ご回答ありがとうございました。

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