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伊達政宗

伊達政宗について調べてみると評価はほぼ2つに分かれます。ひとつめは天下を狙えた、ふたつめは所詮奥羽の田舎大名。皆さんの意見を聞かせてください。

  • 歴史
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みんなの回答

  • yakyutuku
  • ベストアンサー率14% (267/1890)
回答No.7

>そのようなことでは戦国の世を生き残れません。 >「家康の腰巾着」として生き残る、と決めた以上、脇目も振らずそれに邁進しなければなりません。中途半端が一番いけないのです。 ??実際生き残ってますよ。もし家康が勝ってもしぶとく生き残り、うまいとこ家康が負けたら東北で割拠する、そのぎりぎりの判断がもたらした中途半端なんでしょう。もし日和見しては生き残れないという判断なら、腰巾着続けてたでしょうし。その生き残れる自身の根拠が我々には(記録に残っていないから)わからないだけの話だと思いますが。人工衛星ですぐに地球の裏側がわかる時代じゃないんですから、情勢判断がつくまで態度を保留するのも立派な選択肢の一つでしょう。そこら辺の選択が、その日を生き残るだけで汲々としているか、野望があるかで変わってくるのだと思います。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.6

No1です。 政宗は、小田原に参陣して豊臣家に臣従した後、関白となった豊臣秀次に接近しました。秀次が秀吉の後継者と自他共に認められていましたのでこれは当然です。 秀吉が秀次を関白職から追い、家族全て殺した時、政宗は「秀次党」として巻き添えになりそうになりました。その際、家康の弁護で事なきを得ました。以後、政宗は無二の徳川党(簡単に言うと「徳川の腰巾着」)として振舞うようになりました。これは、政宗の領土の位置、徳川との力関係から言って自然なことです。この「最初は秀次に接近し、秀次失脚後は無二の徳川党になった」のは、出羽の最上義光も同じです。 さて「普通に考えれば野望があるからこそ上杉と戦わなかったのではないでしょうか?」という意見もありますが、そのようなことでは戦国の世を生き残れません。 「家康の腰巾着」として生き残る、と決めた以上、脇目も振らずそれに邁進しなければなりません。中途半端が一番いけないのです。家康も、秀次事件以降の政宗とのよしみから「伊達は上杉に背後から食いついて上杉の南下を抑えてくれるだろう」と期待していたわけで、政宗はこの仕事を全力で行なわねばなりません。それが嫌なら、徳川家と手を切って上杉家と組み、江戸を目指し、徳川本体を背後から挟み撃ちにする南下軍に加わるべきです。 現実には、政宗は徳川の一味として奮戦するわけでも上杉家と同盟するわけでもなく2ヶ月も上杉家と対峙してぼんやりしていました。「政宗の伊達家中への統制力不足、リーダーシップの不足、政宗自身の決断力不足」によるものでしょう。関ヶ原の戦後処理では、史実では「プラマイゼロ」で済まされましたが、私見では伊達家は「西軍よりの中立。東軍への敵対行動は取らず」を維持した佐竹家同様の扱いを受け「半分に減封の上国替え」になってもおかしくなかったと思います。それくらい、政宗の態度は家康に対して背信的であり、期待を裏切るものでした。 まあ、上杉家が政宗を信用したとは到底思えませんし、上杉家が江戸を目指して南下しようとする動きを全く見せなかったのは不可解としか言えません。家康率いる上杉討伐軍が小山まで押し寄せ、宇都宮に押さえの部隊を残して上方に戻るのを黙って見ていた上杉が何を考えていたのかは「謎」とされていますが、上杉景勝も政宗に負けない腰抜けであったようです。上杉と組まなかったのはそれはそれで正解でしょう。 No1で説明しましたが、政宗と反対に「家康の腰巾着」として全力を尽くし、それを家康に認められたのが最上義光です。「家康に従う」と決め、それだけに集中して努力した結果です。これは、関ヶ原後に大幅加増を勝ち取った黒田家、細川家、山内家などに共通しています。

  • yakyutuku
  • ベストアンサー率14% (267/1890)
回答No.5

 皆さん上杉との戦いに消極的だったことを理由に正宗の器量を否定していますが、普通に考えれば野望があるからこそ上杉と戦わなかったのではないでしょうか?日和見を否定されますが、関が原なんてどっちが勝つか正宗からはわかるはずがありません。もし関が原に秀頼が輝元を連れ、豊臣本体とともに現れたら関が原の様相なんて全然別物ですよ。小早川の裏切りなんてありえないし、むしろ福島正則以下豊臣恩顧が豊臣方につきかねません。そのまま考えたら四倍の戦力、秀忠が到着したって倍の戦力に囲まれ袋のねずみです。しかも兵糧だって福島頼みで陣中にあるのなんて半月くらいしかないでしょう。すぐに撤退を始めるでしょうが、それにしても福島の本拠尾張か、中仙道を越えることになります。尾張突破も難しいでしょうし中山道ルートは上田で真田正幸が網を張ってます。高遠ルートから杖突峠を越えても、難所ですので敵の追撃で半分以上討たれるでしょう。  正宗からしてみると、関が原で徳川が潰走してくれないと天下に覇を唱えるも、奥州で割拠するもできないんです。徳川が勝っても潰されない程度に、徳川敗報があったときの行動をとるのがベストという判断でしょう。彼が頑張って関が原をひっくり返せないなら、日和見しながらチャンスを待つ(結局こなかった)のが当然に思えます。  はっきりいって伊達家に天下に覇を唱えるような経済力も軍事力も有りはしません。ですが、上杉とうまく同盟関係を作ることができれば、頼朝時代のように、西国の豊臣勢力、江戸の徳川勢力、奥州に上杉と伊達みたいな鼎立の形を目指すことは考えていたように思えます。

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.4

戦術的決断力にはすぐれていたが、天下人になる為不可欠の、戦略的決断力に不足ありも評価の低い一因ですね。 秀吉の小田原攻めへの参陣遅れ、関が原の役の際の戦い方いずれも日和見的です。 政宗は東北の田舎大名にしては、中央の情報をよく集めており、的確な判断が出来たはずです。    政宗は早くからの秀吉や家康の側近への接触を図っています。    これが何度もの大難を潜り抜けられた理由ですが。 早くから参陣していれば、うい奴とほめられ、会津没収はまぬかれた筈、兵の損失を恐れず上杉と力戦していれば、百万石は貰えた筈。 決断出来ないわけの一つは、大事を自分の一存では決められない家臣の統率の問題、家臣のシステム化が出来てなかったことで、No.1さんの答え通りです。 信長、秀吉、家康ほどの資質はなかったと云えます。 ではもし、この三人がいなかったら?。

回答No.3

最近になって彼をテーマにした小説やドラマの人気が出て知名度が上り、必要以上に功績が誇張された結果、天下を狙えたかも知れない傑出した名将にされてしまいましたが、実際は辺境の一大名に過ぎません。 北条、徳川と連合して秀吉に勝ったとしてもその後の主導権を握れるほどの兵力は伊達家にはなく、 天下分け目の関ヶ原の時には決戦場にすらおらず体制を左右するような存在ではありませんでした。 また、南蛮から援軍が来ても日本が外国に征服されるだけで、よくて傀儡政権の首班になれるかどうかといったところでしょう。 やはり、どうあがいても政宗に天下は盗れなかったと思います。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.2

奥羽の田舎大名。覇者ではないですね。 政宗自身もよく分かっていたと思います。 京都に程遠い地にあっての自立を目指していたのであって、 覇者になろうという気は無かったと思います。 この地方の自立心が中央への反抗的な態度の現われだったと思います。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.1

どちらかというと「所詮奥羽の田舎大名」ですね。 根拠 1. 江戸時代の仙台藩の仕組みを見ると分かりますが、全国で一二を争う「戦国時代そのままの制度が残った藩構造」です。「それで藩が運営できるのだからそれで良い」と当時の仙台藩関係者にインタビューすれば言うでしょうが、政宗の革新性や強いリーダーシップ(戦国の混乱を鎮める最初の天下人となった信長に極めて強くあったもの)は全く見受けられません。 2. 関ヶ原の合戦の時、西軍の上杉家は北方を奥羽山脈を挟んで伊達家と最上家に相対し、南方を結城秀康率いる徳川軍と相対していました。越後の堀家も会津への侵攻は可能でした(戦国時代に、武田信玄が会津の芦名家に「越後の上杉謙信を攻撃して頂きたい」と要請した事実あり)。徳川軍の側面には、西軍よりだが東軍への敵対行為を行なっていない佐竹家がいます。 この局面で、近世石高で各方面の兵力を概算すると、 (西軍) 上杉家 120万石 佐竹家 50万石 (組下大名を含めて) (東軍) 徳川軍 40万石 (宇都宮城にいた結城秀康指揮の兵力はこのくらいでしょう) 伊達家 60万石 最上家 20万石 南部家 10万石 秋田家 20万石 津軽家 10万石 堀家 30万石 (越後国内の西軍方一揆に悩まされ、会津出兵どころではなかったそうですが) ざっとこのくらいです。東軍の兵力は各方面に分散していますが、西軍合計(佐竹勢を含む)と東軍合計は同兵力といえます。 まあ、津軽家や秋田家が上杉家攻撃に参加できるかというと無理があるでしょうが、 伊達 60万石(実高はそれ以上) 最上 20万石 徳川 40万石 この兵力は上杉家と同等です。 家康は、江戸への南下を図るであろう上杉家の背後に北方の伊達家が食いつき、上杉家を釘付けにすることを期待していたようです。その前提で、今の白石市あたりから福島県内の伊達家旧領(秀吉が没収し、北方の岩出山に伊達家を移した)を伊達家に恩賞として与えるという「100万石のお墨付き」を政宗に与えています。 ところが、政宗が実際にやったのは「上杉家の対伊達家最前線にある白石城の奪取」これだけです。後は特に何もせず、上杉とにらみ合っていました。上杉に内通していたとも言われます。 幸い、上杉が宇都宮方面に南下せず、米沢方面から直江兼継を指揮官とする軍を出して最上家を攻撃したので、宇都宮は無事で済みました。上杉が「断固として南下し、徳川と決戦する」方針を取り、佐竹がそれに呼応すれば、宇都宮の徳川軍は包囲されて全滅したした公算大です。そして江戸は上杉・佐竹連合軍に蹂躙されたでしょう。 (上杉家が80万石相当の兵を南下させ、佐竹家が全力で参戦すれば130万石。宇都宮の徳川軍の4倍の兵力です) 史実では、小山評定で東軍が「宇都宮に押さえの部隊を残して上方に戻る」と決定したのが7月24日、会津を挟んで北方にいる伊達家が白石城を奪取したのが7月25日です。関ヶ原の合戦は9月15日ですから、2ヶ月近くの間伊達家は何をしていたのか?ということになります。史実に残るような事は何もしていません。 関ヶ原の後、家康は期待に全く応えなかった伊達家には「100万石のお墨付きは破棄。現領地の安堵のみ」という冷たい処分で応えました。一方、上杉家と激しく戦った最上家は2倍以上に加増され、今の山形県から米沢盆地を除いた地域と秋田県南部を支配する大大名(石高60万石、領地据え置きの伊達家と同等)となりました。 長くなりましたが、上杉家と決戦して戦国武将としての力量を天下に示すべき機会に何もしなかった政宗は「腰抜け」と評価するしかありません。 以上(1)(2)から、政宗は「所詮奥羽の田舎大名、新しいことは何も出来なかった。」と判定します。

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