• ベストアンサー

江戸時代のキリシタン(大名)

切支丹大名は、江戸時代には皆無だったのですか?

  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数5

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • TTl888
  • ベストアンサー率16% (7/43)
回答No.4

戦国時代ならば、黒田官兵衛、大友宗麟、中川清秀(細川忠興もかな?)など洗礼を受けたキリシタン大名が存命中でかつ大名なら江戸期でもキリシタン大名は初期は、存在するでしょうが、中後期以降はほぼいなかったと思います。 回答の一つで書いてあった前田利長にしても前田家2代目で江戸幕府成立以前に生まれています。 キリシタン大名の息子あたり(黒田長政とか)ならキリストに多少の理解のあったかもしれません。(ただ黒田長政がそうであったかわよく知りません。すいません)

platina-angel
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 初期は過渡期だったかもしれないけれど、それ以降は記録に残るような、 キリシタン疑惑がある大名はいなかったのですね。

その他の回答 (3)

  • TTl888
  • ベストアンサー率16% (7/43)
回答No.3

江戸時代の島原の乱以降キリスト教が完全に御禁制になったので、戦国時代もしくは、安土・桃山時代生まれの大名ならキリシタンはいたでしょうが、家中にキリシタンの当主がいたら間違いなくお家取り潰しにあうため、そのような人物が当主または大名になることはほぼ確実になかった(させなかった)かと思います。

platina-angel
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 隠れキリシタン大名のように噂されている方はいなかったのでしょうか?

  • hazu01_01
  • ベストアンサー率31% (341/1067)
回答No.2

初期には隠れていた可能性がありますが、すぐにいなくなったでしょうね。 また、初期には切支丹大名でなくとも、切支丹に理解のある大名はいたと思われます。

platina-angel
質問者

お礼

ありがとうございます。 初期はキリシタンには割りと寛容な風潮もあったのかもしれませんね。 中期以降でキリシタン大名というのは聞いたことがありませんので、質問させていただきました。

noname#113190
noname#113190
回答No.1

いないことになっていますけど、噂では加賀100万石の前田利長などがそうだったとか言われています。 七尾の本行寺が隠れキリシタンの寺とか・・・。 http://web3.incl.ne.jp/gakuen/ 噂ですけど。

platina-angel
質問者

お礼

ありがとうございます。 初期の大名では、本人や妻子がキリシタンではあったようですが、泰平の世が続いていた時、 キリシタンだけでなく、大名やその妻子にキリシタンがいたのかな?と思い、質問させていただきました。 リンクもありがとうございました!

関連するQ&A

  • 江戸時代の大名

    江戸時代の大名 江戸時代の大名で、老中とか若年寄とか寺社奉行とかいった幕府の役職に就いていた人は、 その役職に有るときには自分の藩の統治にはタッチしていなかったのでしょうか? 両方を同時にこなすといったら大変そうですが。

  • 江戸時代の大名お取り潰し

    江戸時代に100をこえる大名がお取り潰しになったそうですが、その中で幕府に抵抗して戦って滅びた大名はどれくらいいたのでしょうか? 知ってる方教えてください。おねがいします。

  • 室町時代と江戸時代の大名の違い

    室町時代の大名はしょっちゅう反乱を起こしていますが 江戸時代では大名の反乱は幕末までほとんどありませんよね? どうしてこのような違いがあるのでしょうか?

  • 江戸時代の11万石の大名は、現在でいうと?

    江戸時代の11万石の大名は、現在でいうと、どれぐらいの資産を持っている事になるのでしょうか? 江戸時代の11万石の大名は、現在でいうとどれぐらいの資産や年収になるのかを教えてください。

  • 江戸時代に大名に返り咲いた人

    関ヶ原で西軍に付いた人で、江戸時代に入ってから大名に返り咲いた人は居たのでしょうか?

  • 江戸時代の大名の正装。

    江戸城殿中での将軍・御三家・大名の正装は、「長直垂」だそうです。 また、大名は、節日の登城には、肩衣長袴を着用したそうです。 なぜ、袴の裾を引き摺る、歩きにくそうな衣装を正装にしているのでしょうか。 江戸時代初期では、戦国の世を戦い抜いてきた大名の気風が荒いので、殿中での振る舞いをおとなしくさせるため、という理由もあるそうですが、他にどんな理由があるのか教えてください。 鎌倉時代・室町時代の高位(将軍・大名クラス)の武家も儀式では着用していたのであれ ば、そのしきたりを踏襲したということですか。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代。大名同士の付き合い。

    幕府は、大名同士の付き合いを制限していたのですか。 制限していたとすれば、具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。 この法を監視する役職は何ですか。 違反して咎められた大名家はありましたか。 江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。 すると、婚姻圏は大きいと言えず、大名家同士、いっぱい親戚関係になります。 しかし、この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。 それをどこまで管理できたのかという疑問です。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代の大名のお城、藩邸

    江戸時代の大名には、数万石の小藩の大名から数十万石の大大名までいましたが、 地元のお城や江戸の藩邸は、石高によって、建物としての大きさや庭園などのお屋敷の格も、 相当な違いがあったのですか?

  • 江戸時代に大名の数が増えたのはどうしてですか?

    江戸時代の幕府成立期に183だった大名が、 元禄には243、幕末には266に増えています。 家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、 どうして増えたのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 江戸時代の「大名改易」

    「幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方があります。 6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。 そこで質問ですが「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」と言えますか。 幕府は、大名改易に関してどんな基本方針をもっていたのですか。 家宣以降は、将軍権力の改易・転封をちらつかせて大名を統制したというよりは、大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。 よろしくお願いします。