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《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

noname#80116
noname#80116

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  • ベストアンサー
  • mr-birn
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回答No.12

  『現人神』は、理解できました。  では、一般に言われている『神』を貴方は、どう考えておられるか?(信じている側ですらあります)。と書かれてあります。・・・ が?  歴史的な事柄は、置いて現在から未来を考えて見たいと思います。例えば、地球温暖化と神、『現人神』には何の関わりも見出せませんが、現に問題は発生しています。又、地球の外側(天文分野)では≪暗黒星雲≫などの情報が、NHKの教育でも放送しています。何と、宇宙の65%位が≪暗黒星雲≫とかが占めていると言うのです。(不明の方が多い) ○○億光年とかの世界ですが、実在してるのでしょう。それらを、『神』の摂理とするでしょうか?私は、そう思いますが、その場合、『神』とは何を意味するか?  ※ 私には、社会現象・科学・天文学とばらばらにする思考と、絶対的な摂理を意識する人があると思います。人間が支配するか、別の次元に求めるか。  例え、同じ宗教・宗派・教会などでも個々人で理解は違います。けれども、尊重できる範疇なので目くじら立ててもしょうがない程度なのでしょう。  史実がどうこう言われるのは、歴史的裏づけが必要な時です。でも、事実は余り気にしない物語・絵本など子供向けの本もあります。著者は大人で対象が子供と言う違いはあります。そして内容的には、多少のぼかしや脚色はあってもポイントを得た(絞った)本が最近は多く見かけます。いじめをテーマにした物が有りましたが、大人が見ても面白いと感じます。  日本が戦争で負けて、天皇に対する見方が変化したのは、約60年前です。でも、日本の『神』が抹消した訳では無く、信教の自由の基に、生きられる訳で、仏教・キリスト教もです。但し、戦中は他国の宗教と言う事で弾圧した訳です。『建国記念日』や『靖国問題』など、史実は不明ですが、神話や祭り事のように思える事も含まれて現在があるように思います。ギリシャ神話でも言えそうです。  『神』に対する概念には、超自然・絶対者を求める人間的な本質があるように思います。ですから、その辺で考えると尊重(天皇が象徴である如く)する事で、人間社会が秩序を保っているように感じます。敗戦後そういう意味で天皇制が残されたと言われましたが、私の記憶では?  > けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  私にも、分かりません。ギリシャ哲学も盛んな時代ですよね。当時の指導者が都合よく解釈したと簡単に言えません。火のない所に煙が発たないように、何かがあっての事と考えますが、ゆえに信仰の対象では?  >たとえば子どもたちに どう教えればよいか問題になりませんか。  問題ですね。でも、その問題の回答は子供に返すしか無いのでは?子供のレベルに合った説明をして、実は先生も分からない、研究中(ネットで調べている)。それが、きっかけでその子が学者になるかもしれないので、湾曲した説明は、逆に責任があるように思います。

noname#80116
質問者

お礼

なぜゆるされているか? ――わからない。 子どもにどう教えればよいか? ――先生もわからない。〔わかるような人が出て来て欲しい。〕 なるほどと思いました。そのとおりだと思いました。問題は残ったままなのですが。 神をどう考えているか?との問いもありましたので わたしの信仰にかかわらせて 上の事態を解釈するなら こうなります。 潮の満ちていくように 神をめぐる人間(人類)の時も 少しづつ 満ちていくのだと思います。その一つひとつの段階と日々の過程とをたどっていくのだろうと考えます。 でも ただ今でも 教科書は 何らかの説明をしているんですよねぇ。神が肉となったというのです。文学的表現であれば まだしも・・・。まあ 信教の自由は いいものですが。 ありがとうございました。

その他の回答 (21)

  • tbx
  • ベストアンサー率15% (24/155)
回答No.1

原典もそう書かれてるのかな? なんか意訳まざってそう

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 たとえば《ヨハネによる福音》冒頭第一章では こうあります。 《初めに言葉があった。・・・言葉は神であった。・・・そして言葉は肉体となり わたしたちに内に宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって めぐみとまこととに満ちていた。・・・めぐみとまこととは イエス・キリストをとおしてきたのである。・・・》 いかがでしょう。

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