• 締切済み

本能って何? その正体は?

tabioの回答

  • tabio
  • ベストアンサー率29% (5/17)
回答No.8

「哲学」というカテゴリーで、ということなので。 本能とは、生きとし生けるもの、すべてに平等に与えられた、 自分の肉体を保持、維持していくための能力だと思います。 ですから、下のご回答では否定されていた性欲も、 その範疇に入れることができるでしょう。 自分の肉体を守ると同時に、その肉体の情報を遺伝子に乗せる ことによって、後の世まで生きながらえようとするわけですから。 生まれたばかりの赤ちゃんが、お母さんの乳房にムシャブリつくのも 「自分自身」が生きたいがため。 ウミガメの赤ちゃんが、殻を破ってすぐに海へと向かうのも 「自分自身」が生きたいがため。 従って本能とは、利己(エゴ)の塊だと言い換えることができると思います。 しかし、そう言い換えることによって、本能とは実在であり、概念でもある ということになってしまうのでしょうかね。 追記 mori0309さんは、いつも新鮮かつ深遠なご質問を寄せられますね。 その質問に対して、私だけではなく、たくさんの人々が思考をめぐらせる。 これこそ「哲学」なのだと思います。 たとえば人間というものを、特に西欧的な科学はとことんパーツに分解して いきました。人間というもの、あるいは「生」というものを知るために。 ところが、いつの間にやら、あんな細胞、こんな機能を組み立てていけば、 人間になるんだ、というふうになってしまったように思います。 パーツをいくらうまく組み立てたとして、生なるもの、ましてや人間なんて できないのにね。究明していく順序が、逆なんじゃないかと思います。 たしかに、人間、生なるものはたくさんのパーツによって構成されています。 じゃあ、どうしてそのパーツが寄り集まったら、たとえば人間になるの? 数多あるパーツをうまく機能させているものは何? その場合に、質問されたように、それは本能というものがパーツを機能させて いるんだ、あるいは脳がそうせさているんだ、という答えがかえってくるのか もしれません。 じゃあ、本能をそうさせているものは何? 脳をそういうふうに働かせている ものは何? 私ごときの頭では、答えを出すことができません。 しかし、学も何もない私でも、そういうことに答えを出そうとして考える。 mori0309さんのご質問は、結構よい体操になりますよ。 関係のないことを長々とすみませんでした。

mori0309
質問者

お礼

tabioさん、回答ありがとうございます。別室でいただいた回答もあわせて考えてみますと tabioさんと私とは、ものの捕らえ方・考え方が、私とかなり似ているなあと、勝手に想像 させていただいております。 > 究明していく順序が、逆なんじゃないかと思います。 まったく同感です。私もいつもそう感じていました。バラバラに分解して、しくみを解き 明かせば、それで真理は究明できたつもりになってしまう。でも、部品や仕組みによって 全体として実現されているもの、それらによって顕現されているもの、そちらのほうに、 より大きな真理があって、そういうものは分析的理性や何でも怜悧に相対化したがる知性 には、分からない(見えない)だろうと思うんです。「実現されているもの」や「顕現され ているもの」は「部品や仕組み」をはるかに超えたものかもしれない。「全体」が「部品や 仕組み」の必然的展開物ならば、それは単なる「言い換え」や「繰り返し」にすぎないと いうことになる。自然はそんな無駄なことはしないと思うんです。 (再回答のお願いではないです。自分自身への問い(独り言)です)

関連するQ&A

  • 本能

    子孫を残すといった種の保存は生物の本能ではないと聞きました。その事について質問なんですが、では何故男女の性欲に差があるのでしょうか?勿論個人差はありますが一般的には男性の方が強いとされますよね。 よく聞く話では、男性は本能的に遺伝子をたくさんばらまくから。女性は良い遺伝子を選ぶから、産むのには限界があるからなど。 しかしこれは最初に書いたように種の保存は本能ではないという説と矛盾しますよね。そもそも本能という言葉は死語であるとも聞き混乱しています。 詳しい方どうかよろしくお願いします。

  • 哲学における「実在」の概念について

    「実在」という概念は、哲学上、どのように捉えられているのでしょうか? 「存在」はハイデガーの論考に代表される大問題ですし、「実存」も、バリバリの大問題です。ですが、素人的には「実在」って、そういうレベルでは考えられたことがない気がするんですが、どうでしょうか? とはいえ、「存在」とも「実存」とも違うのは確かなので、そういう概念自体には意味があると思うので、それなりに考察に値するはずだとは思うのですが。。。 わたしはいま、「生物の種の実在性」ということをちょっと考えているんですが、そういうことを考えるのに、そもそも、「実在とは何か」っていうのをはっきりさせないと始まらないと思うんですが、どこから手をつけていいのかわかりません。それに、そういうのは生物カテで聞く問題でもないと思うので。 詳しい方よろしくお願いします。

  • わたしは信仰に席をあたえるために

    わたしは信仰に席をあたえるために知識を廃棄しなくてはならなかった。 ご存知の大哲学者の有名な言葉ですが、不滅の霊魂のような自然科学の対象で無い世界の可能性を否定する輩のその根拠はなんでしょうか?

  • 生物化学

    疑問に思っていることがあります。 生物化学 生化学 生命科学 の微妙に異なる言葉の違いによって 定義や概念は、どのように 違っているのでしょうか。

  • 哲学的『生命』とは、何を指しているのか?

    私は創価学会 壮年部の者です。 よく仏教書や哲学の中では『生命』という表現を使用 しますが、生命科学や医学などでは生命の概念が 哲学的『生命』とは違い、<生きものが生きている状態を 指して「生命を持っている」「生命を宿している」と呼び、、、> と、生死を離れてはおりません。 しかし、『三世の生命』や『生命の流転』、あるいは宿業論など いたるところで『生命』という言葉を目にします。 この仏教書、哲学で言うところの『生命』とは 哲学的『生命』とは、何を指しているのか? 哲学的・宗教的な『生命』とは、何と言い表わせば良いのか? という疑問が出てきます。 『魂』や『魂魄』、『生気』や『念』ということなのでしょうか?

  • 人間の細胞の正体とは?

    最近はIPS細胞が話題ですが、生物の原点である細胞って、そもそもなんなのでしょうか?解説は山ほどありますが今いちピンときません。難しい説明が多いのか私の理解力がないのか。とりあえず一般的な理解としては、人間の場合、男女、両親の精子卵子の結合から細胞分裂して、身体の成長、幼年期、少年期、青年期、老年期、死まで上限120年ほどで分裂終了。ってなことくらいです。では、何も存在の無い状態から、いや厳密言えば、他者(男女)の細胞から変化を遂げ、今の自分は、細胞って奴に支配されて?いや共存?意思をもった肉の塊にすぎず?、細胞さんは自分?ある意味で仏教でいう無我状態ともいえるし(自分?細胞の集合体?)、ただ、細胞ってやつは形のないとこから形を作り、さらにまた分裂増殖を繰り返す。一体こいつの正体は何のか?哲学的な範疇なら、生死の概念とは、人生観とはみたいな小難しいとこまで行きつきそうです。細胞をご説明できる方、生物学的、科学的でも哲学的でも、子供のなぜなぜ知識的でもかまわないです。全くくだらない質問で恐縮ですがお教えください。

  • 生物は なんのために進化するか

    ほぼ哲学的意味合いのテーマとしてお考えください。 そもそもなぜ「生命が生まれたのか」も問題になってしまい ますが、それは「はずみや偶然」ということにしてください。 論点は「なぜ(なんのために)進化するか、そのゴールは?」 です。究極的な生物になることでしょうか?だとしたら「なぜ究極的 な生物になるのか、なってどうするのか」 多くの生き物からは「確かな生きる意志」を感じてやみませんが それはなぜか、なぜ生きるのか…  少なくとも「個体」としてはやがて消滅することがわかっているのに、 それでも「種」として存続しつづけようとするのはなぜか?

  • 幽霊はいる?いない?

    こんにちは。 このサイトでは、よく幽霊がいるかいないかが議論されていますよね。 『実際に幽霊を見た』と様々な体験談を書いている方や、それに対して『きっと光の屈折や影の効果などによる誤認だ』と頑なに否定している方もいらっしゃいます。 よく持ち出されるのは『幽霊は未だ科学で証明されていない』という意見なのですが、ここからが質問です。 幽霊(霊魂)が科学で証明されていないという理由でその存在を否定するならば、では未だ科学で証明されていないけれども確かに存在する私達自身(私達の肉体に宿っているもの)、その『生命』というものはどう説明すればよいのでしょうか。 生命あるもの『死亡』すれば肉体だけが残り、生命力を失ったそれは同時に体内の全器官の機能が停止し、身体状態の保持能力の消滅、肉体の腐敗が始まるのですよね。(=土に還るということ??) では『生命力(精神?)』とは一体何なのでしょうか?科学によって定義づけられているわけでもなく数値や数式で表されているわけでもない。しかし、しっかりとここに存在している。 僕は幽霊を信じているわけではないですが、そう考えたとき、じゃあこの肉体に宿っているのは何なのか?と疑問に思ったので質問させていただきました。

  • 無神論者の死生観は動物の本能に近いのでしょうか?

     人間は知恵や知識が発達し、家族(~家の存続)村社会(共同体)というもの  が出来、皇族や豪族 武士等の当時国を制する立場の者は個人の墓というものは有 りましたが、元来当時の庶民層は共同体の墓地に納めるという形だったそうです  が、明治期にその様な身分が無く成り、~家としての墓が造られたという話を聞い た事があります。  ともあれ、弥生期頃には現在の様に法律や形式はありませんが、共同体で葬り  (土葬する位だったと思いますが)、死者を偲んだとも云われております。  それ以前 知恵 知識が発達する前は「死んだ認識も無く」「死ねば放置」  という事だったといわれております。  絶対的な神を否定する佛教の教え(無神論に近いと私は思いますが)も  「近しい方との別れ」「私も亡く成って行く」という悩みがあり、そこからの  解放が「ありのままに受け入れていく」という事で それが又死者に対する儀礼  (今日本ではこれが中心になり元来の佛教の思想とは離れたものになっていると   の指摘はありますが)へと繋がったとも云われております。  現代は科学が発達し、迷信や霊魂は否定 死後の世界等無い  だから「葬儀 墓無用」という方が増えていると思いますが、  その様な考えを持つ方で「無神論」と言われる方は人間の知恵が発達する前の  動物の死生観を引用されている方が多いと思います。  つまり知恵や知識が無いと「唯生きている」「死んだだけ」という事なのでしょう か?科学等は信奉されても、死生観は原始的なものへ立ち返るべきであるという事  なのでしょうか?  (私は霊魂や死後の世界は否定しております 佛教でも「ただ白骨のみぞのこれ  り」ということは云われております。唯「無に還る」という言葉が良く使われておりますが、無神論者の方にとって「無」は「無意味」「無価値」の「無」なのでしょうか? 事実死者に話しかけても応えてくれないし、死後の世界に行って帰って来た人はおりませんが、私のいのちも遡れば、「無」というところから始まったのではないかと思いますし、色々な方の「お育て」があり、今日の私があると思うので、 その様な事から自己の戒めという意味では儀礼や墓参りも必要なのではと思います 最終的に「心で思えば良い」という事ですが、形があり時には「ああそうかな」と 云う事もあるかと思います) (偏見で申し訳ないのですが、「何もしてくれるな」という方は個人主義の方が  多い様に思います。 事実本当の原始時代は徹底した弱肉強食だったそうですから、「自分は自分で今の地位生活を築いた」「誰の世話にもなっていない」 だから、「親戚や知人の煩わしい付き合いは嫌 行きたくない」 「墓も仏事のみならず 子の結婚等もめんどくさい」 「だから俺もほおっていてほしい」という理屈なのでしょうか?) 本能でみれば 生きている今だけ 世の中は弱肉強食 煩わしい付き合いは嫌 死ねば終わり その様な生き方が一番そのままに生きているといえるのでしょうか? ご回答お願いいたします。

  • 定義はどこまで可能ですか?

    初歩的な質問です。 科学全般に言えることですが、哲学的思考は言葉を定義できないと正確な議論ができません。 辞書をパラパラひも解くと、 【定義】ある概念の内包を構成する諸属性のうち、本質的な属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。 とあります。 では、とまた見ると、 【概念】事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容 【属性】それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質 【本質】存在者の何であるかを規定するもの これを一部乱暴に置き換えると、 【定義とは】「ある事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容」の内包を構成する諸々の「それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質」のうち存在者の何であるかを規定するものの属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。 分かりやすいような呪文のような言葉になります。 さらにこの文章を緻密に「定義」していくと、さらにエンドレスです。 さらに「真理」だの「永遠」だの「存在」だのを定義しても同じようなジレンマに陥ると思います。 と言う事は、定義は重要でありつつも、どこかで「まあ、だいたいこう意味だと。」と妥協しないと、いつまで経っても肝心の思考が始まらず、言葉の定義作業だけで終わってしまいます。 とどのつまり、哲学にとって定義とは何なのでしょうか? 。