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数学で「こんな証明分かって損した」とならないわけ

文学やら社会科学でよく 「あー読んで損した!」 という経験はあるかと思いますが、数学や自然科学(ちょっと古い地学生物系などは例外かも)で 「あーこんな証明分かってそんした!」とか 「あーこんな自然法則分かって損した!」 という感覚にならないのはなんでなんでしょうね。

noname#41852
noname#41852

みんなの回答

noname#194289
noname#194289
回答No.5

損したと思うのは自分の時間を無駄にしてしまったということだろうと思います。現代人はお金にならないことに時間を使うことを損と考えることが多いようです。数学の証明に時間を使うことが損と思う人ははじめからそういうことはしないのではないでしょうか。本などの場合は最後まで読んでその内容がつまらなかったということで、別の本を読むことに時間を使いたかったという感じでしょうか。一番損したというのは自分がいつかは死ぬということを知ったことのようにも思います。それでも知りたいというものはそれこそ命に代えても知りたいことですから大切なものだと思います。

noname#41852
質問者

お礼

時間を無駄にしてしまった!そうなんですね。ただ数学の証明に時間を使ってもそれが、実生活に役立たなくても、どうも損した気分にならない人が多いのではないかと。反対に文学やらでは、それに比べて圧倒的に損した人を作っているのではないかと。数学の証明で「つまらなかった」とはあまりならないんじゃないでしょうか?つまらなくても意味を持ったつまらなさだった。だから、まぁいいかと。

noname#27341
noname#27341
回答No.4

まず自分で発見した場合ですが、何かの証明を導いたり法則を発見するのは大変な努力が必要なわけです。 大昔にリンゴが落ちるのを見て何かを思いついたおじさんにしても「ああ、リンゴが落ちたな」と考えたわけではなく、それがきっかけで頭がフル回転していろんな計算が浮かんできたわけです。 だからそれだけ労力を無駄にはしたくないので、もし何に使って良いのか解らないものなら何とかして使える物を探し出そうとするのです。 たとえば今のデジタル技術なんていうのも作られた頃は使えそうにもないシロモノだったのです。 そう考えると、最初から使える目的で発見された物より後からいろんな物に応用した物の方が多いのではないかと思います。 次に本か学校で誰かが見つけた証明や法則を教わった場合です。 この場合そっち系が得意な人以外は「解って得した」と思える人の方が少ないのではないでしょうか? 何が得なのか解らないので損したとも思わないのです。 思うとしたら試験にそなえて勉強したけどヤマがはずれた時ですね。 No.3さんの例を言葉を覚えて損だったパターンに置き換えると、生まれてすぐ外国人に拉致されて大人になってから自分は日本人だと分かり保護されて本当の両親の元に返されたとかいう場合です。 必要な日本語の代わりに日本では必要のない言葉を覚えてしまったのです。 その場合は「損した!」では済まない大問題ですがね。 アメリカ英語で育てられたのならある意味ラッキーですが、拉致するような人が住んでるのは身につけても日本では役に立たない言葉を使ってる国が多いのではないかと思います。

noname#41852
質問者

お礼

社会的に価値があるとか、認められるとか、役に立つという観点から考えると、お答えのようなこともいえるんですね。ただ、言葉にしろ数式にしろ、特に役に立たなくても、「損をした」とまで思い至らないと思うんです。しかし、文学や人文科学的なものは、そういう安心がない。これがこまるんです。

noname#31698
noname#31698
回答No.3

学問が損得で語れる性格のモノではないからでしょう。 ちょっと例えとしてはズレるかもしれませんが、おぎゃーと生まれて言葉を覚えていきます。日本語覚えて損したということにはなりませんね。それは言葉が生きていく上での道具だからです。 同じように証明や公式を覚えるのは、その勉学を進めていく上での道具になります。 それに対して文学やら社会科学などは、実生活に活用できますし、自身のレベルアップを図れる可能性もあります。 それが自分の期待したものから逸れた、または自分の価値観にそぐわないと判断されたとき、失望感を感じるのでしょうね。 特に書店で自ら購入したものとなれば、その対価に見合う内容を求めますから。

noname#41852
質問者

お礼

数学や自然科学は、自分の価値観とは離れた何か絶対的な真理のようなものから降りてきたもので、それを理解することになんら損はないのでしょうね。一方社会科学はいいかげんな方向に行く可能性が多いということで。まだまだ人間の考えることは未熟なんでしょうかね。

  • mojitto
  • ベストアンサー率21% (945/4353)
回答No.2

今だから言えることです。 昔は科学者がとてつもない発見をしてしまい、宗教裁判などにかけられた例は多くあります。 中には死刑になった者もいたでしょう。 時代を間違えただけで天才と異端児に分かれるのです。 その点では、人命的損失、科学的損失はありました。 この発見がなかったら、俺は長生きできたのにぃ~と思った人もいるのではないのでしょうか。 その心配のない今では、自然科学や数学などで言えば、証明(根拠を以って万人に認められれば)できれば、覆されない限り科学の英知として蓄積されるので、損した気分になりにくいのかもしれませんね。 ただ労力の割りに科学への貢献が小さかったら、損したと思うでしょう。 反面、社会科学などになると、証明ではなく、主張の要素が強い気がするので、共感できない人間は特に「損した」と思うのではないのでしょうか。(社会科学に関しては、私の思い込みかもしれません)

noname#41852
質問者

お礼

そういう歴史もありますね。分かって損した苦しみの材料が増えた!ありますかね。社会的な意味合いでということは考え及びませんでした。とりあえず今の自然科学では、知識が増えたというだけで社会的困難はないわけですからね。社会科学のほうは「いいかげんなことでっち上げやがって」という感覚がつき物ですから。

  • v_mullova
  • ベストアンサー率21% (62/285)
回答No.1

「読んで損した」 という感情と 「分かって損した」という感情はそもそも比べられないのでは?

noname#41852
質問者

お礼

そうですね。読むと分かるとはちょっと違いますね。「分かる」ことは存したということにならないのかもしれません。

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