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前田利家は一向一揆衆を釜煎りしたか

buchi-dogの回答

  • buchi-dog
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回答No.2

前田利家という人を客観的に見ると 1. 織田家の家臣としては平凡な経歴。柴田勝家の組下。 2. 柴田勝家の下で能登を任される。明智光秀と細川藤孝の関係に類似。 3. 賤ヶ嶽の合戦で柴田を裏切り、柴田敗戦の決定的要因を作る。関ヶ原の合戦での小早川秀秋の役割に類似。 4. 羽柴軍に属した後は、元の同僚である越中の佐々成政攻撃の先鋒となる。(戦国時代の慣例で、降伏したものはそれまでの敵に対する先鋒となる) 5. 秀吉に引き立てられ、加賀・能登・越中の大大名となる。諸大名のうちで頭一つ抜けた官位の大納言を得る。五大老の一人となる。ただしこれといった実績はなし。 6. 柴田勝家と豊臣秀吉に非常な信頼を得ていた人物であることが伺える。極端な話、それだけで大大名になった男。 7. 吝嗇家であったと伝えられる。 利家が「律義者」とされるのは、秀吉が死んでから利家自身が死ぬまでのほんの僅かな期間に過ぎません。その期間に律義者であったことを裏付ける具体的な材料にも乏しく、律義者のイメージは後世に作られたものと見るべきでしょう。引き立ててくれた柴田勝家を決定的瞬間に裏切った点では、小早川秀秋と同じく「武士の風上に置けない」と評価されて当然です。 釜茹での件はNo1さんの言われるとおりでしょう。利家が(残酷な刑を嫌う)人格者であったと判断すべき根拠はありません。 利家と縁の深い柴田勝家は * 越前での善政が知られる。 * 自分を破滅に追いやった利家に対し、年来の友誼を謝して人質をそのまま返している。戦国の常識では考えられない行動。 と、高い人格を示す具体的材料を有しています。

weber7009
質問者

お礼

ご回答ありごとうございます。 なおここで「律義者」について、利家と勝家との関係は回答者のご指摘の通りですが、ご存知のように利家と秀吉との関係も尋常ではなかたようです。 (1)幼友達であった。 (2)利家の四女・豪と六女・菊は秀吉夫妻の養子になっていた。 (3)正室まつと秀吉の正室ねねは仲がよかった。 (4)天下獲りレースでは明らかに秀吉に分があった。 以上のような状況下にもかかわらず、利家は賎ヶ岳の合戦で一旦は勝家の味方に付いた事によって義理を果たした、とも言えないことも無いのでは・・・。 確か、佐々成政はこの戦いで傍観を決め込んでいたのも関わらず、戦後、秀吉は成政の領地を安堵している。その意味では、利家も最初から傍観しててもよかったのかもしれません。

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