• ベストアンサー

偶然とは何ですか。

例えば次のようなケースを考えて見たいと思います。Aさんはいつも8時ちょうどの電車で通勤していました。しかし、その日は偶然旧友のSさんに道で会い、2,3分立ち話をしたため、8時10分の電車にのりました。その電車でも十分会社に間に合うのです。ところが、この電車が事故を起こしてしまいAさんは帰らぬ人となってしまいました。質問は、このような偶然も、あらかじめAさんの宿命として定められていたと考えるべきなのでしょうか。また、Sさんの存在はAさんにとって何だったと考えればいいのでしょう。(もし自分がAさんの身内であったら、Sさんに対して恨みを覚えることでしょう。たとえ理屈としてはSさんに責任がないとわかっていてもです。)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#32495
noname#32495
回答No.9

#5です。 私の回答は、人間的「価値観」がSさんを「特別」だとみなすということです。その他もろもろの要因には注目しないのです。 私が以前発した質問です。 こことどうつながりがあるのか明確にはできないですが、なにか参考になったらしてください。 この問題はつまるところ「意思」とか「幸福感」などの、人生的問題と切り離しては論じられないようです。 たとえば、このご質問ケースですが、客観的状況と主観的状況とがどうかかわっているか見てみます。 8時の列車と言う客観性ですが、そもそも8時と言うものは現在の地球の公転周期自転周期をもとに算出せれているわけです。これが1億年10億年前はどうだったかと言うと、もっと自転速度は速かったですから、今の8時ではない。よしんばその自転速度の一周分を24分割するという方法を同様に取ったとしても、それが対極的に絶対的な意味は持ち得ないでしょう。 意味を持つのは人間の「意志」が働いているからです。24分割した時間のどういうやりくりで社会を回していくのか、もちろん明確に意識したわけではないでしょうけども、そんな制度を作り上げた人間の意志が存在します。その一端が「8時の列車」のわけです。この列車は当然歴史的再現性は一度もなく、今日は昨日よりも疲弊しまたは整備されまたは違う車両に置き換えられ、運転手も交代しているかもしれない。8時1分発かも7時59分発かも知れない。「8時の列車」の絶対性はない。 しかし何らかの枠組みがあるのは、人間の「意志」の結果です。この同じ「意思」によってAさんは幻想の産物である「8時の列車」に乗ることを習慣としている。24時間で自分の生理的サイクルをまわすと言う意思の結果です。会社に無事着きたいと思うのもそうです。 問題は、このような「意思」が「他力」的に影響を受けたときにどういう作用を受けるかと言うことです。 ここまでの背景を見ておいて、では列車事故にあうことと、何らかの非日常性が介在することについてみてみます。 この質問の例では、結局「災難」の問題なのですが、「僥倖」の問題に置き換えても状況的には同値なはずです。例えば「宝くじ」の話にします。Aさんは宝くじをいつも同じ窓口で習慣的に買っていました。5等以上あたったことはありませんでした。またある日、買うつもりで家を出ると旧友のSさんに出会って2,3分立ち話をしました。その後で買ったくじが5億円の当たりくじだったのです。 Sさんとであったのが決定的に見えますが、これは「価値観」のなせる業です。家を出たときにちょっとぱらついていたので傘を取りに帰ったその時間差がこの話につながったかもしれない。それがなければSさんと会わなかったかもしれない。決定的だったのは「雨」だったのかもしれない。あるいは狭い路地ですれ違うのに苦労させられた車のせいだったのかも知れない。同様に「事故」にあった場合も、Sさんと出会うタイミングを作った要因が他に無数にあるだろう。それには当然注目しない。 さらに、2つの場合(列車事故と当たりくじ)について、Sさんに対するAさんの評価を考えて見ます。その出会いを快く思ったか否かでまた話が違ってきます。もし、快い相手だった場合「列車事故」で生き残ったとして重傷を負ったような場合、ある程度あきらめるでしょう。しかし会いたくない相手におべっかを使った数分だったとしたら、なんともやりきれない恨みを抱くでしょう。「宝くじ」のばあい、快いSさんは家に招かれ1割くらいのおすそ分けを貰うでしょう。不快なSさんは以後その嫌悪感のレッテルを解消する。これらのことはSさんが十分に大きな価値観を持つ存在(雨とか車とかとは比べ物にならない)であったと言うことに起因します。 このような自身の人生にとって「価値観」を伴った事象(「事故」とか「当たりくじ」がこれまた自己の価値観に大きく作用するような事象によって引き起こされた場合(車でなくSさんに会う)尋常なのかどうかと言うことです。この「意思」に働きかける要素を持った「偶然」が本当にランダムな偶然性と同値であるのかどうか、私にはわかりません。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2262728.html
kokutetsu
質問者

お礼

再度のご丁寧な回答まことに痛み入ります。人はだれでも、こうありたいという自分になるために努力しています。しかし、まれにその努力が裏目に出て不幸にあうこともあります。そんなとき、それを全て自分の力量のなさにして反省しようとすると、やりきれない場合があります。最近、自分にそのような不幸があり、分かりやすい極端な例に置き換えて質問してみました。色々なご教授をいただき、少しですが落ち着きを取り戻すことができました。多くの親切な回答者様ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (8)

  • zenrai
  • ベストアンサー率21% (8/38)
回答No.8

 AさんにとってのSさんの存在ですか? 会うべくしてあった旧友だと感じます。 私は、量子論より決定論を信じているので「偶然会った」というよりも、 Aさんの日常生活で電車に乗る時間と、Sさんが道をあるいていた時間がその日に重なっただけ。 AさんにとってもSさんにとっても「偶然の出会い」だったかもしれませんが両者とも理由があってそこに居たのですから。<Aさんは仕事に行く途中だし、Sさんだって過去の行動と関連してそこに居たんだとおもいます。

kokutetsu
質問者

お礼

ニューヨークで蝶がはばたくと、東京で嵐が起こる、という話を聞いたことがあります。量子論、決定論については無学ゆえしりませんでした。勉強したいと思います。ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#24129
noname#24129
回答No.7

「偶然とは人間の理解を超えた必然である」 このように仮定して意見をのべてみましょう。私たちが因果関係の必然性を理解しているのは、主に自然科学的な認識の中においてではないでしょうか。それは考えるべき対象を極度に抽象したものです。多くのものが捨象されてはいないでしょうか。その上で、原因と結果が1つの矢印で結ばれるような認識に至っているのではないでしょうか。それは単純であるから理解がなされるのです。 ご質問のケースでは、旧友との再会と列車事故に必然性がありはしないかという疑念が生じるということですが、仮にあるとすれば、それと同様に、他の無数の出来事をも原因と考えなければならないような気がします。その多くの例はご想像に任せますが、突き詰めて原因を探ればきりのない事ながら、1つの区切りとしての例をあげると、Aさんがこの世に生まれたことさえ、原因となりうるような気がするのです。 それら無数の原因の重みをそれぞれどの程度に見積もって、原因の集まりを適切に表現できるでしょう。質料因(アリストテレス参照)でさえ複雑であるのに、目的因(同アリストテレス参照)まで考えだすと、それを人間が表現することのできるのはその一部だけではないでしょうか。その場合、表現しなかった原因については暗示的に示すのが精一杯のところではないでしょうか。 「偶然が重なって」と人は表現しますが、むしろ「必然が重なって偶然が生じる」という方が的を得ているような気がします。すなわち、Aさんは自己の意思選択を含めて、無数の必然から、偶然に列車事故でお亡くなりになったのだといえます。問うべきことではないとは思いますが、もしも、Sさんの責任を問うなら、全部ではなく、ごくわずかでしょう。それは、身内の方自身に問うべき責任と大差はないと思えます。

kokutetsu
質問者

お礼

さいころで1の目が出るのも、ころがしかたとか、床の凹凸とかがあって出るべくして出たのでしょう。しかし、それは人知では計算できないので確率という概念が必要になるのでしょう。ご回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#21336
noname#21336
回答No.6

>このような偶然も、あらかじめAさんの宿命として定められていたと考えるべきなのでしょうか。 これは宿命という定義を最初に設定する限りひとつのトートロジーになりませんでしょうか? というのも宿命というのはまさにそのようなものだからです。 >また、Sさんの存在はAさんにとって何だったと考えればいいのでしょう。 宿命という自分の意志以外の存在を考えれば必然となり先行条件、偶然と考えれば因果連鎖無しなので原因ではありません。 また、予測できない事象に関しては確率論を適用することは出来ませんし、 しかも非物理現象を精緻化することは不可能なので因果関係を発見することは無理なのですが、 問題は、人生という一回限りの出来事を時系列に副って考えた時点で、すべての事象と事象の間に因果連鎖を決定してしまうことです。 しかしこれはすべての人間が体験することであり、偶然的な事象をあたかも必然的であるかのように捉えるのは、人間に先天的に備わったひとつの思考形式です。 だからすべてを合理的に考えることは人間には不可能ですし、それができたら運命という概念は存在しないでしょう。不可解だから運命だということですね。

kokutetsu
質問者

お礼

過去に起こったできごとを、ひとつの意図(糸)でつなげようとしたとき、偶発的なことが宿命に見えてくるということでしょうか。丁寧なご回答ありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#32495
noname#32495
回答No.5

非常に強い印象を残す出来事と言うのがあって、それはこの例な様なものであったりするんです。それは「非日常」という感覚を伴っています。生物の感覚としては「日常」が当たり前のことでありまた安定したものです。人間の感覚も、これを実現するために社会システムを維持していると言う考えもできるように思います。 「日常」は当然、毎朝烏合の衆の中で誰にも呼び止められることはなく、8時の電車に乗り無事通勤する。しかしその中にも小さな揺らぎがありますね。毎日わずかにかかなりか違った経験をします。その揺らぎが非常に大きいのがご質問のような状況です。 (1)列車事故がある これとは別にAさんにとって (2)旧友と会う この(1)と(2)は何の関係もないんですよね。これが一致したときに、はじめて「強い印象」に刻まれるんです。多くの同じ列車に乗り合わせた人はおそらく(2)のような特別な体験をしないままにいつものかランダムにか8時10分の列車に乗って事故にあった。これは「印象的」ではない。Aさんは例外的だった。 これはただ事ではないと思いますよ。Aさんにとって(1)か(2)だけ単独で起こるのであれば、問題ないです。これは限度を超えた、やはり「宿命」が作用していたとしか思えない出来事です。生物進化がなぜ人間までこれたかと言う奇跡に近いです。Sさんというのは、やはりAさんにとっての特別な存在だあったと言わざるを得ません。

kokutetsu
質問者

お礼

他の回答者様が、偶然は単なる確率にすぎず、それに特別な意味が生じるのは、人の心が後から色づけをしているにすぎない、というドライな意見なのに対して、bossammba様の意見はウェットな感じです。自分が今ここにいるということも、無数にいる祖先のうちの誰かが別の人と結婚していれば成り立っていない、と考えると不思議な気がします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

セレンディピティ=何かを行ったり探している時に、探していたものとは別の価値あるものを見つけ導く能力を指す言葉。 この言葉は,質問にある偶然とは真逆のものである。 逆であるからアンセレンディピティとでも言おうか。 さて, なにが言いたいかというと, これらの言葉が表すように偶然を良いものに導くことも, 悪いものに導くことも, それは自分次第ということである。 自分とは人間一人ひとりの一個人のことであり, 例えば, 質問の中の例のように ≪その日は偶然旧友のSさんに道で会い、2,3分立ち話をした≫ 行為は果たしてAさんの決定によるものではないか。 これをSさんのせいにすることは, Aさん自身の生きてきた全てをも否定することになると思う。 Aさんは己の考えによりSさんと会話しその後の電車に乗った。 これがもしSさんとは会話をせずに無視をして, 8時10分の電車に乗っていて事故死したとしても その非は,物事を自分で決め, 行なったAさんにあるのではないか。 非といったがある意味これは悲しいことであるし, 可哀想であるとも言えるだろうが, そんな悲観論だけでは本当に正しい考えが出てこない。 だから言う。 偶然とは 時には冷酷なことであるとは思うが, その偶然のウラには, ちゃんと幸か不幸かを決める余裕というものがあるとも思う。 偶然だって自分の行動で良し悪しを物にできるのではないか。 その行動とは小さなことかもしれない。 気づかないほどに刹那にあるのかもしれない。 だから, 全てのものごとの判断は自分自身で行なっているということを忘れてはいけないと思う。 もちろん自分の身や身内にそういうことが起こったときにそう思えるかは自信がない。 しかしSさんのせいには絶対にしたくないと思う。 これこそ人間としての自己責任である。 可哀想な運命だったと言ってしまえば簡単であるが, 小さな分岐点で偶然を悪い方に導いたのは自分のせいであると思わなければならないのではないだろうか。 いい判断に導いていればSさんを恨むことはないだろう。 それはやはりおかしい話である。 偶然が良いほうにいっても,悪い方に行っても, それはいつも自分が決めていること, 他人やもののせいにはできないのである。 ちゃんとした回答になっていなくてすいません。 考えさせられる質問でこっちが勉強になりました^^ 参考になれば幸いです。

kokutetsu
質問者

お礼

ありがとうございます。人生には、誰でも何度かつまずきがあると思います。そのつまずきが非常に大きい場合、自己責任としてすべて背負い込むのか、あるいは、何割かを運命のせいにして逃げるのか、どちらがよいか悩んでいるところです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

>このような偶然も、あらかじめAさんの宿命として定められていたと考えるべきなのでしょうか。 :宿命というのは、偶然の積み重ねによって形作られた人生を、結果論的に見た場合にのみ可能になる概念ではないかと思います。 初めから宿命というものが定められているわけではない、という論理性がともすれば見失われがちですが、 「錯覚」が「感覚」である以上、感覚とは切り離せない人間としては避けられない心の動きということが言えるのかもしれません。 Sさんを責めるべきではないという認識との均衡が取れる範囲であれば、憾みを覚えるのは感覚(錯覚)ですし止むを得ないのでしょう。 結果論的にみれば、すべてのことは必然的結果ということになるわけですから。 Sさんは、Aさんの人生と偶然に交錯する可能性のあった人間の一人だったにすぎません。 仮に必然的な交錯だったとする論理を正しいとするならば、もしSさんと旧友でなかったらAさんはもっと早い時期に電車事故に遭っていた、という論理が浮上したとしてもそれを否定することは難しくなるでしょう。

kokutetsu
質問者

お礼

ある事柄とある事柄を原因と結果で結びつけているのは、人の心ということでしょうか。示唆に富むご回答ありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.2

>このような偶然も、あらかじめAさんの宿命として定められていたと考えるべきなのでしょうか。 宿命とほぼ同意語である運命について、マキャベッリは次のように言っています。 『運命は人に機会を与えるだけである。それを好機に変えられるかは個人の力量に帰される』(君主論) この解釈を適用してみると、運命がAさん与えたのは「Sさんに出会うこと」と「8時10分の電車が事故を起こすこと」でしょう。 その結果、Aさんが亡くなったのは運命に与えられた機会から「死」を逃れる力量が無かったと言うことです。 厳密に精査していけば、「偶然」も結局Aさん自身の「選択」である事が分かります。 Sさんに会ったとき立ち話をすれば、いつもの8時の電車に間に合わないのは分かっていたはずです。 にも係わらず、立ち話をしてしまいました。 これは、Aさんが8時の電車に乗るよりも、Sさんと立ち話をする事を選んだのです。 8時10分の電車にしても、どの車両に乗るかや事故を起こしたときに生き残る行動が取れなかたったこと等、Aさんの「力量」に帰される部分もあると思います。 しかし、「Sさんに会う」「8時10分の電車が事故を起こす」と言ったことは運命に支配されていた事でしょう。

kokutetsu
質問者

お礼

桶狭間の戦いに信長が勝てたのは、当日うまいぐあいに雨が降り、馬の足音を消してくれたからだそうです。信長は、このような天運を勝利につなげる力量があったのでしょうね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • poponponpo
  • ベストアンサー率29% (965/3218)
回答No.1

偶然とは、起こった現象に後から複雑な理由を付けられるものではないでしょうか? もしかすると8時ちょうどのあずさ2号が事故を起こしていた可能性もありますし、それだとSさんによって命を助けられることになるわけですが、それも偶然です。 宿命と言うものは無く、あくまでも確率の問題だと思います。

kokutetsu
質問者

お礼

さっそくのご回答ありがとうございます。確率を人情で見るとき宿命になるということでしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 賠償責任は家族にあるのですか

    身内が事故や事件を起こした場合、身内に法的賠償責任はあるのでしょうか。 それは親子や配偶者の間だけでしょうか。別居の場合は? 電車の事故を起こした場合、3代に渡って支払い続けることになる、なんて聞いたことがありますが・・

  • 電車や道端で異性と何回も目が合ったら何を思う?

    たま~にですが、通勤途中等で道の向こうから人が歩いて来た時に、 初めて気付いた時→もっと近付いた時→すれ違う直前 に目が合う場合や、 電車に乗って、 社内を軽く見回した時→少ししてから→どちらかが降りる時 偶然だと思いますが、この様に異性と何回も目が合ったら貴方なら何を思いますか? 私(男、33歳)は 『キレイな人だよな、彼氏いそうだな』 とか 『何だろ?ビビビって奴なの!?』 とか 『声掛けたらどうなるんだろ?』(出来ませんが…) 等と思ってしまいます。 回答される場合は性別・年齢(差し支え無ければ)を教えて下さい。

  • 労災について

    小さな会社(30名程度)の総務担当になりました。 総務のこと(労務関係)は殆どわからず勉強しながらとなります。  さて、今回相談したいのは、通勤時の事故ということについてでございます。  電車通勤をするはずの従業員が、マイカーで通勤してきて途中事故に遭い怪我をしました。この従業員に対して会社としては、電車通勤費としての交通費を支給しております。この場合、会社として、君は車通勤を認められてないのだから今回の事故の件は会社の労災は認めないよ!ということはあり得ますか? 自分の先輩が言うには、このような場合には会社に責任がないから・・というのですよ。 自分が思うには、たとえ従業員がルールを逸脱したとしても、通勤中に出くわした事故なのだから会社側も親身に接する(労災対処)べきではないかと思うのですね。まぁ~こんなケースはまだわが社では遭遇してはいませんが・・ うちの会社側では、なるべく労災を使わせないような方向で話を持っていく習性があるんですが・・ それって企業として普通の考え方なんでしょうか。

  • パートの自動車通勤について

    自営業のものですが、パートで雇おうとしている人から自動車通勤でもよいかと聞かれました。 認めてあげようと思いますが、通勤途中に事故を起こした場合に自己責任で処理してもらうために何か誓約書を取り交わした方がいいでしょうか。 また誓約書があれば事故発生時の雇用主の責任は免れるのでしょうか。

  • 展開・因数分解の利用にていて

    式の計算の利用の問題を解いているのですが、 理屈が分かりません。 解説を読んでもさっぱりです。 どなたか、できれば詳しく解き方を教えてくれませんか? 問題はこんな感じです。 「半径rの円形の池の周りに、図のように幅aの道がついています。 この道の面積をs、道の真ん中を通る円周の長さをlとすると、   S=al となることを証明しなさい。」 解説は、 「s=π(r+a)²-πr²   =π(r²+2ar+a²)   =2πar+πa、、、、(1)  al=r+0.5a    =a×2π×(r+0.5a)    =2πar+πa²、、、、(2) (1)と(2)から、S=al」 と書かれています。特に解説の「al=~」からが 分かりません。 よろしくお願いします。

  • 労災はおりますか?

    身内が会社帰りに交通事故にあい重傷を負いました。 (バイクで転倒) 労災がおりるかどうかを聞きたいのですが ”会社帰りに”は適用の対称だと思いますが 電車通勤をしなくてはいけないのに バイクで通っていました。 (バイク禁止の会社です。会社に届出はしていません。) 理由は、毎日残業続きで 電車だと終電がなくなって家に帰れないからです。 (もちろんタクシー代も宿泊代もでません。) 電車だと通勤時間は2時間、バイクだと1時間です。 この場合はどうなるのでしょうか? アドバイス宜しくお願い致します。

  • 【通勤労災】同僚を車に乗せて通勤して事故を起こしたら?

    【通勤労災】同僚を車に乗せて通勤して事故を起こしたら? こんにちは。 通勤労災についてお尋ねさせていただきます。 私は車で通勤しており、会社にも車通勤の届出をしております。 近所の同僚は車に乗っておらず、会社には電車通勤の届出をしております。 いつも、ついでだからと同僚を乗せて通勤しています。 同僚は僕に頼んで来る事は一切ありません。 ある時、先輩が 『それって、もし通勤中に事故に巻き込まれたら、君は労災として保障されるだろうけど、同僚は保障されないんじゃない?親切が仇になるかもよ』と言われました。 言われてみれば電車通勤で届けているのに同乗通勤だと保障されないのでは?と不安になってきました。 どうなのでしょうか? もし事故に巻き込まれたら同僚は労災で保障されないのでしょうか? 下手をすると私が自腹を切って…とか悲惨な目に!? 識者の方々、よろしくお願いいたします。

  • 通勤災害

    通勤災害で、労災の認定を得るのに、合理的な通勤経路とありますが、たとえば、健康のために、一駅前で電車に降りて歩いている時に事故にあった場合はどうなるのでしょうか。

  • 通勤災害(通災)という考え方について

    仕事においては、「通勤災害」という考え方があり、通勤中や勤務を終えた後の帰宅中に交通事故などを起こすと、それは会社の責任の範囲ということで「通勤災害」となるようです。入社時にそういう教育がなされることがあります。 僕自身があまり世間を知らないせいもあるのでしょうが、通勤中や帰宅中の交通事故なんていうのは本人の責任であって、会社の責任にはならないと思うんですけど、どうなんでしょう。会社の責任ということになるから、通勤に自動車やバイクを使うのなら、任意保険加入が必須になり、その保険会社名や保険証書番号を会社に提出しなければいけない、なんて話になります。 もし「通勤災害」という考え方が生まれた歴史的経緯をご存知の方がおられましたら、ご教授ください。「通勤災害」という考え方に対する意見でも結構です。

  • 通勤定期の範囲以外から乗るのは駄目でしょうか

    非常識かもしれませんが、通勤に関する疑問なので、宜しくお願いします。 駅が順に、A駅・B駅・C駅とあります。A駅はB駅の2つ手前で、私は、B駅からC駅間の定期で通勤しています。A駅からは始発電車があるため、定期の範囲から2駅戻って始発電車に乗れば、座って通勤することが出来ます。この行為は、実行すると、賠償責任等の問題になるのでしょうか? アドバイス、宜しくお願いします。

pdfがインストールできない
このQ&Aのポイント
  • パソコンが見つからないというエラーが表示され、書類をスキャンしてpdfに変換できない問題について相談したい。
  • Windows11を使用し、無線LANで接続している環境でpdfを作成できないトラブルが発生している。
  • 関連するソフトはpdfであり、電話回線の種類はjcnetnetである。
回答を見る