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石田三成の欠点

komesの回答

  • komes
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回答No.9

三成の欠点は一本気であった事、自分に近い武将も同じ気持ちと信じ込んだ事、清濁を会わせ飲むという腹芸が出来ない性格であったこと、につきます。 その他は彼の職歴によるもので、彼はあくまでも文系の能吏で武将ではなかったのに信義を貫く為、敢えて武将として行動しようとしたのです。 彼の才能は兵站、輜重、編成という後方勤務に長けており戦場での功名という点では2流、3流でした。 しかも主君である秀吉はこの点に彼の能力を買って使っていました。 彼が不人気だったのは、秀吉は部下に与えた所領に必ず直轄領を置きこれの代官に三成を当て監視役を兼ねさせた為で、この為三成は密告者と見られる誤解をうみました。 彼自身その性格から忠実に任務を遂行しただけですが豊臣恩顧の武断派と決定的な不仲を生じてしまったのは秀吉の不覚といえます。  近江派と尾張派との分裂、正妻ねねと淀の方の軋轢を放置したのも秀吉に責任があります。 彼の不運はこういった彼の責任でない情勢に腹黒く対処出来ず信義一辺倒で能力以上の大変に挑まざるを得なかった事です。

007yuuki
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