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第二回ポエニ戦争について

こんにちは。 高1のflankです。 第二回ポエニ戦争の カンネーの戦いではローマが大敗したが、 その反撃のザマの戦いで大スキピオが勝利した。 そして、 (1)ローマはヒスパニアを獲得 (2)カルタゴと結んだアンティゴノス朝マケドニアを  征服 と習いました・ (1)について、なぜアフリカの北部にあるカルタゴに 勝ったのに今のスペインのあたりのヒスパニアを獲得できたのでしょうか。 (2)について、これはポエニ戦争とどのような関係があるのでしょうか。

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  • luune21
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回答No.1

(1) カルタゴは、第一次ポエニ戦争により、シチリア、サルジニアを失ったため、その埋め合わせとしてスペイン南部を狙いました。アンダルシア地域ですね。ここは鉱物資源が豊富であったために、ローマも狙っており、再びローマとの間でこの地をめぐる覇権争いに突入してしまいました。これが第二次ポエニ戦争です。つまり、もともとスペイン地域をめぐる争いだったわけです。 (2) カルタゴとは別にマケドニアもローマと争っていました。最初(第一次マケドニア戦争)の頃は、カルタゴとの同盟にも守られ、優位に戦いを進めることができていました。しかし、カルタゴが劣勢となると戦況は次第に不利となり、ついには併合されてしまったということです。ハンニバルと運命をともにしたという感じでしょうか。

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  • caesar-x2
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回答No.2

というか、(1)の質問は簡単に答えられますよね。 カルタゴの領土だったからです。 チュニジア、ヌミディア、マウレタニア、 ヒスパニア、サルディニア、コルシカが カルタゴの支配地域で、 シチリアは半分がギリシャ同盟都市で ぢっちにしろカルタゴの領域。 ヒスパニアは特にハンニバルの一族が入植した土地。 当時は金鉱脈があったので有名でした。 カルタゴの都市とは別に原住民も住んでいたのですが ローマにとってはカルタゴの戦略上重要な拠点を 奪うことで、孤立化させ、イタリア遠征中のハンニバル軍の 補給源を断つ意味合いもありました。 (2)はローマの拡張にともなって起きた戦争という共通点があって、 周辺国は同盟してローマに立ち向かおうとしたわけです。

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