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円環的時間?

ウィキペディアの『失われた時を求めて』(プルースト)の項に <<記憶と時間の問題をめぐり、単に過去から未来への直線的な時間や計測できる物理的時間に対して、円環的時間、そしてそれがまた現在に戻ってきて、今の時を見出し、円熟する時間という独自の時間解釈、「現実は記憶の中に作られる」という見解を提起して、20世紀の哲学者たちの時間解釈にも大きな刺激を与えた>> とありました。 具体的にプルーストはどの哲学者の時間解釈に影響を与えたのでしょうか。 また上記の「円熟する時間」と「円環的時間」がいまいちよく分かりません。 そもそもこのウィキペディアの記事は正しいのでしょうか。 詳しい方、教えていただければ幸いです。

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回答No.2

現代のわたしたちの時間感覚というのは、おそらく、時計によって区切られた等間隔の刻み目のついた一種のモノサシ(あるいは年表)のようなものでしょう。 個人のモノサシとしては、いわばゼロの時点に自分の誕生があり、いつかは定かではないけれど、死という終点がある。「いま」の自分が立っている「現在」という点があり、後ろには「過去」の出来事が順を追って並んでおり、目の前には経験したことのない「未来」が伸びている。 人類という規模のモノサシでいくと、人類誕生という起点があり、いつかはわからないけれど、人類消滅という終点がある。 わたしたちにはある種「あたりまえ」のようなこの時間観は、実はちっともあたりまえではなく、また「正しい」と証明することができるようなものでもない。きわめて一時代的でローカルな見方なんです。 そもそもこうした直線的時間観は、特殊、「終末」を想定するユダヤ・キリスト教的な世界観・時間観から派生してきました。古代ギリシャや古代インドでは「円環する時間」というものが想定されていて、むしろ古くにはこの「円環型時間観」のほうが一般的だった。 これを非常におおざっぱに言ってしまえば、その時代、「時」は反復する天体現象で測っていたために、「時」そのものを「反復するもの」「回帰していくもの」と捉えていたわけです。季節が繰り返すように、夜がまた朝になっていくように、時間とは「円環」するもの、つまり「終わりはまた始めにつながっていく」ものという考え方です。 ともかく西洋では、キリスト教の影響の下で直線的時間観が取られます。(ここらへんの経緯は関しては真木悠介『時間の比較社会学』がわかりやすくまとまっています)。 ところがこの時間観は、ルネサンスから近代を経るうち、大きく変質してしまう。 非常に雑駁にまとめてしまえば、中世までの時間は「終末」という目的に向かう持続的なものだった。それに対して、近代以降の時間は、無目的な、客観的な「数量」として、人間の外側に、一種の実体的な「目盛り」としておかれるようになっていったわけです。 思想的な側面からいうと、デカルトは主体にとっての時間を認めません。神が一瞬ごとに世界を作り直している、というふうに考えた。 それにたいして、カントは「空間」と「時間」はともに「感性による直観の形式」であるとして、時間と空間はものの側にあるのではなくて、その「もの」を認識する人間の側にある、とします。十九世紀末のベルクソンは、このカントを受けて、空間は時間の派生態であると考えるようになります。 ベルクソンはわたしたちは過去を「空間化」して認識している、と言います。時計が音を刻む、物理的で外面的な時間を「過去」として認識している。 それに対して、空間化されない時間というものがあるはずだ。その空間化されない時間、「純粋持続」というものこそ、「主体の自由の根拠」である。 ここでやっとプーレの登場なんですが、プーレはベルクソンのいう「過去の空間化」ということを批判するわけです。 わたしたちが過去に持つ思い出というのは、ベルクソンが言うみたいに、トラックにハードルが並んでいるように、時間軸に沿って整然と配列されているものなんだろうか。 そうではなくて、もっとプルースト的なものなのではないのだろうか。 たとえばプーレはプルーストのこのような部分を引用します。 「そうしたすべてのものが、形を備え固定して、町も庭も、もろともに私の紅茶の茶碗から出てきた」 ここでは回想は単なる回想ではなく、「事物が物を持つ瞬間、固定する瞬間、自分が誰であるかを人が知るように事物が何であるかを知る瞬間である」(p.410)と言います。 ----(p.427からの引用) 可能な唯一の自己認識は、したがって再認識である。現在の感覚の合図で過去の感覚が浮かびあがるとき、そこに打ちたてられる関係は、自我の根底をささえる。なぜならそれは自我の認識の根底をささえるからである。自分が生きたことを認める人間は、自分が生きていることを感じる人間の基盤となる。真の人間、本質的な人間は、過去のなかにでも、現在のなかにでもなく、過去と現在とをつなぐ関係のなかに、すなわち両者のあいだにその存在が認められる。 ----- 『失われた時を求めて』は、過去を欠いた主人公の空疎な瞬間から始まり、失われた時間をめぐる巨大な旅をした後で、自己の本質を超時間性のなかに見いだすというものである。プーレはこの作品を簡潔にこうまとめます。 これは同時にハイデッガーの思想に通じる部分でもある。 ハイデッガーについては『人間的時間…』のあとがきに、簡単にまとめてあるので、それをそのまま引用しましょう。 -----(p.444)---- 人間とは絶えざる自己からの離出を希う存在、したがって“時間”の観点から見れば、一瞬一瞬〈ここに在る〉存在である。こうした存在としての人間をハイデッガーは“現存在”と名づける。そして、現存在は絶えず前方への、未来へ向けての自己乗り超えを行う。しかしその未来は現在にとって絶えず未知の領域でありつづけるから、人間存在は絶え間ない“不安”のうちに包まれることになる。したがって現存在は絶えず未来へと離出しながらも、やはり現在の“現前”から離れられず、言い換えれば絶えず過去へと回帰せざるをえないことになる。 ------ プーレはプルーストの小説を、このような「時間」を持つものとして読み解いていったわけです。 > 円環的時間 とは、こういうものだと考えてよいと思います。 > 円熟する時間 というのは、「ふたたび見いだされた時」、「ふたたび生きられた経験」ということを言っているのだと思います。 長い割には何かピンぼけなような気がしてならないのですが、どこらへんに力点を置いて書いたらいいかよくわからなかったためでもあります。部分的にはあまり正確ではない箇所もあるような気がします。 一応、わかりにくいところがあれば補足くだされば答えるつもりでいますが、「自分はこう考える」というご意見に関しては、どうかご容赦ください。わたしはそれが「正しい」とも「間違っている」ともいえる立場にはありません。 あと、文中にいくつか典拠を上げておきましたのでそちらをぜひ参考になさってください。そのほかにも中島義道『時間を哲学する』(講談社現代新書)、中山元『思考の用語辞典』(筑摩書房)なども一部参考にしています。

reikasuzu
質問者

お礼

お礼がおくれてまことに申し訳ありませんでした。 大変ていねいな回答ほんとうにありがとうございました。 とても参考になりました。 真樹悠輔さんの時間の社会学は私も読みました。というか大学の講義で読まされました。 とてもわかりやすくまとまっていましたが、 一方でルソーのテクストを引用して「私は感じるゆえに私はある」とまとめてしまうのは強引かなと思いました。フランス人が聞いたら、乱暴だなあと思うのではないかと思います。 プーレ、早速よんでみました。すばらしくよくかけていると思う反面、プルーストの小説を主体誕生の小説と読み、冒頭のまどろみの意識を無意味なものと切り捨てるあたり、ちょっとした不満を感じました。 たくさんの典拠ありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

待ってました、でも待って。 >プーレはベルクソンのいう「過去の空間化」ということを批判するわけです。 わたしたちが過去に持つ思い出というのは、ベルクソンが言うみたいに、トラックにハードルが並んでいるように、時間軸に沿って整然と配列されているものなんだろうか。 そうではなくて、もっとプルースト的なものなのではないのだろうか。 この部分は、書き間違いで、ベルクソンの所に、カント等の時間論が入りませんか? ベルクソンがそもそも、1889年「時間と自由」で時間の空間化を批判したと認識しているのですが。 ベルクソンの研究においては、1922年にパンジャミン・クレミューが「プルーストの記憶」でベルクソンの純粋記憶とプルーストの記憶を対立ではなく関連で説明していると、読んだことがあります。 時間論と記憶が混同してしまいましたが、ジョルジュ・プーレが「過去の空間化」と言う場合「時間の空間化」と違うのでしょうか。此れは不味い。 >----(p.427からの引用) この内容は、ベルクソンが言ってる事と同じだと思いますが。此れも不味い。 とりあえず、パンジャミン・クレミューの「プルーストの記憶」のご紹介で削除を回避できるかな。 なお、ご紹介したクレミューをフロイトの関係で理解される説も有るようです。 私には、敷居が高かったですね。

reikasuzu
質問者

お礼

ありがとうございます。 早速クレミューにあたってみます。 プルーストはベルクソンと義理のいとこになるので、影響関係うんぬんが言われていますが、 本人ははっきり、自分の考えはベルクソンとは違うといってました。 簡単にまとめてしまえば、プルーストにあって過去と現在は首の皮一枚でつながってて、永遠に見出せなくなってしまう過去がたくさんある一方、 ベルクソンのほうは持続のなかに全部入ってる、 という感じかなと勝手に思っています。 ありがとうございました。

回答No.1

ジョルジュ・プーレです。 『人間的時間の研究』(筑摩叢書)にあります。 読んだのはなにぶん昔で、何が書いてあったかとんと覚えていません(笑)。 記憶の埃を相当叩かなきゃ出てきそうもなくて、おまけにちょっと忙しくて回答を書くまとまった時間が取れそうもないんですが、来週の月曜くらいなら、何か書けるかもしれません。 たいしたことは書けそうもないんですが、一応読み返してみますから、それでも良かったら、もう少しあけておいてください。

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  • 《永劫回帰》なる阿呆な考えについて

     徹底的に批判しきっておきたいと考えます。  ニーチェの亡霊をもほうむっておきたい。  すでに 批判がなされています。ところが 次のヰキぺの記事においても どこかまだ その《永劫回帰》なる考えにしても なんらかの思想性があるかに思われるというような評価さえが残っている。  質問者は 次のくだりをめぐって 批判を明らかな結論が得られるようにおこない切りたい。  ご見解をお寄せください。  ▲ (ヰキぺ:永劫回帰) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5%9B%9E%E5%B8%B0  § 3 永劫回帰批判  ・・・  ( a ) 永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。    ( b ) ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している。  ( c ) 永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。  ~~~~~~~~~~~~  (あ) 次の命題は 意味がない。   ▲ ( b ) 個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び  つまり 《人間は いかようにもその想像力の翼をはばたかせて自由に空想を成しうる》と一般論を言っているに過ぎない。ゆえ。  (い) つまりそれを   ▲ ( b ) 個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。  と解釈するのは ばかばかしい。想像力の自由さ・ゆたかさは 特に主張をするものではない。     (う) これをもって   ▲ ( a ) 実存主義の構えの柱の一つであり  という気が知れない。想像力があれば 《実存主義の構えの柱の一つ》になれるのか? ならすべての人が 実存主義者だ。  (え)  ▲ ( a ) 科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、・・・個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。   ☆ 《心的現象として発生したもの》なら 思想だというのだろうか? 何らかの気持ちをいだいたという心的現象が そのまま《実存主義の構えの柱》になれるのか? ちゃんちゃらおかしい。  (お) ▲ ( c ) ニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。  ☆ ここには このように《発生する狂気》が 何らかの思想的な意義を持つと言わんばかりである。んなばかな!  ▲ 一般人なら適当なところでやめてしまう疑問  ☆ というのは 無意味と知ったからやめるのではないだろうか?  (か) すなわち 永劫回帰については 次の説明がある。  ▲ (同上ヰキぺ) ~~~~~~  § 1 概要  ( d ) 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。  ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。  ~~~~~~~~~~~~  このどこが 《ニーチェ哲学》というように《哲学》なのか?  どこが 《哲学的思索》なのか?  (き) ▲ 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち  ☆ この前提がおかしい。のではないか? なんで時間が無限なのか?  (く) ▲ 現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。  ☆ という内容についての次の説明が どういう考えから出て来たものか 解明していただきたい。  ▲ ~~~~~~~~~~~  § 1 概要  永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。   仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。  これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。  故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。  ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この哲学の貧困について その由来が知りたいと思いますので ご見解をのべておしえてください。  その内容こそが ニヒルではないか?

  • 分散分析の最良の結果とは??

    はじめまして。 統計に関して少々疑問点がありまして、皆様にお尋ねいたします。 統計の知識は初心者に毛が生えた程度です。 早速ですが、とある実験を行いました。 n=10で、同じ被験者に各条件を行ってもらいます。 条件1は刺激あり、条件2は刺激なし、 そして、刺激呈示前から体温を10分ごとに計測します。 データは    0  10  20  30  40 … あり   なし                となります。 そこで、2要因(条件×時間)の分散分析(SPSSにて)をおこないました。そうすると、条件、時間、条件×時間(交互作用)という各項目で有意かどうかが出てくるのですが… この場合、 1、条件のみ有意差 2、時間のみ有意差 3、条件・時間有意差、交互作用あり 4、条件に有意差で交互作用あり 5、時間に有意差で交互作用あり 6、交互作用のみあり 7、条件・時間有意差、交互作用なし(あるのだろうか?) 以上のようなパターンが考えられるのですが、果たして最良の結果とはどれなのでしょうか? 条件間で違う結果の場合は1、時間と共に有意に変化したといいたい場合は、3もしくは4になるのでしょうか? また、5は結果としてまずい気がして、6はどう解釈してよいかよくわかりません。 自分で勉強したものと、周りの意見が混濁して迷ってしまいました。 やはり解釈が難しいのが交互作用だと思うのですが、交互作用が出た場合はもっと細かく調べろよ!という啓示なのでしょうか。 交互作用とは実はありがたいものではなく、厄介者??なのかと思ってしまいます。なぜか私の周りは交互作用をありがたがる人が多くて…。 手前勝手な質問ですが、お答えいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。