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宗教に生きると宣言した親友

こんにちは。初めてご相談させて頂きます。 10年来の付き合いになる親友との事で悩んでいます。 彼女と私はマンガやゲーム等の趣味で意気投合し、よく泊り込みで遊んでいました。 しかし、先日いつものように泊まりに来ないかと誘ったところ、突然「本格的に宗教に人生を捧げるって決めた。だから今までのような付き合いは出来ない」と言われたのです。 彼女の宗教の教義で「絶対とされる経典の教え以外に心を囚われすぎてはならない」とあるから、だそうです。彼女は好きになるとのめり込むタイプなので、フィクションに夢中になって経典を疎かにするのが怖いのだとか。 私は無宗教で、正直アレルギーと言っていいほど宗教に嫌悪感を持っています。 もちろん、友人にそれを押し付ける気はありません。彼女が幼少期から信仰で心の平安を得ているのは知っていたし、彼女自身に問題のある行動は一切見受けられないので。 ただ、そう宣言された以上、前と同じように趣味の話で盛り上がることはもう出来ないだろうな、という冷めた気持ちもあります。どんなに好きな作品を勧めようと、彼女がそれを受け入れないことが解っているのですから……。 自分なりに理解を深めようと、その宗教の本を読んでみたりもしました……が、やはり拒否反応が出てダメでした。 一番の親友なので、失いたくはありません。彼女も私を失いたくないと言ってくれてます。なのに、宗教の話をしている時の彼女を怖いとすら感じ、逃げ腰になっている自分が不甲斐ないです。 今は考える時間が欲しいと言って別れたきり、3ヶ月ほど連絡が途絶えています。 この先、彼女とどう付き合えばいいのか……何でもいいので客観的なご意見を伺いたいです。まとまりのない内容で申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。

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  • jun502
  • ベストアンサー率34% (110/320)
回答No.7

今回の場合は宗教が原因で疎遠になりそうということですが、友人関係というのは、その時その時の状況により変化してしまうものです。 10年来続いてきて、壊れるわけの無いと思っていた関係が崩れてしまったので大変ショックなのはご察しできますが、やはり、人同士の付き合いなので、それぞれに考え方があるもので、趣味・趣向の変化により疎遠になってしまうことは仕方のないことだと思います。 私の場合は、大学入学、就職、転勤といったもので居住地を大きく変えていますので、どうしても距離という物理的な面で会えなくなってしまうということで、今まで仲が良かったのに、連絡もそこそこというケースを今まで何回か経験してきました。 しかし、人の縁というものは一つではありませんので、別の場所や機会で新たな友達や親友と呼べる人ができたりします。それに、しばらく付き合いがなくても、ふとした事とで連絡をしたらまた前のように仲良く付き合うことができたということもあります(そのときは相手のまた違った面が見えたりして、以前とは違った付き合い方ができる場合もあります)。 ですから、今はショックでつらいと言うかなんだかよく分からない状況かもしれませんが、お互いに新たな価値観を見出す期間として、しばらく間をおいてみるというのはどうでしょうか。 今回はたまたま宗教が原因だったみたいですが、あまりそれにこだわる必要は無いかと思います。一般的にも結婚するとそれまでの友人との関係が大きく変わることは良くある話ですから、そういったものの一つだったと捕らえるほうがいいかと思います。

ringinbell
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 非常に鋭いご指摘だと思います。 確かに、環境の変化によって友人関係に破綻が生じるのはよくあることですね。就職や結婚を機に、疎遠になってしまった知人も少なからず居ます。 にも関わらず、今回のケースだけを特別視してしまっているのは、相手が最も親しい友人であったこと、私自身が特に気にしていた信仰の違いが原因であったためだと思います。 結局、親友との関係の変化を認められず、宗教のせいにしたがっている自分自身の弱さが迷いの原因なのだなと痛感いたしました。いいかげん冷静になるべきですね。 的確なご意見を頂き、ありがとうございました!

その他の回答 (7)

  • yuki314
  • ベストアンサー率10% (74/737)
回答No.8

私も無宗教ですが・・ 占いやスピリチュアルな事は信じています きっと宗教に入るのは宗教が好きなのでしょうし 結局はそういうのを必要としている人なのでしょう 必要なのだから仕方ないですよね あるいは よりどころ 人生のすべてなのだから それを否定することは自分が否定される事になると思うので 何か言う場合はよほど覚悟しないといけないと思います 私のちょっと知っている人も活動に引き込まれてしたった人がいて 友人は必死で説得したようでしたが 駄目だったようです 私にも意味不明なメールがきて、会いたいみたいな内容だったので 愛の告白か?と思ったら勧誘だったんですね・・ 断ったら電話がきて、後ろで女の子が騒いで?命令して?いて 分かりました わりとある話かもしれません

ringinbell
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 宗教に入る人はそれを必要としている……その通りだと思います。 つまりは、他人がとやかく言える領域ではないのですよね。 私の場合、親友から勧誘を受けることもないし、完全なる絶縁を言い渡されたわけでもないので、きっとまだ幸運な方なのだと思います。 世の中にはもっと哀しい目に遭っている人もいるはず。回答者さまのおっしゃる通り、寂しいですがよくある話なのでしょうね。 貴重なご意見をありがとうございました! 回答してくださった皆様のおかげで、私自身の気持ちにもある程度の結論が出せましたので、これにて質問を締め切らせていただきます。 何とも曖昧な質問に対し、忌憚ないご意見をお聞かせくださった回答者の皆様に、心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました!

回答No.6

宗教団体といっても、 様々な団体がありますよね。  特に、20世紀に入って乱立した 新興宗教団体は数知れず、現在日本の総人口は 約1億3千万程度ですが、団体への加入者数 を調べると約1億3千万×2、3倍の数値が でるそうですので、興味深く且つ(別の意味では) おかしな話です。  「多信教国日本」とも、海外のメディアは 皮肉ぽく語ったりしますよね。  更には世紀末とされる1999年前後を境にして 常識的におかしなマニアックな団体が増えて きたように思えますね。マニアックな思想だけなら ともかくとして、金銭面で無償の高額提供をさせたり 、100円ショップで売られている商品を 数千倍で無理やり買わせたりしている所もあると ききますよね。金銭面以外でも美人&美男 信者を 利用して性的なえさで信者を勧誘するという えげつない団体もあるとききます。  当人だけのケースならまだしも、親&兄弟&友人 を巻き込んだり、最悪なケースでは某宗教団体の ように社会的犯罪に信者を巻き込んだりする ケースもありますよね。  だいだい人の精神的弱みに付け込んで 「悪なる洗脳」を植えつけるのは、もはや「宗教」 とはいいがたく、ナチスに準じた恐ろしい思想を 感じます。  そのきっかけというのが、「失恋」や「本人&身内 の病」や「経済苦」や「何らかの試験の不合格 やいじめ等の学校問題」や「仕事上の対人関係や 出世にかかわる事」や「異性のパートナー&同性の 友人ができない事に拘わる孤独」や「過去のレイプ やいじめ等のトラウマ」等、様々考えられるのですが、 何気に立ち寄った本屋に置いてある一冊の本 や、何気に勧誘者から声をかけられたりと、 きっかけは些細な事が原因なのがある意味恐いです よね。  ただ「宗教」の愛し方&捉え方というか、「宗教」に よって本当に心が救われ未来が精神的に明るく なった人が多いのもまた事実です。  心底、自分の事を理解してくれる親&兄弟&友人 ・知人等が一人でも回りにいれば、悩みも少なく なるのでしょうが、身近な存在であるがゆえに なんとなく心が遠慮してしまって相談できなかった りして悩みを一人で抱え込むケースもあるという ことも忘れない方がいいと思います。    更には、その悩みの解決手段を一般の「哲学書」 や「自己啓発書」に頼って解決する場合もあります が、悩みが想像以上に深い人の場合、それだけでは 何か物足りないと感じるケースも少なくないんです よね。  私的な事で恐縮ですが、20代の中頃に私もある 深い悩み(心の深い傷=過去の深いトラウマ)を 解消するために某宗教団体の門を叩いたことが あります。3ヶ月くらい団体の活動等に顔をだして いましたが、比較的まともな団体であったにも 拘わらず妙に笑顔や明るい気持ちを強制されて いるようで、何か嫌悪感&嘔吐感のようなものを 感じ自主的に離脱しました。  離脱したといっても、その宗教の革新的な 部分は10年以上経過した今でも崇拝していて (安価な)「お経」と「一冊の書籍」はボロボロに なるまで一人で愛読しています。  昔のデータが残っているせいで、自宅に 再勧誘がきたり、勧誘の手紙がきた時期も 相当期間ありました。でも、私の場合 「宗教には不必要なお金は絶対いらない」という 事と長年愛読した「お経」と「一冊の書籍」だけ で心が真に救済され充実した毎日を暮らして いましたので、玄関先に来たときは丁重に お断り致しました。 宗教に対する考え方は様々あるとは思いますが 私の場合、   真の宗教とは、不本意なお金や信者同士の 強制的連帯感など絶対に必要ではないと思います。 「一つのお経」「一冊の経典解説書」それを ボロボロになるまで何度も何度も熟読し続ける 事だけで心は救われると思うのです。  「不本意なお金」「不自然な連帯感」を 強制するだけで、うさん臭い臭いがぷんぷんして くるようです。  ご友人も突然「本格的に宗教に人生を捧げるって 決めた。だから今までのような付き合いは出来ない」   と貴殿から外見上は離れたような印象を受けます が、何かの信仰をはじめたばかりの時は、誰しも 一時期このような経緯があるようにも 思えますので、もうしばらく時間を置いて 彼女を観察してみてください。  真の信仰とは、究極的には慈愛の精神があります ので、仮に彼女が真の信仰に目覚めたならば やがて必然的に貴殿の元に戻ってくるでしょう。  逆にしばらくしても彼女が閉鎖的なままで 貴殿を寄せ付けなかったり、不本意なお金を 出費している際には「悪なる信仰」に洗脳されてい ることは間違いないと思います。  このような場合、一度「悪なる信仰」に洗脳 されてしまうと精神的に離脱させる事は 本人が何らかの痛い思いをしない限り離脱は 主観的にも客観的にも第三者の圧力だけでは 不可能だと思います。  貴殿にできるのは、より深い愛情を彼女に そそいで彼女の団体からの離脱を待つか、 あきらめて貴殿が彼女から決別するかのどちらか しかないと思います。  念のため申し上げますが、このようなケースで は、信仰を非難したり、団体からの離脱を強制 したりするのは、完全に逆効果です。  彼女はますます殻に閉じこもってしまうでしょう。 宗教は、ある意味では、アヘンと同じですから。 とにかく、温かい気持ちで彼女を見守ってあげて ください。

ringinbell
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 回答者さまのご意見、全くもって同意いたします。 宗教を全否定するつもりはありませんが、私の中でそういった悪いイメージが先行しているのは確かです。 善悪じゃなく、単に自分とは合わない、という観点の話ではあるのですが。 集団心理に呑まれることなく、ご自分の信じる道を貫かれた回答者さまは大変意志の強い方だなと感じました。 私の親友も非常に慈愛深く立派な人物なのですが、その宗教の主な活動に、冊子を持って他人の家を訪問して回るというものがあり……それが他人の迷惑になることもあるとはあまり思っていないらしいところに、勝手に危惧を抱いたりしています。 しかし、心配したところで私に何が出来るわけもないことも、よく解っているつもりです。 彼女の信仰自体を悪く言うようなことはしまいと決めています。 離脱を強制する気もありません。(本音は抜けて欲しいですが) このまま静かに見守って、もし彼女が自分の意志で抜けたくなることがあれば、その時は傍にいてあげられればいいなと思います。 貴重なご意見をありがとうございました!

  • nyoromi
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.5

私の家系は代々信じているものがあり 私も生まれたときからその考えを軸として育ってきました。 なくてはならないものだと思っています。 信仰している人にとって、だいたいは「宗教の話」というのはなかなかしづらいものなんです。 たとえ自分がどんなに信心深くとも 周りの人にイヤな顔をされたり、偏見を持たれてしまうのでは・・・と不安になってしまったりするからです。 どうか、宗教そのものというよりも 「言いづらいであろう話を、貴方を信用して打ち明けたこと」をわかってあげて欲しいと思います。 きっと、貴方を本当のお友達だと思って 彼女もお話されたんだとわたしは思います。 その宗教の考え方も、貴方の大切なご友人を形作っている一つの破片程度だと思っていただければ 怖いように思えるようなこともないかと思います。 「宗教の考え方・教え」を理解してあげようかなというよりも 「(多少宗教の影響を受けている)”彼女”の考え方」として受け取ってみたら 今までのようなお付き合いが出来なくなったとしても もう少し自然にお話ぐらいは出来るようになるかもと思います。 せっかくの大切なお友達を失う為に 彼女も信仰をしているわけではないでしょうから。

ringinbell
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 今までとは違う角度からのご指摘、大変参考になりました。 確かに、私は一番大事な点を見失っていたと気づかせていただきました。 今回のことがあるまで、彼女の信仰について知っていたのは私だけでした。彼女が私を信用して打ち明けてくれたからこそ、何も問題なく付き合いが続いていたのだと思います。 他の友人に聞く限り、今はもう周りの知人全てに宣言しているようで、そこからも彼女の決意が固いことがうかがえるのですが……。 結局、宗教を理由に壁を作っているのは私の方なんだと思います。 貴重なご指摘をありがとうございました!

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.4

「アミニズム信仰」の素晴らしさを教えてあげてください。 貴方の宗教嫌いは良くないですね・・・。 是非ともアミニズム信仰して下さい。

ringinbell
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 関係ないと思って細かく書きませんでしたが、私は実際のところはアニミズムに近い考え方です。説明不足ですみません。 実家は浄土真宗ですし、普段の生活にある慣習まで否定しているわけではありません。 「カルト嫌い」と言った方がよかったかも知れませんね。それも自分は受け付けないってだけで、他人にとやかく言うつもりはありません。なので特に悪いとも思ってないのですが。 友人は風水や西洋占星術などの占いを全て忌避してます。アニミズムなんてもってのほかでしょうね……。 彼女の世界では、神は一人しかいないわけですから。

  • madamu55
  • ベストアンサー率31% (52/164)
回答No.3

ざんねんながら・・・ 多分・・・ もう、今までのようなお付き合いは出来ないと思います。 宗教に凝りだしたのが最近の事であれば 半年もすると落ち着いてきます。 最初はみんな 熱に浮かされたように その宗教の素晴らしさを延々と語るものですが 小さな頃から 宗教を 心の支えにしていた人なら きっと 強い決心があってのことでしょう。 宗教団体の怖さは、 自分の周りが すべて同じ信仰をしている人たちで 固まってしまう事です。 その、横のつながりには 恐ろしい程の団結力があります。 無神論者にはわからない つよい絆?とでも言うのでしょうか たとえ親子でも兄弟でも その仲に 割って入ることは出来ないくらい・・・。 一度はまってしまうと 教えそのものよりも 仲間から はみ出してしまう怖さの方が 強いようです。 私の場合 妹が二人ともある宗教団体に入信し まるで 言葉が通じない外人と話している様な状態になってしまいました。 それでも 何年か経って 落ち着いてきた様子で 少しは話もできるようになりましたが 考え方の根本が違うので やはり違和感があります。 ただ 私は無神論者ですが 妹達の宗教が 良いか悪いかはわかりません。 本人達がそれで幸せだというのなら 黙って見守るしか 出来ないのです。 貴方も 今は混乱しているでしょうが 静観してください。 彼女にとっては 貴方の助言よりも 神の教え の方が 力になっているのです。

ringinbell
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。 親友でもショックなのに、身内の方となると余計ですよね……。 ご苦労なされたことと拝察いたします。 私も、世間の評判が芳しくない宗教でも、親友本人が幸せならばそれでいいと思っています。 ただ私自身が、信仰に人生を捧げる決意をした彼女とどう付き合っていけばいいのか解らなくて混乱している状況です。 気にせず普通に見守っていけばいいのでしょうが、私の中にある宗教への疑念が邪魔しはしないかと常に不安なのです……。 今まで世話になった親友と、自分の個人的嗜好とを秤にかけている自分自身に心底嫌気が差します。 何とか吹っ切れるように、自分自身を見つめなおしてみるつもりです。 大変貴重なご意見をありがとうございました!

ringinbell
質問者

補足

回答者さまも実際にそういう経験をされたのですね。 そのお言葉、非常に重く響きました。 今までと同じような付き合いは、私も諦めています。 お互いが今後も親友でいるためには、付き合い方を変えるしかないのだと。 ただ、彼女を失いたくない気持ちと同じくらいに、ショックも大きいです。 裏切られた……というのは言いすぎかも知れませんが。 信じるものが違っても、今までは上手くやってきたのに……何故今更?と思いました。 >彼女にとっては 貴方の助言よりも 神の教え の方が 力になっているのです。 一番引っ掛かっているのは、まさにこの事なのです。 このまま親友でいても、私は宗教以上に彼女の助けになることはできない。 信仰に救われている彼女に、果たして私の存在は必要なのか? かといって距離を置くのは、良くしてくれた彼女を見捨てることにはならないか? 信仰が全てである相手の傍に無神論者が居座り続けるのは、やはり無駄なことなのでしょうか……。

  • gyounosuke
  • ベストアンサー率20% (1446/7021)
回答No.2

お付き合いというのは、お互いが一緒にいて楽しいと思えるから続くのであって、もしそうでないのなら付き合いがとぎれてしまうのは仕方ないことだと思います。 また、相手に無理に合わせるものでもなく自然体で付き合えるかどうかが問題でしょう。 そういうわけで、あなたが不甲斐ないと感じる必要は何もないと思います。 マンガやゲームなど共通の趣味が無くなった以上、二人で楽しめる他の何かを探してみるしかないでしょう。それはたわいのないおしゃべりでも良いし、食べ歩きでも良いのだろうと思います。 そうやって探して何かが見つかればいいし、もし、見つからなければ、それはご縁がなかったということなのでしょう。距離を置くしかないのだと思います。 その際、あなたは宗教の話はNGだとハッキリ告げておいた方が良いでしょう。そこで無理をしたら、付き合えるものも付き合えなくなってしまうと思います。

ringinbell
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。 >宗教の話はNG この点については、私が宗教嫌いだということは友人も承知してますので大丈夫かと思います。勧誘されたこともありませんので。 そうですね……今まで趣味の話が会話の大半を占めていたので、それが突然無くなったら、正直何を話せばいいのかと戸惑っているのが現状です。 もちろん趣味が合うというだけで付き合っていたわけではないので、他に話すことはちゃんとあるはずなのですが。 きっと、私自身が変化についていけてないのでしょうね。 10年付き合っておきながら、縁が無かったとは……とても哀しいです。 まずは感情の整理をつけてから、彼女との一番いい距離を模索してみたいと思います。 とても参考になるご意見、ありがとうございました!

  • hellokity
  • ベストアンサー率25% (3/12)
回答No.1

宗教と言っても、正しい宗教・邪宗などいろいろあります。 人間誰しも、夢や希望がある限り、宗教は持ってると思います。 宗教は人間のためにあるのです。それを信じる事は悪い事ですか? 宗教で幸せになった人、不幸になった人、いろんな人がいると思います。幸せになろうとして宗教を求めてる人もたくさんいるのです。 それの、どこが悪いのですか?やってみないと良さ・悪さは分からないと思います。もし、彼女が宗教で、輝いた人生を送るようになったら、あなたは、どう思いますか? 私は、主人と、宗教の事で、かなりもめてます。 自分が幸せになるために、やっている物なので、それが悪いとは、とても思えません。彼女には幸せになって欲しくないのですか?

ringinbell
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。 宗教が嫌というのは私個人の見解であり、それを友人に押し付けるつもりが無いのは質問にも書いた通りです。 彼女が信仰により心の平安を得ているというのなら、それを否定する気も悪と決め付ける気もありません。まして幸せになって欲しくないなどと思ったことは毛頭ありません。 ……調べた限りでは、友人の信仰している宗教は世間的には「邪宗」であるようですが。 それと同様、私が宗教に嫌悪感を持っていても、それを悪し様に非難されるいわれは無いと考えています。 このように宗教に思い入れのない私が、信仰を頼りに生きている親友の思いを理解するのは難しいことだと、改めて痛感しております。 貴重なご意見をありがとうございました。

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     数日前に、ひさびさにひとつの宗教にこり固まっている  人たちと話をしました(論戦?)  日蓮宗系の人たち(女性)で、日本人が全員、法華経に  帰依しなければ日本が滅ぶとのこと。  まあ、そうした信仰そのもは法華経の信者ならば、(過激かどうかの  違いはあるにしても)ありうる話で、目くじらを立てることもありません。    ただ、問題はその根拠です。  その方々にそう主張する根拠を問うと、  自分たちの教団の経典のここに書いてあると  「自分たちの経典」の一節を指し示すのです。  私が「世の中には色々な宗教があり、その数だけ  経典や聖書のたぐいがありますね。その人たちも  あなた方と同じように「自分らの経典」だけを根拠として  自分らが正しいと言い募るならば、その両者のあいだに  どうやって対話が成り立ちますか?  あなたがたは、ほかの人を説得したいんでしょう?  あるいは少なくとも理解してもらいたいんでしょう?  それならば、自分らの経典をいったん離れて  相手の立場にたって、相手にも分かるような  議論の進め方をしなければいけないんじゃないですか?  だからこそ釈迦は「たとえ話」を多用したんじゃないですか?」  と言うと、「いや、自分らの経典が正しいんだから」  とか、なんとか話がそれ以上、かみ合いません。  そこで質問です。  どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?  彼らは他人を説得したり納得させたり  さらには自宗に改宗させたりしようということを  放棄しているのでしょうか?  それぞれの経験と立場でご回答いただければ  幸いです。    

  • 結婚間近なのですが、宗教のことで悩んでいます。

    私の家の宗教と、彼の家・親戚の宗教は同じです。普通ならなにも問題はないのですが……私は宗教を信仰したくないのです。私の両親はそんなに熱心ではないので、私が信仰しないと言った時あっさり了解してくれました。 彼にも信仰したくないことを伝えてあり、彼自身も信仰する気はないと言っているのですが、結婚したら月2~3回の行事に出てくれと言われます。彼は毎月、その行事に出ているみたいです。 私が「親戚付き合いは大事だと思うけど、宗教の行事には参加したくない」と言うと、俺の立場を考えろ!と言われてしまいました。 私の家が宗教をしていることは、彼の親戚みんな知っているので私が信仰することも、当たり前だと思われています。 親戚の方々に、信仰しないことを伝えればすむ話なのかもしれませんが、熱心な方が多いので丸め込まれそうで怖いです。また、子供が産まれたら~など色々と先のことを考えてしまい、不安で仕方ありません。   実は今月末に入籍予定なのですが、彼と結婚したいと思う気持ちと、宗教は絶対に嫌だという気持ちの間で葛藤しています。どうしたら良いのでしょうか? ※この宗教だから嫌という訳ではなく、宗教自体が受け入れられないんです。

  • 宗教と家族

    私は無宗教です。 無宗教の私が思うのは、何を信じるのかは個人の自由だと思っています。 しかしながら、それを他人に押し付ける行為はだめな事だと思っています。 それは、家族であっても親友であっても恋人であってもです。 なぜなら、心から対象となる物を信じたり、自分にとって必要のある物だ、などなど思わない限り苦痛になると思うからです。 色々な教えなどあると思うのですが、人一人の気持ちを無視した事は本当に幸せになれる事なのかっと疑問に思うのです。 強制的に行事に参加させようとするとか、入信させようとするとか、などなどは、それを受けた人はとても苦痛に感じると思うのです。 ここからが本題なのですが、私の彼氏は家族から宗教行事に強制参加をずっと言われてきていて、ストレスになってしまい家族と話も本音でできなくなっています。 家族にとっては、彼が参加する事によって満足かもしれないですが、彼の方は強制される事が辛く、ストレスになっていては幸せでもなんでも無いと思うのです。 また、家族と宗教の事でケンカになった後、ストレスから来るのだとは思いますが八つ当たりもあります。 仕事があったとしても、行事を優先に・行事参加は義務・行事参加は強制だ、などと言われても真面目に取り組んでいらっしゃる方は、それが当たり前かもしれませんが、家族との付き合い程度、家族行事として考えている彼にとっては、仕事を休んでまでなのか・・・っと言う思いがあるようです。 もし、その行事の日に会社にとって大事な会議があるとしたら? もし、親友の結婚式だったら? もし、お世話になった方のご葬儀が執り行われる日であったら? 彼のご家族が信仰しているのは、色々話を伺って思った感想ですが、信仰を生活の中心に・生活に信仰を組み込むっと言った印象を持ちました。 そうする事によって、会社や友人など自分と関わる人に迷惑をかけたりしても良いものでしょうか。 少なくとも私は彼のご家族の信仰はできないっと思いました。 自分が生きてる上で必要だと望む事を犠牲にしなければならないと思うところがあるからです。 どうにか彼のご家族に、行事へ参加する事や信仰を強制する事を辞めていただきたいのです。彼もそれを望んでいるのです。 難しいと思いますか?

  • 人が宗教にはまるのは何故ですか?

    宗教に入信したのは何のためですか? a.心の平安 b.尊敬する先輩や教祖についていく c.人付き合い、サークル的な雰囲気 d.金儲け e.修行、自分を鍛えるため f.苦行 h.家族が信仰者 i.そのほか 目的はなんでしたか? 教えてください。

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 親友が熱心な宗教信仰者だった場合

    詳しく書くと荒れるかもしれないので、敢えて単語は出しません。ご了承ください。 先日、親友と呼んでも差し支えのない相手から、熱心な宗教信仰者であることを告白されました。 よくよく考えると、言動が若干おかしいし、浮世離れした雰囲気を持った子だとは思っていたので……宗教と聞いて、カチッと嵌りました。なんとなく、宗教してるから、こうなったんだろうなってのが納得行ってしまったんです。 優しいし、頼れるし、純粋で本当の本当に良い子なんです。 でも、その思考の由来が宗教だと思うと……正直に言うと、悪寒が走るんです。 もちろん、その子の性格を構成している全ての要素が宗教とは思っていません。 元々、あまり宗教と言うものを真剣に捉えておらず……仏教系の学校に行ったこともあったのですが、そこまでのめり込むという感覚が理解出来ないんです。 しかも、その宗教は、わたしが今まで毛嫌いしていた系列のものでした。キリスト教とか、イスラム教とか、そういうものであれば、本当に構わなかったのに、「よりによって、それ?」と感じてしまいました。 宗教が悪いと言うか、盲信する姿そのものがダメなんだと思います。 根本に、宗教を熱心に信じたところで、世の中どうにもならないって気持ちがあって……「別に結婚相手とかじゃないんだから、良いや」と思いながらも、深層心理は――楽しく話しているのに、心の底では「宗教……」と考えてしまうのが、とても嫌なんです。 これからも仲良くしたいのに、何処かで相手の子を生理的に受け付けない自分がいる。ここまで明確に、はっきりと、生理的に人を「軽蔑」していると意識したことは、これが初めてかもしれません。 宗教の勧誘とか、そういうのは一切受けないです。わたしに迷惑がかかることはないです。 どうすれば、上手く割り切って付き合っていけるでしょうか。 わたしが差別していて、相手を軽蔑してしまう気持ちを改めたいんです。 たぶん、告白には凄く勇気が要ったと思うし、わたしを信用しているから話してくれたんだと思うと、とても辛いです。 相手のことが大好きなのに、嫌悪してしまう自分が凄く嫌です。