• 締切済み

精神と肉体のアンバランスさに苦しんでいます

肉体はどうしょうもなく存在してしまうのに精神は何故こんなに存在して無い物なのだろう・・・と、いつも考えていますが答えらしい答えが出ません。 精神とは何なのか、肉体とは何なのか、 肉体の死=精神の死 と単純にイコール化して良いものなのか。お知恵を貸していただけると嬉しいです。

みんなの回答

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.24

>端的に言うと先人の言葉の引用だから・・・と言う事でしょうか・・・ 言葉自体、先人から引き継いだものではないのですか?しかし、あなたがそれを使うので、あなたの言葉になります。もし、イデアと言う言葉が引っかかるなら、それは切り捨てても文意は変わらないはずです。僕がいらない事をいいすぎです。申し訳ない。概念とは、「~とは何か」を比喩するだけでなく、一切のイメージの材料といったものです。 >本質=世界で本質の死は世界の死  本質には生きるも死ぬも無いのです。本質にはそのような事柄一切がありません。無いのです。あるのは、本質的に生きるのか、死ぬのかといったような事柄です。 「自分の本質を、世界に所以すると、自分が死ぬと死にます。」 こう言ったのは、この行為が虚偽だからです。本質を世界に所以すると言う事自体、虚偽なのです。自分を虚とする行為です。ホントは、世界が、本質に所以するのです。順番が違います。 >肉体の死=精神の死と言える・・・・と言うことですかね? 一概にはそうと言えません。精神の機構というものは、肉体とは次元が違います。 肉体であれ、精神であれ、世界のすべては、本質なくしては死にます。死んだときに自意識が残っているか?という問いならば、意識は肉体と不可分です。しかし、自はちがいます。寝ているときに自意識はありません。身体はあります。生きてます。意識は、自がないとどうしようもありません。寝ているときに、その身体に自は無いでしょう。意識が無いと、自を「意識」することはできません。要点は、自と、意識の関係です。非常に構造的な話になりますが、自は、次元が違います。意識が、自を捕らえれるのは、次元を凌駕していると言う事に他なりません。自を捕らえた意識は、次元を凌駕している部分だけ、自(魂)とともに残るはずです。概念などが、壊れにくいのはそういうことです。概念などは、次元が違います。このとき残る概念とは、直に示す、「直示」的概念です。日本語などは消えます。直示は真であるため、死にません。虚に生きるものは死に、真に生きるものは死にません。あなたの肉体が死んだ場合、虚の部分は消え、真の部分だけが残ります。虚の精神構造は死に、真の精神構造は残るでしょう。それは、生きている間のようなあり方ではありません。次元が違うからです。いよいよ、誤解、偏見を招く展開になってきたように思いますが、大事なのは、肉体でもなく、精神でもなく、魂です。一寸の虫にも五分の魂といいますが、あれはホントです。魂は五分五分、「分け隔て」なく、個性無く、自をもたらします。魂は、丸いものではありません(笑)火の玉でもありません(笑)いうなれば、空気のようです。肺があなたの精神や肉体です。魂は、まさに、そこに宿るのです。あなたの一呼吸が、一生です(笑。

714020
質問者

補足

いえcaballeroさんの文章から読み取れた通りに疑問を投げかけてみましたが・・・・全て一概にはそういえないのですか?

回答No.23

こんにちは。 精神は希薄、とあなたは感じるのですね。不思議。 肉体が存在することは、見たり触ったりで実感するのですよね。 精神も音や味や匂いなどと同じように、見たり触ったりではないけれど 感じることで具体的に存在するとわたしは強く感じます。 肉体の死と精神の死は同じかどうか…。 単純に考えれば、ひとりの人間の存在が、肉体という目で見えるものと 精神という目に見えないもののふたつの感知のされ方で確認できる、と いうことで、その人間が死んで存在しなくなったら、どちらの方法でも 感知されなくなる、ということだと思います。

714020
質問者

補足

感じることで具体的に存在するとわたしは強く感じます。 <mimosa2001さんはどういった時にその存在を強く感じますか?

回答No.22

精神の定義が、人それぞれであるとわかっているならば、この問題は答えがでませんね。まさに無限連鎖です。ある行動をしたとき、それがもし突発的な行動で、普段の自分から考えれば説明がつかないという場合、精神学者は深層心理のあらわれなどと言いますが、宗教家は神の啓示やら、お告げなどと言いますね。科学的と言われる方は、前者の考え方で精神のせいにして無理やり説明しようとし、後者の方は、非科学的といわれながら、形のないものに対して納得しようとする。どちらの場合も、もしくはそれ以外の方法でも、人それぞれなものに対して、共通化させようとするから~(省略) ここからは愚痴ですが、先人は~言う、だから~である。と言われても、私は納得できないし、私がこれまで述べてきたことを、712040さんが納得するのは無理だと思います。これまでの経験、知識、説明できない何か、宗教などいろいろなファクターを説明しようとすれば、宇宙・生命の誕生、存在そのものを説明できなければ、永遠を体験していなければ、体験していても無理かもしれませんが、不可能ですと思います。未来にわたって変化する、過去にさかのぼって統合させる、どちらにしろ永遠(寿命まで)に考えてください。私は、わからんで自分を納得させました。あと、個人的にはそろそろ締め切って欲しいな~と思っています。

714020
質問者

お礼

私は、わからんで自分を納得させました。<これは自分の質問でbeginnersanさんのでは無いと思いますが・・・ ↑すいません補足の補足です「さん」抜かしていました、すいません。

714020
質問者

補足

なぜ省略されるのでしょう?もっとお聞きしたかったですのに。 精神の定義が、人それぞれであるとわかっているならば、この問題は答えがでませんね<個人で千差万別だと思うからお聞きしています、このスレッドはそういう意図で作られた物ではないのですかね? 私は、わからんで自分を納得させました。<これは自分の質問でbeginnersanのでは無いと思いますが・・・ あと、個人的にはそろそろ締め切って欲しいな~と思っています。<自分も真剣に質問していますし、何より、真剣に自分の質問に答えようとしてくださっている方々に失礼ですので、締め切って欲しいと思われるのならばこの質問は締め切ったものとして、もう見ていただかなくて結構です。丁度beginnersanさんは「わからん」とお答えを見い出されたようですし、ご指導有難うございました。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.21

 「我」が存在するという考え方は、間違いでいいんじゃないでしょうか?  簡略すれば、肉体と精神は、一体なる故に、別個に考えること自体、矛盾するのであります。  一概に、「我」は精神のことではありません。固有物体を指して、または自分、個我をいうことがあります。  これは、弁明ではなく、とらわれることではないということであります。  説明不足は、否めませんが、なんかどうどう巡りのようでカットさせていただいただけであります。  悪しからず。

回答No.20

みなさん、すごすぎです。とても、掘り下げていますね。でも、みなさん、回答者や質問者の説明で理解されているでしょうか。私は、ほとんど理解できていません。デカルトやら、プラトンやらヘーゲルが本として残しているものを、本当に理解されているのでしょうか。理解していると思っても、私は理解したと思い込んでいるにすぎないと思います。これが個人意識と共通意識のずれであり、言語の限界ではないでしょうか。 書き込んでいて気付いたことがありました。私たちがこのようにして、掲示板で相互理解を行うこと、著作物を読む、「精神」という単語の存在、これらは全て言語をベースにして考えられたものですよね。知識として存在するものは言語ベースな考え方です。ところで昔から変わらないもの、それは感情ではないでしょうか。「喜怒哀楽+痛みetc.」、程度の差はあるものの、これらは言葉では表すことができません、実行しない限り、それを経験したものしかわからないと思います。 すなわち、人々の知識として、共通意識として精神を考えるから、個人個人の考え方や解釈の違いによって、ずれが生じわけがわからなくなると思います。個人意識として捉えた場合、言葉では表せないもの、それが精神と考えるものではないでしょうか。 共通意識として「精神」を理解していても、精神には数多くの同義語があります。概念や考え、経験、英語で言えばspirit,mind etc. 言語の種類によっても様々にあります。これらが全て同じ物を示しているかと言えば、違った意味や同じ意味として解釈されている言葉もあります。 これらから、精神とは当事者以外は完璧に理解できないものを表すものではないでしょうか。理解できない=わからない ということです。人類がこのまま進化し続けて、言語etc.によって感情を、経験を、知識を全て、誤解なく伝えることが出来たとき、精神がどういうものか理解することが出来るのではないでしょうか。

714020
質問者

お礼

書き込んでくださっている皆さんへ>>>本来ならば穴は自分で補足しなければならないのでしょうが、自分なんかの稚拙な質問に本当に一つ一つ丁寧にお付き合いいただい て・・・もう、本当申し訳ないです。 でも、今は少しでも多く自分より他人の考えが欲しい、自分で補足してしまうと、どうしても主観が先に立ってしまって具合が悪い。 だから不透明だったらお聞きするのが一番だと考え、色々お聞きしているわけですが、「もういいじゃないか」となげだしたり、「それくらい自分で・・・」とか、言われても仕方ない言葉を言わずに丁寧に答えてくださる。 ・・・一部の言葉の含みがご理解いただけていない方々を除いて、本当に感謝してもしきれません ありがとうございます。 ・・・・ですが、同時に無知な自分がお恥い・・・自分の無知さが歯痒いです。申し訳ない。

714020
質問者

補足

beginnersanさんはご自分の精神を完璧に理解できるのですか?・・・自分は自分の精神さえ理解できない・・・だから苦しんでいるのです。 先人の言葉の解釈の仕方や、精神の定義は人それぞれなどといったことは、ここに書き込んでいただいている皆さんには解りきったことで、良い事おっしゃっていただいているのに申し訳有りませんが、論点では有りません。ご理解いただきたい。 それと、beginnersanさんのお考えだとbeginnersanさん自身には精神を定義しかねるけれど、いつか理解できる日が来ると言うことですね?何か雲でも掴む様なアドバイスでしたが・・・これで合っていますか?

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.19

>caballeroさんの概念の適切な解釈の仕方を教えて頂きたいです。  僕のへたくそでは、語弊は新たな語弊を生みますが、説明させていただきます。 概念は、認識するための型です。イデアともいえそうです。いすにはいすの型があります。しかしどうでしょう。ある人にはいすにみえるがある人にはただの木組み、ある人にはもはや地形の一部に見えます。しかし、いすを見る人は、地面といすを見れるので、がんばれば、いすも地面の一部と見ることもできるかもしれません。しかし、そんなことはどうでもいいと思いますよね。概念が精神に張り付く、概念にとらわれるとはこういうことです。いすがいすであろうがなかろうが、どうでもいいことです。それはそれなのです。それはそれとは、哲学的に言うと、「直示」です。「直示」は真で、名辞は虚です。直示はじかにそれをしめすことです。それとはなんでもありです。しめされたときに決まります。概念とは、「~とは何か?」を比喩する言葉なら、それは名辞です。名づけです。名辞とは、A=Bとすることです。このとき、Aの名前はBです。おかしいですね?A=Aなのです。B=Bなのです。そういうわけで、数学定理は虚です。もちろん科学も虚です。しかし、嘘も方便です。しかし、A=Aと、「概念上」では可能ですが、実には、Aをみていることに他ならないのです。それは、Aを知っている事です。そのような概念は真です。「それはなんだ?」「それはそれだ」これが直示です。語りえないものです。それはそれと言っても、何も言ってませんが、それと言ってます。本質というものは、人間が名づける事は出来ないのです。本質は、本質同士、確存在同士の関係性で示されます。そういうことで、真の上では、「言い訳」はできません。 

714020
質問者

補足

端的に言うと先人の言葉の引用だから・・・と言う事でしょうか・・・

  • cse_ri
  • ベストアンサー率29% (74/253)
回答No.18

存在には、目に見える外形と、目に見えない本質(性質)があります。 金属には、目に見える外形以外に、硬い・導電性があるといった性質があります。 植物には、目に見える根・茎・葉の他以外に、光合成を行って酸素を作る性質が ありますし、植物心らしきものもあるようです。 (植物はウソ発見器に反応します。また、褒められながら育てた植物は  よく育ち罵りながら育てた植物は、生育が悪いということは知る人ぞ知る  事実です。) 犬には犬の性質(吠える・鋭敏な嗅覚)があり犬の本能があります。ます。 では人間はどうでしょうか。目に見える肉体以外に、目に見えない本質が あります。そう、それが心(精神)なのです。当然ながら、人間の心という ものは、植物や動物のそれと比べると、ずいぶん高等で複雑な働きをしています。

714020
質問者

お礼

すいません有難うございました

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.17

>倫理的規範によって言う啓蒙的な意味とは何に対する啓蒙的意味でしょうか?魂は概念で本質は真と虚に分かれるとの事でしたが・・・すいませんそうではなく魂とは何かを解りやすく教えていただきたい  ほんとすみません。僕はあなたと話せてよかったです。長くなるか、短くなるか、抜きにして、一生懸命、何回でも答えます。  まず、倫理規範についてです。 今は、社会を不憫に陥らせないための道具に成り下がっていますが、本来は、どう生きるべきか、についての規範でした。つまり、殺人者にも、倫理は味方だったわけです。倫理は多数決の、多数の味方ではありません。啓蒙的意味を、倫理に汲んだ場合、個人の尊重といったところです。それは、社会に対する個人ではなく、個人のための個人です。個人を尊重するとはそういうことです。そこに他者の余地はありません。何故それが啓蒙的なのかというと、それをどんどんどんどん行ったら、「行くトコまで行ってしまい」、「ある」ことになります。少しわかりますか?行く所もすでにして行っているのです。(また、質問からはなれるので、とりあえず止めます。ご指導、ご指摘ありがとうございます。)あなたの質問に近いように近いように答えさせていただきます。以前の回答では、勝手に暴走してしまいました。 >魂とは何か? あなたと、あなたをあなたたらしめているもの、つまり、あなたの本質と、あなたの間にある「言葉」です。しかし、大事な点は、それは、あなたの使う言葉ではありません。あなたの本質に由来する「言葉」です。自意識(あなたの意識)でもなければ、感情でもありません。肉感でもありません。まだ、解りにくいですね。力不足に付き合っていただき申し訳ないです。  もう一度やります。結論断言型で試みます。 あなたの本質は、すべてです。すべてであるので、それは語りえないものです。 しかし、すべてからの由来の「言葉」魂は、すべての一部です。だから、あなたは、あなたの世界をすべてとして完結的に捉えることが出来ます。しかし、わかるように、あなたのすべてはあなたのすべてです。すべてのすべてではありません。 そういう意味で、あなたのすべては「すべて」ではありません。このように、魂は機能します。まるでそれは、言葉の働きのようです。それを、それとたらしめるものです。これ以上行くと、魂からはなれてしまうので、止めます。 >本質は真と虚に分かれるとの事でしたが・・・ 本質は真です。なぜなら、虚は無数にあり、増えたり減ったり、出たり消えたりします。まるで、僕らの生きる世界(精神も肉体も)のようです。本質と言うのは、それをそれたらしめている者なので、それ以外はありません。本質はすべてです。それ以外はありえません。だから、嘘などないということです。「あれって嘘やったん?」ということになると、あれはなかったことになり、嘘があったことになりはしません。嘘とは、ありはしないものです。人間の言葉に実体はありませんが、魂には「あり」ます。それは真であるからです。何故、それが僕らの目に明らかにならないかというと、僕らの眼や世界は幻のようだからです。しかし、すべてに属さないものはありません。無というものですら、無いのです。なんかわかりやすくなってきましたか?すべてとは密度の高い実体ではありえません。しかし、「あり」です。「あり」のことです。あなたがあるのは、そのような「あり」の一部だからです。これは、実体ではありません。しかし、実体でない事もありません。そのような、「あり」との接点が「魂」でしょうか。     魂によって本質を見ると、それは嘘から解き放たれます。嘘が真になるのではなく、それが、それになるのです。ないものはなくなり、あったものは、あなたにおいてあるようになります。お返事をまって、又来ます。

714020
質問者

補足

本質=世界で本質の死は世界の死 魂は本質と言葉・・・って事は、肉体の死=精神の死と言える・・・・と言うことですかね?

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.16

 一念三千を知っておられて、十界三千がお分かりになられないのでしょうか?  十界とは、生命が内より実感している十種類の境界のことで、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をさします。さまざまな縁に触れて悩んだり喜んだり・・・と、瞬間瞬間、十種の境界のいずれかを感じて生きているのであります。  三千とは、三千という体系で捉えているということで、詳細は省略させて戴きます。  読解されておられないようですが、精神(心法)だけの存在というのは、回答しておりません。  なかなか納得されないというか、自分の考えを持っているために、ご理解されないように感じられます。  知らなければ・・・、すべての回答が正論として受け止めれるのでしょうが、そうもいかないようですね。  「我」という考え方は、外道の我見でありますが、これは間違いであります。  如何でしょうか?

714020
質問者

補足

すいません、自分の記憶では十界とは一念の中にある一つの体系となっていますので、何故あえて一念でなく十世にされたか気になったのです。十界×十界=百界 それは百であって三千ではありません全てではありません。odd-artさんがおっしゃられたのは「十」・・・百ですらも無いのです。きっと意図したところがおありだと思って「なんですか?」とお聞きした所存ですが、別段意図無くおっしゃられたものならば、申し訳有りませんでした。それに、odd-artさんのおっしゃられる所では「本来は、自分という「我」は存在しないとするのがいいのでしょう。」でしたよね。 だから「では、精神は我だから存在しない方が良いとのお考えですか?」とお聞きしたのに 「「我」という考え方は、外道の我見でありますが、これは間違いであります」とおっしゃれました自分の意見を否定されるのですか? すぐ意見を変えられるのはどうかと思います、森羅万象=色心不二だとおっしゃられていたのに次にはもう一念十世だとおっしゃられている。自分にはodd-artさんの意図が汲み取れません。そんなことでは折角の説得力も薄れてしまいます。 他人の物を引用しすぎるのもどうかと思います。自分は宗教などの言葉を引用した救済が欲しいのではなく皆さん個人が精神や肉体についてどう思うかをお聞きしたくてここに来ているのです。ある程度自分で考えたし、文献も読み漁った結果、解らなかったからここで皆さん個人はどう思うかをお伺いしてるのでありまして、森羅万象がなんだ幸福がなんだとレクチャーして頂きましても「そうですか」としか言い用が無くて困ります。別に自分の意見なら「俺は魂信じるぜ、だからあると思う」とか、ちょっと螺子の一本飛んだ意見でも大歓迎ですのに。質問しているこちら側が「そうではなくて」と言っているのに「なかなか納得されないというか、自分の考えを持っているために、ご理解されないように感じられます」と言われましても本当に困ります。書き込んでいただけるのは嬉しいですが、中身が伴わない物に「如何でしょうか?」と呼び掛けられましてもこちらとしては返答しかねます。

  • beat118
  • ベストアンサー率31% (85/272)
回答No.15

あなたの質問文の「存在して」「無い」「物」という日本語の意味がよくわからないのですが‥‥。 肉体と精神ということについて、私の考えを以下に記します。 肉体は、存在するかどうか不確かなものです。有史以来、世界に一人として「ここに肉体が存在する」ことを証明できた人はいません。 精神は、確実に存在します。 精神とは意識です。意識とは物理現象です。元素と元素の反応です。パソコンで言えば、電気信号の流れです。 だから私なら、ereignisさんの回答の中にある「『精神はどうしょうもなく存在してしまうのに肉体は何故こんなに』あるかないかわからないものなんだろう」と考える人です。

714020
質問者

お礼

お考え有難うゴザイました

714020
質問者

補足

自分日本語得意でないので・・・すいません。 beat118さんの良いように解釈していただいて結構です。 それにこちらが質問させていただいているので、質問されましても答えに困ってしまいます。質問の意味を汲んで頂ける方にだけ答えていただきたい。 ではbeat118さんは精神は有るけど肉体は無いとお考えですか? 肉体の死=精神の死の単純化についてはどうお考えでしょう?是非教えて頂きたいです。

関連するQ&A

  • 死んだとき精神は肉体から出て行く

    よく眠っているとき、精神は肉体から離れて、どこかへ行って(拡大、拡散して)、そして帰ってきて目が覚めて起きる。 人が死んでいるときも同じ、精神は肉体からどこかへ行く。 これは正しいですか?

  • 精神か?肉体か??

    こんばんは。最近気になる人ができたんですけど、なんで気になるんだろう?と考えてるうちに、その人と精神で結ばれたいのか?肉体で結ばれたいのか??よく分からなくなってきました。女性であればよく精神で結ばれたいとか言いますけどどうなんでしょうね? みなさんの性別と考えを聞かせてください。

  • 精神的な痛みと肉体的な痛み

    心の傷についてのお尋ねです。できればその筋に明るい方、精神分野の専門の勉強などをされている方よりのご回答を求めるものです。やや表現に奇妙な点があると感じられるかもしれませんが、ご了承ください。憂鬱な状態が続き、心が痛い状態が続いています。医者にはかかっていませんが鬱状態という状態かと思います。気分がふさぎ、とにかく憂鬱なことが多いです。この場合「心が痛い」というのは、表現としての比喩の意味もありますが、同時に、肉体に感じる痛みと同じように、そのままの意味で「胸が痛い」のです。もっと詳細にいえば乳房と乳房の間がズキズキと痛んでいます。もしもその場所に「心」というものが存在するのならば、その「心」の真ん中が破られて穴があいてしまって出血多量状態といったところです。心がズタボロ状態で生活しているような感覚で毎日の大半をすごしています。このように、精神的な痛みと肉体的な痛みがつながるということは医学的に実証されているのでしょうか。

  • お風呂(肉体と精神の回復)

    お風呂は熱いのに入ると肉体の回復、 温いと精神の回復をすると中学の保体で習ったのですが、 本当なんでしょうか? それは熱いと熱い程肉体、温いと温い程精神の回復をするのでしょうか? ということは温いというか水だけ(水風呂?)の 風呂が一番精神の回復をするということなのかと思ってしまいました。

  • 精神的、肉体的に辛くなると母に頼ってしまいます。

    閲覧ありがとうございます。 私は現在大学1回生なのですが、精神的、 肉体的に辛くなると母に頼ってしまいます。 最初は何とか自分で解決しようと思っても本当にこれでいいのかと不安になり、やはり母に頼ってしまいます。 自分の中で母の存在が大きくて、将来こんなことでは駄目ですよね? 高校生まではそんなに悩むことはありませんでした。大学生になってから不安感や無力感を感じることが多いです。 辛くなると母に頼ったり、無気力になったりと自分が情けないです。 もうどうすればいいかわからないです。 こんな事で質問するのも情けないですよね。 本当に将来が不安です。

  • 女性はちゅーとHどっちが好きなのですか?また肉体的か精神的どっちで満た

    女性はちゅーとHどっちが好きなのですか?また肉体的か精神的どっちで満たされると嬉しいですか?

  • 精神力で肉体的苦痛を克服することは可能だと思いますか?

    私にはなぜか、小学生くらいの時から 「もしも自分が拷問される立場に立ったとしたら、私の人間性はどうなってしまうのだろう。果たしてどの程度まで正気を保っていられるのだろう」 などと考えて、とめどもなく恐怖におののくという妙な発想が根付いているのですが、実際みなさまはどう思われますか? 昔、とある高僧が、寺に侍が踏み込んできて「この寺を焼き払う」とかの脅しを掛けて、さらに「お前が片方の眼を差し出すなら見逃そう」と条件を出したところ、高僧は顔色ひとつ変えずにみずからの片目をえぐり出して差し出し、侍は度肝を抜かされたとかの話を聞いたことがあるのですが、ほんとにこういうことはありえるのだろうか?と思ったりします。 病気で断末魔の苦しみのさなかにあってもなお、他者への思いやりを示した人の話とか、戦場での死を賭した美談とか・・・こういった類の話は確かに励みになります。が、こういう話が稀有で、美談として語りつがれている事自体、苦痛がその人の人間性を破壊し尽くしてしまう事例の多さを物語っている事の証である、とも言えそうではあります。 どんなにまれなものでも、一種の「悟り」の状態に達した精神にとって、もはや肉体的な苦しみは小さなものになってしまうのでしょうか?解剖学的に言って、肉体的苦痛から精神が切り離されてなんらの影響も受けないという状態など、はたしてあり得るのでしょうか? どう思われますか?

  • デブは精神的にも肉体的にも極限まで追い詰めたら・・

    糞デブは精神的にも肉体的にも極限まで追い詰めたら・・痩せることが出来ますでしょうか?

  • 健全な精神は、健康な肉体に宿る!

    健全な精神は、健康な肉体に宿る! この言葉は古代ローマ人デキムス・ユニウス・ユウェナリスが残した言葉です。 全く根拠の無い戯言に思いますが、何故後生大事にこの言葉が受け継がれているのでしょうか?

  • 精神的病気と肉体的病気

    精神的病気は自らの意思で避けることができるが、 肉体的病気は避けることができない。 そう思いますか?