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妙法蓮華経

odd-artの回答

  • odd-art
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回答No.3

 法華経は、末法の御本仏が予証されております。  難信難解とされていますから、私達凡人には、なかなか理解することは難しいことなのであります。  大体、今の宗教家という連中すら理解出来ず、間違えているのですからね。  末法においては、前回に述べたように、序文の流通分としてしか用いないのですが、釈尊一代五十年の説法のなかで、最高真実の教は法華経です。  では、何故、法華経が最高真実かといいますと、一念三千の法門といって、老若男女・善人悪人を問わず、一切衆生をその身のままで成仏せしめる大法が説かれているからであります。  この法華経二十八品には、本門と迹門とがあります。  まず迹門とは、垂迹・・・仏が衆生を化導するために、迹を垂れる(真実の仏の姿を隠して化身として現われる)こと・・・した仏(迹仏)が説く法門のことです。  これに対し、本門とは、本地・・・真実ありのままの姿・・・の仏(本仏)が、その真の悟りを説き明かした法門のことです。  この本門と迹門の関係は、太陽の光が本門、そして太陽の反射した月の光が迹門にたとえられ、ちょうど本体と影の関係にあたります。  釈尊は、法華経に、末法に日月の光明のごとき大人格者が出現され、経文に示される種々の大法難を体験して、法華経の肝心要の法を説き弘めることを予証しています。  末法に弘通される法華経の肝心要の法が、すでに白法隠没した釈尊の法華経ではないことは自明であり、釈尊の末法に関する予証も、釈迦仏法にかわる、末法のための最高真実の仏法が出現することを示しているのです。  しかして、釈尊の種々の予証を寸分違わず身に実証され、末法のために、法華経の文の奥底に秘められた肝心要の法を説き弘められた御方こそ、全世界において日蓮大聖人様ただ御一人であります。このことは歴史に照らしても明らかなところであり、大聖人様の三大秘法の仏法こそ、末法の長い闇を破って民衆を救済する、前代未聞の大白法なのであります。  如何でしょうか?

caballero
質問者

お礼

>末法に弘通される法華経の肝心要の法が、すでに白法隠没した釈尊の法華経ではないことは自明であり、釈尊の末法に関する予証も、釈迦仏法にかわる、末法のための最高真実の仏法が出現することを示しているのです。  末法の、その時々に、そのときのために、仏法が出現するということですね。釈迦が言う法難を身で示し、仏法として出現したのが日蓮ということですよね。  しかし、末法の世はまだ続いています。日蓮の出現した時代から、数百年、日蓮仏法は今の時代において白法隠没してはいないのでしょうか?現代の法華経は日蓮の示した仏法なのか、現代という末法にまた新たな仏法が変わらぬ真実を伝えるために出現するのか、最高真実の仏法は現代において、今においてどのような形であるのか?  日蓮が今においても法門であるなら、その法門、現代においてどの様にあるのですか? 又、日蓮のひろめた法華経の肝心要は何ですか?何と問うのがおかしい事はわかるのですが、今に残る日蓮の法門、少しでもいいですのでお聞きかせさせてもらえるでしょうか?

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