• ベストアンサー

妙法蓮華経

odd-artの回答

  • ベストアンサー
  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.2

 法華経を論ずるに当たっては、すべからく法華経に三種あることを知らなければならない。第一に釈迦在世および正法時の法華経二十八品であり、第二に像法年間における天台の摩訶止観であり、第三には末法に広布すべき南無妙法蓮華経の五字七字です。  日本国に御出世の御本仏・日蓮大聖人様が、  『今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし』 と明らかにお示しのごとく、末法の法華経とは、まことに三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならないのであります。  したがって、法華経二十八品は、三大秘法の仏法の序文として流通分として用いるのです。  末法は、白法隠没とされ、釈迦仏法の効力がなくなっております。それなのに、現代語訳を論じ学んだところで、何になるというのでしょうか?  「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(南無)するという意味です。  日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。  しかし日蓮大聖人様は、  「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・新編一五九四) と仰せられ、大聖人様が建長五年四月二十八日に唱え出された南無妙法蓮華経は、いまだ誰も唱えなかったものであると説かれています。  さらに大聖人様は、  「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・新編六八五) とも、  「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但題目の五字なり」(観心本尊抄・新編六五六) とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異ったものであると示されています。  では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、  「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・新編一七六五) と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人様にほかなりません。これについて、さらに、  「本尊とは法華経の行者の一身(いっしん)の当体なり」(御義口伝・新編一七七三) と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。  したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人様の当体なのです。  大聖人様は、  「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄・新編一二七五) と私たちに本尊の大切さを教えられています。  いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人様の教えに背く悪業を作ることになります。  人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼にあたると同じ理屈です。  せっかく日蓮大聖人様を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人様の御真意に叶った正しい御本尊に向って唱題すべきです。  如何でしょうか?

caballero
質問者

お礼

よく来て頂きました。ありがとうございます。 >法は、白法隠没とされ、釈迦仏法の効力がなくなっております。それなのに、現代語訳を論じ学んだところで、何になるというのでしょうか?  ほんとにそう思います。当時のインドで、仏陀に直接話して欲しいと思います。まぁ無理なんですが、、。古代サンスクリット語で読むのも無理、漢語も無理、累々と時を経て、現代語となったお経に、残る光を読み取りたいのです。日蓮に話をしてもらうことも出来ないし、、、。 >法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。  日蓮=釈尊 ということですか?それとも日蓮が釈尊の意(法華経)に従っている仏だということですか?  重要なのは法華経の行者の当体であり、「すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。」ということですか?    つまり、末法の世に、実に生きている仏こそが、南無妙法蓮華経であるということですか? 漢字が読めずに苦戦しましたが(笑)、odd‐artさんの解説をがんばって理解したように思いますがどうなんでしょうか?宜しくお願いします。

関連するQ&A

  • 南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~法華経?

    数ヶ月前、家を出ると坊さんの声で南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~と繰り返し大きな音?声?で聞こえました。近所はお寺もなく一軒家ばかりなので近所の家からしていたお経だと思います。 今も、家から少し離れたマンション(近くにお寺はない住宅街)の一室で同じお経(南無妙法蓮華経)が繰り返し聞こえました。 かなりおおきな音、声で同じテンポよく流れているのでおそらくテープだと思いますが、どういうつもりで流しているのでしょうか? 近所の人は気持ち悪くなるような結構な音量です。 法華経でしょうか? これは何の為に流しているんでしょうか?  

  • 『南無妙法蓮華経』、、、て?

    『南無妙法蓮華経』、、、て、どなたが最初に言いはじめたのですか?? 日蓮正宗では、御存知の様に日蓮大聖人が、立教開宗時より自行化他にわたる『南無妙法蓮華経』を唱え始め、“竜の口の法難”以降、御本尊として文字として残されたようです。その後、“佐渡流罪”を経て“熱原の法難”時に本門戒壇の大御本尊として定められました。 『南無妙法蓮華経』は、日本天台宗・比叡山延暦寺の最澄も自行のために題目として唱えていました。それをさかのぼること中国天台宗の智顗も自行のために題目として唱えていました。 法華経はインドより中国にわたる段階で、鳩摩羅什により漢訳されていますが、いったいどなたが『南無妙法蓮華経』を唱え始めたのでしょうか? 鳩摩羅什による漢訳の時点で、既に存在していたのでしょうか? お分かりになる方がおりましたら、教えていただけますでしょうか? また、その際文献も一緒に載せていただけるとありがたいと思います。 宜しくお願いいたします。

  • 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?

     特には創価学会としての見解をたずねます。  次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。   (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~    http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512  (α) 南岳釈して云く     「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、  (β) 是の故に法華経に云く     「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く    「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、    大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は     ○ 一切衆生 悉有仏性  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。    (ε)  法華経に同共して信ずる者    (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは      (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも    (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。  《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち   ◆ ~~~~     (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして         清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ~~~~~   ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

  • 南無妙法蓮華経の「経」が意味するものを教えてください

    南無妙法蓮華経 について「経」が意味するものはなんでしょうか この7文字は ・ひとつにはお経の名前であり、仏の名前であり・・・ ・この7文字はすべてのエッセンスを凝縮した結晶のようなものであり・・・ ・私たち一人の人間そのものをあらわしていて・・・    (頭が「妙法」で胸と腹が「蓮華」で足が「経」(手足?四肢?)     というような説明を聞いたことがあります、詳細は忘れましたが     もしこれについての詳しい情報があれば知りたいです・・・・) ・「南無」= 宇宙、仏の世界、ひとつであること、帰依すること ・「妙法」= 不思議な力、「妙」は死で「法」は生、        生死の理(ことわり)        また「妙」は師、信じる対象、「法」は生、信じる自分 ・「蓮華」= 原因と結果は必ずひとつであること        泥の世界で綺麗な花を咲かせられること        仏の原因(種)もすべての人・生き物にあること ・「経」= 足 行動すること、実際に実践すること       足でもあり、手でもあり、       大きな意味では「身口意」の三業をあらわす ・・・と、おおまかに理解しているのですが  「経」の部分についていまいち定かではなく、  「経」の意味するもの、事を詳しくご存知の方、     詳しい説明のあるページなどご存知でしたら教えていただきたく     よろしくお願いいたします。  また、上記の大まかな解釈についても、もし間違っていたら   ご指摘などいただければさいわいです・・・   日蓮さんの「ご書」に記載があれば、具体的に教えていただければ   さいわいです   日蓮さんの教えですが、宗教、宗派は問いません   

  • 南無妙法蓮華経の発音

    南無妙法蓮華経の発音 日蓮大聖人の仏法の題目の発音についての質問です。 題目を唱えていますが、母が南無妙法蓮華経の妙の発音がおかしいと 口うるさく言います。 自分では、しっかりと妙(みょう)と言っているつもりですが母は正しく発音できてないと 信心の効果が薄くなるから、正しく発音しなさいと本当にうるさいです。 本人が信心して題目を唱えていれば、妙の発音はそれほど重要ではないと思いますが、 本当のところはどうなんでしょうか? 日蓮仏法に詳しい方よろしくお願いします。

  • 南無妙法蓮華経 って唱えるのは何教?

    先日ある葬儀に参列しました。 そこで、お経や出棺時すべてが『南無妙法蓮華経』 だけの繰り返しなのですが、これは何宗教でしょうか?

  • 創価学会の題目「南無妙法蓮華経」とは、何語でしょうか?

    創価学会の題目「南無妙法蓮華経」とは、何語でしょうか? 「南無」とは梵語、「妙法蓮華経」とは漢語 だと日蓮大聖人の御書には、書いてあります。 では、「南無妙法蓮華経全体」では、何語でしょうか? もっと正確に質問しますと、『創価学会員が唱えている南無妙法蓮華経』とは、何語でしょうか? 私は、『日本語』だと認識しています。 理由 日本人である日蓮大聖人が、日本国において、日本人に向かって、始めて広めた言葉だから。 御書にも「日本の仏法」と大聖人御自身の教えを呼ばれているから。 その他。 なお、南無妙法蓮華経は、世界に広宣流布すべき大法ですから、世界語国際語となるべき言葉であると想いますが、だからと言って日本語であることは、まったく否定できないと想います。 恐らくお馬鹿な常識問題だと想いますが、根拠ある御回答をいただければ幸いです。

  • 南無阿弥陀とか南無妙法蓮華経は唱えるだけで良い?

    出来れば、経験者やおわかりになる方にお答え頂きたいのですが 昔、歴史物のアニメや漫画で、よく、ただ、南無妙法蓮華経と唱えれば良いのじゃ!とか、南無阿弥陀仏と唱えれば救われるぞよ、みたいなシーンがありました。アニメでは村人がひたすら、たたりじゃー!南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏〜と言ったりするシーンはよくあります。 鬼滅の刃でも不死川玄弥が、集中する時は南無阿弥陀仏ということにしているといったり、悲鳴嶼行冥も南無阿弥陀仏と言いまくってますよね。 確かに親戚のおじさんとかも南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経〜と、それだけを一心に唱えていました。おそらく、昔のお坊さん以外の一般の人もそうだったのでは?と思うのですが、実際は、経典があるので、きっと法事では南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏だけではなく、ちゃんといわゆるお経を読んでいると思うのですが、仏教の世界では、ただ南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏と唱えるだけというのは、手抜きにはならないのでしょうか?非常に素朴な疑問なので、自分で調べてくださいとか、冷やかし?とかの回答は御遠慮下さい。

  • 南無妙法蓮華経と唱えるお隣さんの宗派は?

    マンションのお隣のご婦人が、この半年ほど毎朝毎晩かなり大きな声で 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、なむみょうほうれんげきょ~おおおお…」 で始まるお題目(?)を唱えています。 この後は普通に「○○ちゃん、●●ちゃんがいじめにあいませんように、 いじめに巻き込まれませんように…」といったお孫さん(?)達を 一日守って下さい、とお願いする文章が続きます。 毎日同じ内容で、お互いに窓を閉めていても半分以上の内容が 聞き取れるほど大声で唱えています。(同じ個所で必ず小声になったり 「あちょ~ん!」(と聞こえます)と高音で叫んだりもします) 最初のうちはそれぞれ10~20分程度だから、と気にならなかったのですが 半年以上聞かされるとさすがに「どの宗派だろう」と気になってきました。 創価学会はお題目を大声で唱える、と聞いた事があるのですが 「南無妙法蓮華経」だけを何度も唱えるのかと思っていましたが…。 これだけで判断できるものかわかりませんが、もしおわかりでしたら 教えてください。

  • 創価学会の法華経経典の存在、位置づけ。

    創価学会の法華経経典の存在、位置づけ。 南無妙法蓮華経の題目で、妙法蓮華経(法華経)を南無(帰依、信心)するわけですが、 どうして、法華経を実際学ばないのでしょうか?(学ばせないのでしょうか?) 「南無御書」のような気がします。 法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?また、どういう位置づけなのでしょうか?