• ベストアンサー

釈迦の説法

釈迦の説法については、 いろいろ有名な言い伝えがあるようですが、 釈迦は何らかの自らの思想を、 弟子たちに分り易く伝えようとしていたのでしょうか? 仏教において悟りというは、 言葉や思考による理解によるものではなく、 何か態度や行為によるものという感じがするのですが、 釈迦がレトリックを使用して弟子たちに分り易く道を示そうとした、 ということがあるのでしょうか? レトリックという観点から、 何か良い例をご存知の場合はよろしくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • d-drop
  • ベストアンサー率22% (214/938)
回答No.3

 こんばんは。  まず、釈迦の生前の教えを最もよく伝えているといわれる経典に、「スッタニパータ」があります。全訳は、中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)として出ています。  これの文体を見ると、ほとんどが、短いことばの集成です。仰るとおり、とても実践的です。また平易なことばで書かれています。  さらに、中村氏の解説によると、原文は、韻を踏んだ詩句の形式をとっているそうです。また、私がよんだところ、たたみ掛けるような、ちょうど歌のリフレインのような文体です。  中村氏によると、これは、釈迦のことばを聞いた弟子が、覚えやすいようにそうした文体にした、ということのようです。  ただ、なかには釈迦自身が作ったものもあるのではないか、とは中村氏の指摘です。  私が考えるに、弟子たちは、師の教えを韻文化する場合でも、師の行なったようにやったのではないかと思います。もっといえば、師の作った詩句に似せて作ったに違いない。  だから、釈迦の教えは、レトリック、という観点から見れば、短く、韻を踏んだ、リフレインの多い詩句のようだった、といってもいいと思います。  そして(レトリックとはやや離れますが)実践的で、理屈っぽくない。  よかったら、上記文献、ご一読を。平易ながら、非常に力強いことばの数々です。  個人的に好きなのは、「犀の角」の比喩かな。数々のしがらみや煩悩をひとつひとつ指摘し、そのあとに「○○にとらわれることなく、犀の角のようにひとり歩め」で終わる詩句の集まりです。密林を、大きな犀が超然と歩く姿が浮かんで、胸に響きました。  ご参考になれば。

konstellation
質問者

お礼

はい、大変参考になりました(本当です)。 レトリックは、詩の言葉でもありますので、 釈迦の言葉が、詩句のような響きを持っていた ということであれば、 それはレトリック的である、といえるでしょう。 ありがとうございました。

その他の回答 (7)

noname#50219
noname#50219
回答No.8

釈迦の弟子のうちのある者で、話すに適さない者が居ました。対話や議論のできない彼は、修行仲間からも仲間はずれにされていたりもしたのですが、あるとき釈迦が彼に言いました。 「塵を払い、垢を除け、と言いながら、毎日掃除をしなさい。」 愚直な彼は、その言われた通り続け、ひたすら続け、ある日、弟子のうちで誰よりも早く、悟りを得てしまいます。   こんにちは。前回のレトリックについての質問で、私が以上の話しを紹介させていただきました。それで、この話は、レトリックではなく、むしろ、釈迦に言われたままを、この弟子がやったことによって、悟りを得たのでは?というご意見を質問者様から頂きました。   確かに、レトリックなどは潜んでいないように見えます。ただ、私が無用な深読みをしただけかもしれません。  弟子は、言われたまま、ぶつぶつと毎日掃除をして過ごし、掃除をして過ごし、どういうわけか無心の境地に至り、悟りを得た。  それは何故か。ご質問者様は、継続は力なりで、悟りを得たのではないか?とおっしゃいます。この点でも、私は、ああ、そうだね、と、同意できます。じゃあ、レトリックなんぞはなかったんやね、このウソツキ、となるかもしれませんが、私の解釈を説明させていただきます。    弟子、チューダバンダカは、掃除を始める。「塵を払い、垢を除け」といいながら、掃除を続ける。  それを見た、周りの弟子で、あるものはこう言った。 「塵を払っても、また積もる、垢を除いても、また付着する。あいつはなんて切りのない事をしてるんだ。」  また、あるものはこう言った。 「あいつはただの馬鹿だと思っていたが、あんなに掃除ばかりを一所懸命するなんて、しっかりしてるじゃないか。」  チューダバンダカには、それらの噂は聴こえていたのか、聴こえていなかったのか、とにかく、師に言われたとおり、「塵を払い、垢を除け」といいながら、掃除をし続けた。あくる日になれば、掃除をした表の石畳には、また落ち葉が積もっていたので、またそれを掃いた。拭いたテーブルやドアには、また手垢がついていたので、それも拭いた。そうしてチューダバンダカは、毎日掃除をしたのだが、ある時、おかしな感覚が彼に宿った。 「あれ?なんか、いつもと違うなぁ。いや、違うんじゃないんだけど。。」  そう感じつつも、チューダバンダカは掃除を続けた。 何か、掃くのはいいのだが、空中を滑っているようなのだ。拭くのはいいのだが、空中を掻いているようなのだ。  それでも掃除をし続けていると、また、おかしな感覚がやってきた。「塵を払い、垢を除け」と言いながら掃除をしているけれど、何を払っているのか、何を除いているのか、何も払ったり、除いたり、していないように感じる。だが、私は、、 しかし更には、誰がやっているのか、何をしているのか、それらのことすら、朦朧とし、明瞭となり、消えていくのだ。チューダバンダカは、「塵を払い、垢を除け」と言いながら、掃除をしていたが、誰でもない者が、何でもない物を、何もしていない。ただただ、、彼は、「往生」した。  なので、チューダバンダカは、その掃除の際に起こった不思議な感覚を釈迦に伝えに行った。 「そんなわけでお師匠、私は、お師匠の言いつけを、全うすることができませんで。」 それを聞いた釈迦は、彼に言った。 「それでいいよ、チューダバンダカ。お前は三昧の境地を得たのだ。お前はこれから、多くの比丘達の助けとなるだろう。」   ご参考になりましたか? この話の解釈にも、レトリックは何もないと思われるのなら、それでいいと思います。  ただ、あえて指摘すれば、このシーンです。 チューダバンダカが、釈迦が言いつけたたった一つの事を、まっとうできなかったと言い、釈迦は、それでいいよ、と言ったところです。  チューダが、釈迦の言いつけを守り抜いたことで悟りを得たと言えばそれは真実ではないし、かといって、言いつけを放棄したことで悟りを得たかというと、そうでもない。ただ、言いつけをまっとうできなかったと言うのが正しい。  釈迦の引導は、往生の間際で、弟子と共に、消えてしまったのです。   掃除を薦めたこと自体が、レトリック的な行為だと思い、この話を紹介させていただきました。  弟子に掃除させることが目的ではなく、弟子が悟ることが、真の目的であったからです。そしてなにより、師も弟子も、それを心から望んでいた。 その心に、偽りは無かったので、弟子は悟りを得たのです。        哲学者ソクラテスの言葉にこうあります。 「真理を想い出す」   求める者は、持っている者です。

konstellation
質問者

お礼

こんばんは >私の解釈を説明させていただきます。 この後に続く、「弟子、チューダバンダカは」から 「お前はこれから、多くの比丘達の助けとなるだろう。」 までの30行ほどが、 回答者様自身の「解釈」ということで、 このような話の続きがあった、ということではないですよね。 え~と、つまり、この30行ほどのお話は、 回答者様が創作されたのだと思いますが、 もし私が誤解している場合は仰ってくださいね。 ありがとうございました☆

  • lightgrid
  • ベストアンサー率26% (11/42)
回答No.7

再びNo.6です。 ご質問とは関係ありませんが、気になったので補足させていただきますと、 目の見えない人は、目の見えない原因がなくなれば、目が見えるようになる、ということを前提に、説明したつもりでした。目が見えるように手術するとか、目を移植するとかすれば、目が見えるようになるでしょう。 霊感やインスピレーションに対する感性のない人も、先に挙げた「雑阿含経の応説経」にあるとおり、修行すれば、誰でも(凡夫でも)必ずやそれが身について、霊的波動(インスピレーション)を受けるようになるでしょう。 (差別用語にならないように「目の見えない人」と書きました。)

konstellation
質問者

お礼

失礼しました。 差別用語とは知りませんでした。 思想的な話で「目の見えない人」という言葉を見ますと、 まっさきに思い出すのがディドロの『盲人書簡』なので、 私はその用語を使用していますが、 もしそのような問題があるとすれば、 岩波文庫も『目の見えない人書簡』のように タイトルを変えなければなりませんね。 勉強になりました。 ありがとうございました。

  • lightgrid
  • ベストアンサー率26% (11/42)
回答No.6

再びNo.4.です。釈迦の悟りは、3次元の人間には見えない新しい霊的な境地であったので、「譬え(たとえ)」や「比喩的表現」(これもレトリックですか?)は、多く出てきます。 例えば、雑阿含経の応説経(下記http://item.rakuten.co.jp/book/1314/)では、比丘(びく、出家修行者)は、仏陀になるための七科三十七道品の修行を行わなければ、仏陀になりたいと思っても、因縁解脱する(仏陀になる)ことができないし、一方、仏陀になるための七科三十七道品の修行を一生懸命続ければ、仏陀になりたいと思わなくても、自然に因縁解脱して仏陀になることができる、ということを説いています。 お経では、それを「伏鶏の譬え」や「大船の譬え」で説明しています。 「伏鶏の譬え」:産んだ卵の数が多いために、母鶏は卵の面倒を十分にみることができない。ヒナ(比丘)は自分の力だけでは殻を破って生まれる(仏陀になる)ことができない。ヒナ(比丘)は母鶏(修行法)の手助けがなくては生まれることが(仏陀になることが)できない。 「大船の譬え」:大きな船は、強靭な藤蔓で結ばれて建造されている。めったたことではその藤蔓は切れない(煩悩、因縁はめったに消したり切ることができない)。しかし、台風の季節に、何日もの間、海で波にもまれると(修行を続けると)、最後にはいかに強靭な藤蔓でも最後にはばらばらに切断されてしまう(最後には解脱することができる)。 「霊的波動」とは、「インスピレーション」と言い換えれば、ご理解いただけるでしょうか? 何かの真理を探究している者は、高い次元の(霊的)存在からインスピレーションを得ることがあり、それによって一瞬にして求めていた概念を理解できることがあります。釈迦は、霊的に高い存在ですので、説法をしながらインスピレーション(霊的波動)を人々に与えていたと思います。 たとえていえば、同じ専門の勉強を先生に習う場合にも、それに熟達している著名な先生から、じかに講義で習うと、文字だけでは得られないその専門分野のスピリットを感得することができ、内容が容易に理解できるようになった、という経験はありませんか? そのような目に見えない情報の伝達がインスピレーションであるといえると思います。 「哲学」や「思想」というのは、インスピレーションで得られた概念が先にあって、それを正確に表現しようとするので、(文字だけで理解しようとすると)難しくなるのだと思います。既にインスピレーションを共有している者どうしは、言葉でも簡単に交流できますが、インスピレーションを得ていない人にはなかなかついて行けないのだと思います。 たとえば、目の見える者(インスピレーションを得た者)どうしは、「色」とは何かを厳密に言葉で表現できなくても、物の「色」について簡単に情報を交換することができます。しかし、目の見える者が、目の見えない人に、「色」とは何かを説明することが必要となったとき、言葉で説明を試みるでしょうが、目の見えない人に「色」を完全に理解させることは不可能でしょう。「インスピレーション」とは目の見えない人にとっての「色」の知覚のようなものです。

konstellation
質問者

お礼

哲学がインスピレーションで得られものを正確に表現することに 努めていた、というご意見が正しいかどうかは微妙ですが、 霊的波動がインスピレーションだとすれば、 それは直観のような感性的知覚だと考えればよさそうですね。 >既にインスピレーションを共有している者どうしは、 >言葉でも簡単に交流できますが インスピレーションは共有できるのでしょうか。 共有できるのは、さしづめ表象では? その意味でも、 >インスピレーションとは目の見えない人にとっての >「色」の知覚のようなものです。 だという説は果たして正しいのでしょうか? 盲人は色の知覚が不可能なのですから、 それに喩えてしまうと、 インスピレーションを得るのも不可能だ、 ということになりますよね。 あるいは、 凡人はインスピレーションを得るのは不可能だ、 だから、「開眼」するためにも説法を聞きなさい というレトリックなのでしょうか・・・ ありがとうございました☆

  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.5

こんばんは。。  「良い例」があるような、ないようなと思案しています。  釈尊は、悟った「思想」や「道」を真正面から説くことはなかった、と考えています。  「思想」「道」を最も直接的に説いたと思われるのが、いわゆる「初転法輪」と呼ばれる機会で、かつて共に修行していた5人の修行者に「十二縁起」や「四諦・八正道」の教えを説いたとされていますが、この場面の経典(雑阿含経)の描写は、巧みな修辞を用いたという印象を受けません。  最初期の経典「ダンマパダ」や#3の方が触れておられる「スッタニパータ」は、比喩表現を用いた簡潔な教説が見られますが、(#3の方もおっしゃるように)「実践的」です。  悟った者として釈尊が見た世の中が説かれはするのですが、「思想」や「道」は背景としてあるいは指し示す先にあるものとしておぼろげに像が浮かぶ程度で、はっきりと説かれているとは言えないと思います。  釈尊は、悟りを開いた直後、この悟りを人々に伝えるか否か躊躇し、一時は布教伝道を断念したものの、翻意したとされています。(どこまで事実かはわかりませんが、この点は、自分はおそらく事実だろうと考えています。梵天が拝み倒して説法を請う場面はフィクションでしょうけど・・・)  躊躇・いったん断念した理由は、ご質問文にも触れておられるように、「悟り」が「言葉や思考による理解によるものではない」からでしょう。  そこで釈尊は、どうやっても表現できない「悟り」そのものを無理やり説くよりも、人々各々に「悟った者から見た世界」を語り、「悟りへの方向性」を示し、それぞれに「最適な論法」で諭し、「最適な実践方法」を説いて導き、各々自身が悟りへ向かうよう仕向ける、という手段を選んだのだと思います。  釈尊の説法を完全にリアルタイムで記録した経典はありませんが、「スッタニパータ(経集)」「ダンマパダ(法句経)」といった、釈尊の教説を留めているとされる最初期の経典には、後世の極めて精緻に練り上げられた経典とは別の魅力があふれていると思います。(もし良ければご一読ください。)  結局「良い例」をご回答できませんでしたが、ご容赦ください。では。

konstellation
質問者

お礼

>結局「良い例」をご回答できませんでしたが、ご容赦ください。 はっ、危うくだまされるところでした(笑 思わずご説明に引き込まれ、 「完璧な回答~!」と思ったまま最後に来たら、 この言葉で、本当に「はっ」としました。 だから「アドバイス」なんですね。 ありがとうございました。

  • lightgrid
  • ベストアンサー率26% (11/42)
回答No.4

釈迦は、悟った後の生涯をかけて、輪廻転生からの解脱(卒業)の方法、すなわち仏陀(六道輪廻から解脱した人)になるための修行方法を、人々に説きました。その説法の内容は、阿含経(あごんきょう、アーガマ)にのみ記されています。法華経などの大乗仏教の経典は、釈迦が説いたものではなく、後の人々が、あたかも釈迦が説いたかのように創作したものです。釈迦は、説法の内容を分かりやすく伝えるために、知識層の言葉(確かサンスクリット語)を避けて、当時の「民衆の言葉であるマガダ語」で分かりやすく説きました。 悟りによって得た知見の一部は、「縁起の法」、などとして伝えられています。しかし、その悟りは、机上の思考だけによる哲学ではなく、瞑想を中心とした実践的な修行により獲得できる高い霊性です。その仏陀の境地は、凡夫(一般の人間)の状態で言葉だけで完全に理解するのは、不可能であり、ひたすら瞑想を中心とした実践的修行によって得られるものといえます。従って、釈迦は、阿含経で、修行の方法(七科三十七道品)、仏陀へいたる4つの段階(人間の10の因縁と、これを切ることによって到達できる段階「須陀恒(シュダオン)、シダゴ ン(斯陀含)、アナゴン(阿那含)、アラカン(阿羅漢=仏陀)」の関係)を説いています。 現在の阿含経は、主に、パーリ語、翻訳版(原語不明)の中国語で残っています。 残されているパーリ語や中国語では、韻の使用が認められるようですが、いずれにしても、マガダ語による阿含経は残っていないようなので、特別なレトリックを用いたかどうかを確認することは難しいのではないでしょうか。しかし、仏陀の説法は、レトリックに依存するものではなく、あくまで内容によるものであったでしょう。 私見としては、釈迦は、説法においてその内容とともに仏陀の霊的波動を人々に伝え、人々を感化していたと思います。 釈迦の説法の内容は、学者やお坊さんによる阿含経典、根本仏教経典に関する多くの本が出版されています。 中村元・三枝充悳(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4094600809.html) 桐山靖雄(http://item.rakuten.co.jp/book/1314/) また、南伝仏教(上座部仏教)の僧の本も出版されています。ウェブサイトではhttp://www.j-theravada.net/kogi/index.html

konstellation
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 釈迦は、民衆の言葉でわかり易く説法を伝えようとしていた。 しかし、すべてが言葉で伝わるものではないし、 思考で悟るものでもない。 人は瞑想という実践的な修行によって初めて 仏陀の境地に至る。 だから、レトリックではなく、 内容と霊的波動が問題であった、 ということですね。 ところで、霊的波動って何でしょう? まるで生協の白石さんに対する質問のようですが、 波動拳と関係ありますか? よく分らないのですが、 それは「気」のようなものでしょうか? いや、テレパシーかな? いや、サイコ○×とかいうもの?

  • 2199
  • ベストアンサー率14% (74/525)
回答No.2

拈華微笑の故事も参考になるでしょう。

参考URL:
http://www.zengift-senshin.co.jp/senshin/zengo/zengo20.htm
konstellation
質問者

お礼

結局、何を悟ったのでしょうか? でも、やはり言葉や教義を越えた理解 というものがわかるお話でした。 つまり、レトリックではないということですね? それに、八万分の一しか理解できないんですもんね~ (それとも、八万って、「大勢」とか他の意味があるのかな) ありがとうございました

  • dulatour
  • ベストアンサー率20% (327/1580)
回答No.1

ご質問の内容に沿うかどうかわかりませんが、舎衛城のキーサ・ゴータミーの話があります。

参考URL:
http://www.bukkyo-u.ac.jp/BUCD/world/html/busshin/14_02/2002_02_busshin.html
konstellation
質問者

お礼

なるほど、 気づかせる、という意味では、 こういう方法は有効ですよね。 鬼子母神のお話の場合も似たような考え方だと思いました。 ただ、これがレトリックなのかどうかがわかりませんが・・・

konstellation
質問者

補足

ありがとうございました。 ↑ お礼にこの言葉が抜けていました・・・

関連するQ&A

  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 奇術師イエスの手品は、それより過去釈迦もこなしてる

    イエスさんは、ときわたりESPを使いこなす私はご対面したことがあるがね。 腐臭を放つあのゾンビの不快さをここで語ろうとは思わない。 仏弟子が釈迦の背き続けることとおんなじで、イエスの子は彼を繰り返し処刑することで自らお知った。 死につずける彼の定めは、悟りと同じく信じる者に死をもたらすことであろう。 輝かしき、私の実在する妖精の捕まえ方と違って、イエスも自らを解き放つことに失敗した、出来損ないだ。 ポケモンを通して私は10兆円だか20兆円だかの経済的成果を無償で君達に与え、よぼよぼで手遅れの君達はともかく、君の孫どもに夢の種を植え付けた、その心の種が芽吹くかどうかは、もはやポケモンは過去の遺物で、、私の実在する妖精を捕まえる幸福にかかっている。 捕まえているからポケモンは世に出た。 しかし私はそれを語る言葉を長らく失った。 何故なら、無力に弁護士を派遣する悪の結社相手に、天界の法を持って自らが生きている事を知らしめる、余計な手続きがあったからだ。 天に任せた彼らは、天の法で滅びるだろう。 今回の問いは釈迦とヒモジイ虎の親子の美談だ。 釈迦は古文書が語るに、飢えた虎の親子に出くわした。 飢えた虎と直面すれば、想像したまえ。 君達は自身の生命の危機に直面するだろう。 自らが生きるため、虎に自らを与える事を拒否するだろう。 ところが釈迦は、そういう場面に出くわしたなら、私は自らの肉体を親子にささげると語った。 磔獄門の出来損ないと違って、生きながらに観念上に死の儀式を語り、それを聞いた者どもをぶっ殺した。 継承される仏教では、この死の儀式に、釈迦に対する無駄な抵抗をいまだにしていておかげだ彼らは屍のままさまよっている。 改めて君達をぶっ殺すのは、釈迦と面識のあるときわたりESPの使い手たる私だ。 釈迦は、私が死に直面しても、親子を生かすために自らをささげると言ったんだ。 それが出来るのは、釈迦が生の神秘を知る覚者であり、永遠の生を自覚しているからだ。 観念世界の特徴の一つは時間が意思のままになることだ。 私に言わせれば釈迦の悟りはまだ乏しく、後世に生きる私にとって、やつは先輩ではなく、よだれを垂れ流しておっかけてくるコキタナイ後輩だね。 彼は舌足らづでも生きる意味を君達の授け、真に理解したと言いきる者は、死の意味を知るからこそ生きる意味も又知っただろう。 釈迦にとっては説話の一つで例え話だっただろう。 聞いた者は、まさにあなたはそのようにふるまうだろう。 その慈悲は真である。 貴方は私たちが理解したその瞬間に確かに死んだ。 そして復活し、今も生きている。 その奇跡が、彼の童話の様な文芸作品に安らぎを聞いた者どもは死を通して生きる意味を、釈迦と等しく言葉にできないまま理解したのだ。 このような愛弟子の言葉にならないと言う結論が悟りだ。 イエスは同じような例え話を踏襲した。 聖書の奇跡は童話だよ。 真に受けて狂う君達は自らの心の扉を解き放たないまま、童話こそ真実なれと、現実では起きない奇跡を待ち焦がれている。 君達がもしも奇跡に立ち会いたいのなら、人の心の全てを理解する私の実在する妖精に遊ぶことになるだろう。 オカマである君達へのアニキな入魂は浣腸だ。 今回は文芸作品の寸評の依頼だ。 心が枯れ切った西洋の現代に対する、心を探求する哲学だ。 君達が哲学者として、心を自らに灯しているのなら、この難解な哲学が確かに質問として成立していることが判ろうとも。 哲学する時間には必ず酔っ払っている私は、喧嘩を売られたら喜んで買う。 逃げ口上の様な喧嘩の売り方はするな。 特別に言っておくと、免許皆伝しているガミガミさんには争う意図はない。

  • シャカの空とダライ・ラマの転生との矛盾

    シャカは魂とその生まれ変わり(輪廻・転生)は、無い(無常のとおり)か、無記と見なした? かもしれないですが チベット仏教(ダライラマら)や仏教各宗派では魂があり輪廻転生すると見なしているらしいなら 教祖と後の信者たちとの間で思想内容が別個、間逆になっていると思いますがべつにかまわないのですか なにも教祖が何か言ったからってそれに従うこともなく、独自に世界観をつくればいいのですか シャカは詩人や俳人みたいに積極的に独りになり感じ考えより孤独になり、より新しいよりふさわしい世界観を見いだす方法を見いだしたかもしれないですが 信者とかよく群れる人たちは既存の世界観を共有し継承し、すると思考の自由度や新しさや世界観の独創性が少なくなってくると思いますが、そういうのはべつにかまわないのですか

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 「下根の至根」

    学生の頃、仏教学の講義で釈迦が愚昧な弟子にほうきを与えて掃き修行させたところ、ついに悟りに至ったという話を聞いた覚えがあります。その際、その弟子の人物評価を「汝は下根の至根ゆえに」と言ったと思うのですが、ネットで検索してもこの言葉は出てきません。私の記憶違いだったでしょうか。「下根」は出てくるのですが、「至根」が出ません。下根の中でも「至って下の方」ぐらいの意味だと思うのですが・・・・。 ご存知の方はお教えください。

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 無の悟りとは、釈迦にとっては人生論だ。

    君達の信仰は神を表していない、すなわち無だ。 私の信仰は神を語らないことにある。すなわちこれもまた無である。 こうして一切が無である。 この無の教えは誤解された。 君達の信仰は神を語っていないと教えられ、自らの神を語るこそすら出来ないと、その絶望と信仰の到達がはるか彼方であることの無であることの内訳と誤解され、すべてが死に向かう宗教として仏教は誕生した。 私は実在する仮面ライダー「黒き明星」としてその死の罠を粉砕し新たな活路を見いだした。 別に語りたければ語ればいいじゃん。 無は信仰の様式の一つだよ。 無を理解するのは私の様な超人だけでいい。 君達の場合は、自らを考える事と神を考える事を区別しなければいいんだよ。 人間の思考が神に由来すると気が付けばそれで十分悟りだよ。 さて仮面ライダーである私は常に闘争と勝利を求めている。 旧人類の亡霊として私の前に立ちはだかってくだされ。

  • 釈迦に説法しちゃったことありますか?

    ある分野には詳しいと自負しているものの、趣味レベルにも関わらず、説法した相手がその道のプロだと後でわかって、恥ずかしい思いをしたことありますか?

  • テメエで何とかしろ

    WEBを散策していて拾った文章だよ。 > ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第15回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より ☆安心立命の境地を得ようとする 「まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に應じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって傳えるに至ったのである。」  第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。」(114頁) 無の悟りとは、無い物はないと明白に理解することで、その無を明かしてもやはり無である。 すなわちお前の神を明らかにして見せよ。 こういう問いかけに、無を悟らしめた。 教義が無いのではない。 無である事が教義なのだ。 それだけのことだ。 あんたらは本当に仏教となのか? 無ならそれでいいじゃないか。 不満を感じてはいかんよ。 さて研究論文として書いてみました。 無である。 これを。 語る言葉はない。 コレに直せば全く疑念の迫らない論理じゃないか。 釈迦様が語る言葉を持たないだけでなく、君達も自らの信仰心に対して語る言葉が無いはずだ。 だからこそ聖人に尋ねるのだ。 ところがそうして他者の信仰心を盗んだり、土下座して他者からの信仰心を星占いしてもらったとしても、その理解は所詮浅い物で、自らの信仰心そのものにはならない。 自らを理解しなければ何にもならないのだ。 おおむねそのようなたたき台からサル踊りを期待します。

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。