• 締切済み

自由意志?

caballeroの回答

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.5

諸々の選択肢に惑わされず、選ぶべきことを知っている時、自由意志が実現できるといえるのではないでしょうか。どれにしよっかなぁ~と迷っている状態は、自由意志は働いてないでしょう。バッターに打たれて、普通なら余裕でホームランでしょ!?というようなボールが、突如ぐいんと向きを変え、ピッチャーの頭に落ちてくる。ホームランボールと、ホームランになるはずだったのにピッチャーの頭に落ちるボールと、どちらが自由意志を象徴的にあらわしているかといえば、後者でしょう。 自由意志のところに、しかるべきということがあります。ホームランボールは、実はダサダサのキャッチャーフライでも、しかるべきならホームランにできます。ホームランボールに見える球も、しかるべきならピッチャーフライでアウトになりえます。でも、しかるべきとは結果を見てからいうものではありません。もちろん予測でもありません。ホームランになっても、しかるべきでないなら、それは惰性によるホームランです。当然の事で、誰もほめてくれません。しかも、しかるべきホームランボールが、ピッチャーフライのアウトになる。これが多くの人間です。アウトになるわ、かっこ悪いわ、ほめられんわ、です。  満塁。外角高めストレートを4番のパワーバッターがミートした。そしてそれはキャッチャーフライで倒れるのです。それは、しかるべくしてアウトになったのです。それが「偉大なボール」、です。なるはずのないことがなるのです。自由意志と、しかるべきの関係はそういう関係です。 ここで自由意志とは何かに戻ります。先ほどの偉大なボールが、自由意志を持たねばホームランになっていたのは明確です。自分で動けないですから。。自由意志をもたない者というのは、他者の意志のまま、周辺環境のまま、惰性で動く者です。ピッチャーゴロになればピッチャーゴロで終わってしまうのが自由意志を発揮しない人です。  自由意志とは、しかるべきを実現させるためのものです。そして、自由意志は、しかるべきものならどんな境遇でもそれを実現できます。刀がもとのさやに収まるのが当たり前の様にです。  いいでしょうか、ホームランボールでもしかるべきならキャッチャーフライでアウトになれるのです。ピッチャーゴロでもしかるべきなら、ホームランになれるのです。サード正面でも、アウトになるべきならアウトになればいいのです。そのときエラーはありません。そこには野球のルールの他に、しかるべきというルールがあるからです。  わかってらっしゃると思いますが、アウトが悪く、かっこ悪いとかということじゃないのです。味方にしたら、守備にも、攻撃にもファインプレーはあるのです。このように敵・味方と言いたくありませんが、敵の打球として、アウトになると、味方は喜ぶのです。僕が野球で示した事の意味を汲んでいただけたでしょうか。 しかし、間違いのないように言葉を借ります。 「隣人をあなた自身のように大事にしなさい」 スポーツマンシップを忘れてはいけません。哲学という竹筒から、見え隠れする世界を感じていただければいいですね。

関連するQ&A

  • 自由意志はいつ存在しているのか?

    手を挙げるときに、自由意志があるからと考える人がいます。 そこで質問です。 ―――――――― 自由意志が働くのは、 1.手を挙げる前でしょうか、 2.手を挙げている最中でしょうか、 3.手を挙げた後でしょうか。 ―――――――― 皆さんは、どう思いますか?

  • 「自由意志はあるのか?」の問い

    「自由意志はあるのか?」と疑問に思いました。 でも、「自由意志はあるのか?」という問いをしたため、自由意志はあるのだと感じました。 そもそも、自由意志がない場合、「自由意志はあるのか?」という問いもでないかと思うのです。 このような考え方ってどうでしょうか?自由意志はあると思いますか?

  • 自由意志ってなんですかね?

    自由意志ってなんですかね? 例えば、あなたは明日食べるものを、自由に決められましたか? ただし、この質問を見るまで。 どいうのも、じゃー、あえて変えてやるよ!って人が現れるが、それさえも、私の質問を見たから変化しただけであって、この質問を見るまでは、変わらなかったでしょに。 お弁当を作るのなら、冷蔵庫にあるものか、朝の時点で冷蔵庫にあり、朝の時間でできるものでしょ。 突然、新料理に挑戦っ!ってこともほぼないだろうし。 コンビニで買う人も、好物か、それとも暑さであっさりしたものになるかは、人それぞれですが、個人に関しては自由なんてのはなく、金銭的だったり、嗜好だったり、過去の体験だったりで、結局はそれで、決定するのでは? じゃー、サイコロで選択すればっ!って場合も、サイコロはバタフライ効果やカオス理論やらで、再現できないランダムでしょうが、そこに意志なんかないでしょうに。 好きな人だって、大脳生理学や心理学で説明できたりするわけでしょ? それが意識か無意識かはわからないし、もっと生物学的な理由かもしれませんが、どちらにしたって自由なんてないわけです。 「じゃー、好き勝手自堕落に生きてもいいの?」といえば、それはNOで、好き勝手生きれば社会的に制裁をうけるようになっているわけですよ。 たとえ犯罪者が、選択がない状態であったとしても、社会的に問題があれば隔離されたり、排斥されるわけです。 スタートレックでさー、ある囚人が、実は脳の障害によって暴力的になっていて、障害を取り除けば、犯罪は犯さないだろうって話がありまして。 もちろん、その人は、自分が選んで、自分の自由意志で犯罪を犯していたんでしょうが、それは脳の障害だったわけですよ。 病気のせいだったわけですが、たとえ病気だとしても社会的には邪魔なので、隔離される。 で、自由意志ってなんですかね?

  • 人間に自由意志はあるか?

    人間には自由意志があるか? 私は、ないと思うのですが、その理由があまりにも単純なので、もっと異なった考えがあれば、教えてください。 以下は、私の考えた理由です。 人間は、色々考えて、最終的には、「自分は、これを選択するしかないと納得したこと」を意志するのだと思います。 ところが、その納得する事というのは、様々な自分以外の要因が絡み合って決まることなので、自分の意志だけで自由勝手に「納得感」を作り出すことはできない。例えば、愛する人を理由もなくなぐることを納得しようと思ってもそれは無理である。 従って、人間には、自由意志はないと思います。

  • 現象主義における自由意志について

    現象のみを唯一の実在とするような現象主義の場合、自由意志があるか否かの結論(答え)は現象としてすでに現れていると考えていいのでしょうか?? ※ここでは自由意志を 行為選択権 の意味で定義し、捉えるとします。

  • 「意志が弱い」を治す方法は?

    「意志が弱い」を治す方法は? 私は意志が弱い。 いや、トータルで客観視すれば強い方かも。 要は、周囲に流されにくい人間だが、 短期的には意志がモロくて短絡的快楽に偏りがちだ。 どうすれば意志の弱さを克服できるか? 自由なご意見、お待ちしております。 (私の場合は偏向した思考回路なので一般的な回答しか期待できませんが。。。)

  • 人間に自由意志はあると思いますか?

    こんな質問はおそらく科学的には答えられないことであって、哲学の問題なのかもしれません。でも、哲学のカテゴリーで質問すると、あまり根拠のない私見しか得られなくなりそうなので、こちらで質問します。 なるべく科学的・実験的な根拠を基にした意見を下さい。もちろん、はっきりとした答えは求めてません。ある程度の根拠を基にしたうえであれば、自分の意見でかまいません。見識深い皆さんはどうお考えか教えてください。 ちなみに、私は・・・わかりません。でも、脳だって物質から出来ているのだから物理法則は免れないはずなので、自由意志なるものが介在しえるのかなぁと思います。

  • 自由意志は存在しない 脳科学の常識ですか? 

    自由意志は存在しない 脳のニューロンや 脳内化学物質が行動を決めるのでしょうか? ______________ リベットは、自由意志が存在するかどうかを確かめようと思って、 「被験者に好きなときに手首を動かしてもらい、その時の脳活動を観察する」実験を行いました。 しかし、結果は一般の常識とは違ったものでした。 被験者が「動かそう」と意識する約0.5~1秒前に、 脳が手を動かす「準備」を始めていることが明らかになったのです。 このことは、意識は、無意識に脳がすでに行ったことを、 遅れて認識したにすぎないということを意味します。 どうやら自由意志というのは存在しないというのは、ほぼ脳科学の定説と見てよい。 本当は「自由意志」なんて無い?~常識を覆す脳の話~ - NAVER まとめ <http://matome.naver.jp/odai/2136826856775566301> 「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果|WIRED.jp <http://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/> リベットは、自由意志が存在するかどうかを確かめようと思って、 「被験者に好きなときに手首を動かしてもらい、その時の脳活動を観察する」実験を行いました。 しかし、結果は一般の常識とは違ったものでした。 被験者が「動かそう」と意識する約0.5~1秒前に、 脳が手を動かす「準備」を始めていることが明らかになったのです。 このことは、意識は、無意識に脳がすでに行ったことを、 遅れて認識したにすぎないということを意味します。 どうやら自由意志というのは存在しないというのは、ほぼ脳科学の定説と見てよい。 本当は「自由意志」なんて無い?~常識を覆す脳の話~ - NAVER まとめ <http://matome.naver.jp/odai/2136826856775566301> 「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果|WIRED.jp <http://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/>

  • 自由意志、自由選択とベイズ統計について。

    人の行動、自由意志、自由選択は、フィジカルに依存するが、本質的にはベイズ統計的なものですか? つまり、「自由選択ができたはずだ」というのは、事後確率からみた幻想であって、事後確率が出力される前の事前確率において、一番高い可能性が、選択されたにほかなりませんか?

  • 本格小説と自由意志について

     (α) ルーテル( Martin Luther )に《奴隷意志》の議論があるようです。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ルターは《人間の意志 voluntas hominis 》が《奴隷的で囚われたもの serva et captiva 》であると主張するが それは人は外からの《強制 coactio 》によって 嫌々ながら何かを意志するという意味ではない。意志が意志であるためには そこに自発性がなんらかなければならない。奴隷的であると言うのは 人間の意志が悪へと向かい 善に向かうことのない状態にある という意味においてである。  (清水哲郎:ルター in 伊藤博明編『哲学の歴史 第四巻 ルネサンス』2007)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (β) これゆえ 文学において《本格小説》と称する行き方は あたかもみづからの意志をいわば中立として 作者でありつつも観察者の立ち場に徹して物語を編んでいく――と言うのでしょうか?    これが問いです。  (γ) わたしの考えは   ▲ 奴隷的であると言うのは 人間の意志が悪へと向かい 善に向かうことのない状態にある という意味においてである。  ☆ というまでに突き詰めては考えていません。仮りに《悪へと向か》うかどうかは別としうるならば別として単純に言って人間の意志がそのままでは《善に向かうことのない状態にある》としますと それでも その認識に伴なうへりくだりをとおしてゆくゆくはかえって自由意志が建てられて行く――こう見とおしています。  ですから結論づけるなら  (δ) 中立の観察者の立ち場に立てなくてもよい。そうではなく 《作者》はあってよい。主観が顔を出してよい。この主観のうちに建てられて行く自由意志に沿って 物語を編む ないし 自己表現を推し進めて行く これでよい。たとえ挟雑物が交じって来ても 基本の歩みを歩み( basis )としてあたかも悪とともに進んでよい。  ☆ こう考えます。《あたかも悪(または 毒麦)とともに》というのは 社会にあって自分を含めた人びととともにという意味です。  (ε) ちなみに ルーテルはたとえばこう考えたようです。  ▲ われわれの行為なしに恩恵と信が注ぎ込まれ それが注ぎ込まれたうえで行為が生じる。(『ハイデルベルク討論』=前掲・清水)  ☆ 前半すなわち《われわれの行為なしに恩恵と信が注ぎ込まれ》というところが 《私心をあたかも蒸発させ観察者であることをつらぬく》につながると思われます。わたくしは 後半の部分つまり《恩恵と信が注ぎ込まれたうえで行為が生じる》のほうに重きを置きたい――こう思います。かえって自由意志が建てられるという希望です。  これは 一文の全体として つながった過程であることに間違いはないでしょう。  やや不案内のところがあると思いますが 自由なご見解をおしえてください。