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言文一致について

tron-hn3の回答

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  • tron-hn3
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回答No.3

随分長くなりますが、辛抱してくださいね。 >書き言葉と話し言葉の歴史について見てきて、途中で言文一致とはどういうことなのか自分で整理がつかなくなったんです。 言文一致とはどういうことか、について考える前に「話し言葉」とは何か、「書き言葉」とは何か、ということについて考える必要がありそうです。 前回のご質問でs-wordさんは「校長先生の祝辞」を「話し言葉」に分類されていました。それに対して私は「話し言葉ではない。書き言葉を読みあげたものだ」とツッコミをいれましたね。 その回答をして以来、私の方にもなにかスッキリしないものが残りまして、いろいろ考えたんですが、私とs-wordさんでは「話し言葉」「書き言葉」に対する認識が違うようだ、ということに思い当たりました。 私のとって話し言葉とは「私的な会話で用いられる言葉」のことです。 改まった場面、公衆の面前などでなにかを話すときの言葉は、どうしても「文章語」の影響を受けるからです。文章語とは何か。つまりあることを伝えるために意識的に取捨選択され、整えられた言語、ということです。それが可能なのは、文字にするからです。ですから、声として発せられた言葉であっても言葉を意識して話すときの言葉は「書き言葉」の範疇です。 地方に住む私にとっては「標準語」というものもやはり書き言葉を声に出して読んでいるようなものです。そして私にとっての「言文一致」は「完全に普段の話し言葉を文章をにする」ことで、これは完全には、無理なんです。 s-wordさんが最初の質問で書いた「言=話し言葉」という仮定の「話し言葉」とは、いかなる場面であっても、音声によって発音された言葉をすべて含むのではないか、と。書き言葉についても同様に、なんであれ、文字に書かれたものは書き言葉であるという認識を持っていらっしゃる。私はそう理解しました。 そう考えると、「話し言葉」と「書き言葉」は、まったく別のものになってしまいますね。で、それを一致させることが言文一致だ、と。 でも、現実はそうではない。読んで覚えた言葉を声に出し、耳に聞いた言葉を書き付ける、だから話し言葉と書き言葉は常にフィードバックしているのです。しかし、「音として発せられる言葉」と「文字として書かれる言葉」は独自の性質を持つ。どうしても文字の方が残りますし、遠くに届けることが出来ますし、ということで別のものとして存在しつつ、影響を与え合う訳ですね。 書き言葉では、大勢に伝達する為には個人個人で好きなように書いていたのでは役に立たないから、 基準というようなものが必要になってきます。 さて、s-wordさんがまとめた所による話し言葉と書き言葉の歴史は平安女流文学からですね。それ以前のことは詳しくないので私も省きます。平安女流文学はもともと「読み物」として書かれたものです。それ以前の時代の公文書の「基準」は漢文ですが、やまとの言葉、宮中の女御達が話している言葉をを文字に書く、ということが成立した。今度はこれが「基準」になる。文字に残って、読まれるからです。紫式部の文章なんかが好んで手本にされたようですね。 だけど、すべての文章がそうだったのかというと、違う。その後に現れる「平家物語」や「太平記」は宮中を出て、庶民の前で語り伝えられていまいた。平家は「源氏物語」の影響が強いのでともかく「太平記」になると文章のリズムが変わってきます。当時の話し言葉も取り入れられていたのではないでしょうか。そのように話し言葉と書き言葉は常に影響し合うのですが、話し言葉の変化の方が早い。話し言葉は、書き留められなければ変化する前の言葉は消えてしまい、わからなくなりますが、文字になってしまえばそれが残り、規範となる。「話し言葉」によって変化した言葉を書いても、それは言葉を知らない人が間違ったことを書いている、と受け取られるのです。 今でもそういうことはよくありますね。 文字、文書を担う為政者、知識階級は何事も先例に習うのが好きですから、文章はなかなか変わりません。 明治時代までは、それで別に困らなかったわけですよね。「正しい文章」を持っているのは一部の人間だけでよかったのですから。江戸の町の識字率は驚くほど高くて、ベストセラーも多く生まれたわけですが、そんなものは下々のくだらない娯楽に過ぎない、正しい言葉ではなくて構わない。だから喋っているそのままに近い言葉が書かれていたりする。そういうのは内容がけしからんからと取り締まっても、言葉遣いが乱れているからという理由で糾弾したりはしない。 国学者は仮名遣いがどうの、ということを言っていたようですが。 さて、ではなぜ、明治に「言文一致」が大運動になったのか。 これは時代の要求、と言ってしまえばそれまでですが、文学者の、より人々に訴えかける表現の形を作り上げるための運動である一方、「国策」とも一致したのではないでしょうか。日本を欧米並の「一流国」にしなければならない。富国強兵です。人民に実学を習わしめて、国のために役立つ人材を多く排出しなければならない。ようするに「下々は勝手にやっておれ、税だけ収めろ」だったのが「 教育して人材として育てよう」ということになった、と。 となったときに「正式な文章語」が一部の知識人にしか通用しないような言葉では困ります。内容より、文章の方を理解するのに時間のかかるような教科書を使っている余裕はない。平易な言葉を用いなければならない。そのためには日常人々が話している言葉に文章語を近づけるのがよかろう。そういうもくろみがあったのではないでしょうか。 さて、「明治期(に限定します)の言文一致の趣旨とは何か」に対する私の見解は、「知識階級でない庶民にも理解できる、平易な文章の基準を作り上げること」です。「漢語を撤廃」することや「助動詞、助詞を撤廃すること」は趣旨ではなく、方法の一部に過ぎません。目的と手段を取り違えると混乱します。そういうものを撤廃すると日本語として機能しなくなるような気すらする。 前島密と言う人は江戸末期の慶安2年、徳川慶喜に「漢字御廃止の儀」という建白書を提出したそうですが、……。 「人々が喋っているような文章を」作ろうと思ったら、結果として「助詞を抜」いたり「聞いただけでは意味が分からない漢語」を使わなくなったりすることはあるでしょうが、それは試行の末見つけだされた方法にすぎません。 二葉亭四迷も「日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であった。」と書いていますが、これは漢語を撤廃するという意味ではなく、「國民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であったらうが、今は日本語だ、これはいゝ。しかし擧止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗禮を受けてゐないから、これはいけない。磊落といふ語も、さっぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が轉がってゐるといふ意味ならば日本語ではない。」と漢語を分けています。広く使われ、認知されている言葉なら使う、と言うことです。さらに、自分の生理的感覚・言語感覚になじまない言葉は使わないと言うことだと思います。 鴎外先生になってくると、やはりエリートですので、おなじようなことを言っていても、あんまり庶民の言葉が入り込んで、自分が正しいと思っている言葉が崩れてくるのは感覚としてイヤなようです。契沖の仮名遣いを「正仮名遣い」として、あとは徐々に発音にそぐった仮名遣いを許容すればいい、と言うようなことを言っています。一見明解ですがよくよく読むとハギレが悪い。私が読んだのは「假名遣意見」なのですが、言文一致についてもそう言うスタンスだったのではないでしょうか。鴎外先生、「舞姫」を「雅文体」で書いているんですよね……。 で、最初に戻って「現代は言文一致しているのか」の話。確かに明治時代の運動が目指した、そのような文章語はいったんは作り上げられた。現代の私たちは漢文なんか読めなくても暮らしていけるからです。 しかし言葉は刻々と変わるし、文章としても戦後GHQの指導で漢字を減したりなんだり……。国語審議会のやってることにも議論百出。 私の恩師の言葉ですが「文章としての現代口語はまだ完成していません」ということだそうです。 最後に余談ですが、私の言う「話し言葉と書き言葉の曖昧な境界」は、互いにフィードバックして溶け合っている、ということです。 エッセイで「」でくくられたセリフがあるのは臨場感や、文章にアクセントをつけて読者を引きつけるためためのテクニックです。 「その時彼が、その交通事故を目撃したと言った。」(間接話法) というのと、 「その時彼が『僕はその交通事故を目撃したんだ』と言った。」 (直接話法で書かれているが、話の内容は文章語で書かれている) というのと 「その時彼が『僕、その事故、見た』と言った。」(直接話法で書かれていて、話の内容も、より話したそのままの言葉に近い書かれ方) では感じが違うでしょう?推理小説みたいな例文ですが。 この使い分けはその著者の文体とか、こだわりがどこにあるかとか、、その著者の表現力がどれだけ豊かか、そのエッセイの主題は何か、それはどの程度重要なことなのか、……というようなことによって変わってくる類のものだと思うんですが、どうでしょう?

s-word
質問者

お礼

>随分長くなりますが、辛抱してくださいね。 いえいえ、大変興味深かったので、自分でよく考えてうなずきながら、じっくりと読まさせていただきました。tron-hn3さんは歴史にお強いみたいで、明治期の社会状況なども大変参考になりました。 >私とs-wordさんでは「話し言葉」「書き言葉」に対する認識が違うようだ、ということに思い当たりました。 そうですね、わたしもそこがネックになっていました。今回tron-hn3さんのご意見を伺って自分の認識が間違っていたと思いました。口で言う言葉か、紙の上に印刷されてある言葉かで「話し言葉」と「書き言葉」を分類するのは表面的な面しか見えていなかったと思いました。tron-hn3さんの仰る文章語という概念をご説明していただいたおかげで「書き言葉」の本質が見えたような気がします。特に文字として「残る」から「規範」となるということはなるほど、と思いました。 二葉亭四迷の主張は聞いたことがなかったのですが、「漢語」を必ずしも撤廃するというわけではなく自然な日本語に近づけるという趣旨の内容だと聞いて、言文一致の目的が分かりました。 エッセイのカッコもよく考えれば単にレトリックのひとつですね。純粋な話し言葉ではないですね。少し混乱していたようです。 何度もレスしていただいて本当にどうもありがとうございました。おかげさまで悩みが解決しました。今後も国語審議会の動向には要注目ですね(^^)

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