• 締切済み

妖精について

一部の人々は古代の英国人のピグミーの一種であるというようなかんがえがあるようなのですが、これについて英文学的観点からはどのように考えられているのでしょうか? そもそも妖精というものは英文学上どうようにかんがえられているのですか?そして上記のような意見に対して英文学的観点からはどのように考えられているのでしょうか?

みんなの回答

noname#126060
noname#126060
回答No.1

妖精を調べておられるなら既にご承知と思いますが、「妖精」はアイルランド伝説、ケルト神話、ドルイド教を元にする伝承です。 アーサー王伝説からして魔女モルガン・ルフェはキリスト教の隆盛に対抗するドルイド教の女司祭で妖精クー・フーリンの師匠を務めたといいますし、シェークピア「真夏の夜の夢」の妖精女王ティターニアの「テイタン」という名称自体が北欧巨人族の伝承である事を示しています。 つまり、妖精伝承は英国に置いてはキリスト教が根付く前の土壌として民間信仰の基礎を成しているのです。 また、このように妖精と言っても巨人族も含んでおり、ドワーフ、ゴブリンなどのような小人さんばかりではありませんから、「=古代人の小人」という説で全体を語る事はできません。 文学に与えている影響をお調べになるなら、ケルト神話やドルイド教に関する書籍から入られると良いかと思います。 http://island.site.ne.jp/fairy/ http://www.pluto.dti.ne.jp/~merlin/

参考URL:
http://island.site.ne.jp/fairy/

関連するQ&A

  • 英作文です。

    「(日本は、古来中国の文化に負うところが大きかった。昔の日本人は中国の思想家や文学者を師と仰いだ。)それは英国人やフランス人が、古代ギリシャやローマの文化を尊重したのに似ていた。」     the British or French people respected cultures of ancient Greek or Rome.  一番最後の部分だけですが、どのように書けばよろしいでしょうか。とりあえず、上のような断片的な英語は、自分でも書くことができました。おそらく、英作文なのでいろいろな書き方があると思います。いろいろ教えていただけると助かります。

  • 古代の2倍年歴で、1年とは何を意味していたのでし

    古代日本では2倍年歴が使われていた、という説があります。当時、1年とは、現代の我々の1年でなく、半年、ということですね。 ここでは、この説が正しい、ということを仮定して、疑問点を質問します。(この説の正否を問いてはいません。) 我々は、簡単にいえば、春夏秋冬という気候が1巡する期間を、1年と考えています。(他の考えを採用している地域も一部あります) 当時の人々にとって、1年というのは何を意味していたのでしょうか?

  • 文“学”に意味はあるの?

    文学を学ぶ学生です。 自分の中で文学に関して少し思ったことがあるので質問させてください。 それは文学に意味はあるのか、ということです。 今は夏目漱石の「夢十夜」を心理学の観点から見て解明してみるということを授業でしています。 「この部分は漱石の性的な欲望の象徴になっている」とか 「ここは絶望をあらわしているのだ」とか そのようなことを探していく作業をしているのですが、 自分にはどうもただのこじつけにしか思えません。 そう思って教授に、 「本当に漱石はこのようなことを考えてこれを書いたのですか?」 と聞くと、答えは 「それは重要なことではない。大切なのは視点を変えることによって、文章がどのように変わって読めるかなのだ」 のようなことを言われました。 文学に価値がないとは言いません。 それが書かれた時代の価値観や風俗を調べるための歴史的な価値があると思いますし、 古人の思想や哲学を伝える役目を持っているとも思います。 しかし、すべて文に隠された意味がある的な読み方をすると、偶然できた文章の表現にまで重大な意図があるかのような読み方になってしまい、 作者の意図するところのものと大きくはずれてしまっているような気がするのです。 むしろ文学は文“学”とすることで、そのことを一種のステータスに置き換えている節さえあるような気がするのです。 よく表現できませんが、意味のない文にまで強引に意味付けをして祭り上げているような・・・。 このような読み方は本当に学問といえるのでしょうか?何か意味があるのでしょうか? 個人的な考えでかまいませんので教えてくださるとうれしいです。

  • T.S.エリオットに詳しい方、助けてください。

    T.S.エリオットに詳しい方、助けてください。 英文学を勉強しているのですが、哲学っぽくて内容が難しくノイローゼになりそうです。以下について誰か教えてください。わかるようにポイントだけでもお願いします。 『一族再会』について、登場人物の道徳観を中心に論述せよ。 『カクテル・パーティー』について、幸福とは何かを作者の観点から推測しながら論述せよ。 『長老政治家』について、人生の終着点を目前にした人生の生き方を作者の立場から考えよ。

  • 文学は高尚なもの?

    現代は純文学・大衆文学・エンタメ文学。色々な「文学」がありますが、「文学とは高尚なもの」という 意見を耳にすることがあります。 個人的には、全ての文学作品に当てはまるとは言えないもののその意見に賛成です。 (最近は売れる事が第一の商業誌を多く見るので) しかし。ネットや知り合いにそのような話をすると鼻で笑われてしまうことが多々あります。 よく言われるのが ・そもそもそんな考え方は勘違い ・高尚とは何なのか(どういったものを指すのか) ・偉そうな言い方をして他の趣味を見下しているだけ ・文学が具体的に何の役に立つのか 私自身、文学もマンガやライトノベルもよく読みますが 娯楽の域なので、上記に対して不服はあっても何も言い返せません。 ですが、趣味として優劣があるという意味ではなく、何百年も前から研鑽されてきた芸術として 高尚なものと評価して良いのでは?と思います。 実際、文学とは高尚なものでしょうか?単なる「娯楽」でしょうか?

  • 13植民地について

    私の勝手な妄想の範囲ですが、もし英国がもう少しヴァージニア13植民地に寛容であったとすれば合衆国は独立せず、そうなれば当然現在の超大国アメリカの存在はなく、カナダや豪州並みの英国自治領として存続し英連邦構成国の一員として緩やかな独立の道を歩んだのではないでしょうか。 また、恐らくカナダの存在もなく広大な“英領北米連邦”の一部を構成していたと想像できます。英国人はアメリカ人ほど旺盛なフロンティア精神がないので、果たして西海岸に到達出来たか怪しさを感じます。 そうなると英国の主要植民地はインドではなく北米となり、その経営に忙殺されるためインド支配は宿敵フランスに、オセアニア地方はオランダの勢力圏に入るのではないかと思います。 歴史のIFを予想することは難しいですが、皆さんの意見をお聞かせ下されば幸いです。

  • 伝道の具体的方法

    そもそも自分の宗教を人々に布教したいと思った宗教者は、どのような方法をとったのでしょうか? インドでいま仏教信者が増えているようですが、私が目撃したのは日本山妙法寺の僧侶は毎日ウチワ太鼓を叩いてスラム街を回っていました。 キリストやマホメット、ブッダ、親鸞や日蓮、毎日街に出て人々に教えを喋って伝えたということでしょうか? ものみの塔もモルモン教も各家の戸を叩いて布教に努めていますが、やはり人々に直接喋って行くというのが基本的な布教のやり方のように見えますが、個人的にユニークな布教方法を取った宗教者はいるのでしょうか? 今はネットの時代ですが、ネットで発信すると自分と同じ考えを持った一部の人しか共感してくれないように見えます。より多くの人に自分の考えに共感してもらいたい場合、やはり昔の伝道者が取ったような地道に直接人々に喋って行くという方法が良いように思うのですが・・・先ずは昔の伝道者は具体的にどのようなことをして広めて行ったのかを知りたいので教えて下さい。

  • 自分勝手の定義とは何ですか

    皆様のご意見をお聞かせください。 自分勝手な行動とはどのようなものを指すのでしょうか。 「相手にとってデメリットなことで、自分にとってメリットのあることを行うこと」というのが一般的な答えだと思います。 しかし、例えば人と人は意思疎通を図ろうとすると必ず摩擦が生じるもので、その時被る傷に耐えるのがつらい人間も少なからずいると思います。彼らにとって必要以上に干渉しないことは、飾り立てているようにも聞こえますが「優しさ」や「思いやり」の一種だと信じます。一方で摩擦言い換えると触れ合いこそが優しいことだと信じている人々もいます。 答えはないのかもしれません。ですが他の考えを知りたいと思い質問させていただきました。よろしくお願いします。

  • ギデンズ「宗教の退去は信仰の消滅と同義ではない」

    はじめまして。私の質問に興味をお持ち頂き、ありがとうございます。 質問タイトルに書いたように、アンソニー・ギデンズ(イギリスの社会学者)は彼の著書『近代とはいかなる時代か?』の中で、「宗教の退去は信仰の消滅と同義ではない」と指摘しています。 宗教に代わって「貨幣」や「(無知な大衆と対比される)専門家」が人々の信仰の対象になっていると彼は言います。 私はギデンズがこう論じているのを読み、幸せをお金で実現できると考えたり専門家に間違いが無いと考えるのは、たしかに一種の信仰かもしれないなと思いました。 そして一部の(大部分の?)宗教団体がそうしているように、一部の(大部分の?)企業や専門家も、自分(たち)の必要性やカリスマ性をなんとかして増やそうと目論みながら動いているわけです。その結果、人々の「貨幣」「専門家」への信仰は強化されてゆくのです。 ギデンズの指摘について、みなさんは何を思いましたか? 面白い意見をお待ちしております!

  • 常識こそ最大の偏見ではないか?

    一般常識、社会常識とあります。 常識の常とは常にあるべきもの。 常識の識とは知識の意味もありますが、 用いられ方から、識別という意味が適切でしょうか。 さて、この常識とは結局は主観的なものです。 ところが、この主観的なものを客観的なものと、 とらえることが、そもそもの誤りではないだうか? 「常識はずれよねー」 という言葉は、日本の迎合的な習慣を 利用した攻撃の一種である。 これが日本の歴史に深く横たわる偏見 文化そのものではなかろうか? 心理学的な観点から「常識」の あなたの意見をお寄せ下さい。