解決済みの質問

戦国大名

戦国大名と呼ばれる人たちは上洛したら後、政治を考えていたのでしょうか。つまりどんな政治体制を考えていたのでしょうか。どんな国を理想と考えていたと思いますか。百姓たちのつらい生活を改善したいと考えていたと、おもいますか?

投稿日時 - 2005-05-13 23:24:50

QNo.1385916

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

あまり詳しくはありませんが、大名によって考え方が違っていたのは確かです。簡単に有名な大名の政治体制を述べてみます。

織田信長

言わずと知れた風雲児。彼はおそらく海外との貿易を盛んにして重商主義政策を採ろうとしていたらしいです。その一方で明(中国)の支配も視野に考えていたみたいです。信長が幕府を開いたかどうかはわかりません。彼は平家らしいので開けたかどうか分かりませんが、幕府とかの規定概念にとらわれず新しい信長を中心とした政治体制を築いたかもしれません。いずれにしろ今までにない日本が誕生していたと思われます。

豊臣秀吉と徳川家康

あえて書かなくても史実どうりの考え方です。

武田信玄

足利幕府を支えたか、信玄を将軍とした武田幕府を築いて、室町時代とあまり大差ない政治体制を築いたでしょう。

上杉謙信

ほぼ、間違いなく足利幕府を支え、自らが政治を行う事はあまりないと思います。謙信の生きている間は幕府も安泰ですが、死んだ後は結局また、乱世に逆戻りは必定。

毛利輝元と島津義弘

幕府を築き、江戸時代のようなものになると思います。両家ともに信長ほど斬新なアイディアや秀吉ほど派手ではありませんが、かなり賢く統制のとれた体制を築くと思います。その証拠が幕末まで両藩とも存続していた事や明治時代の功労者の多くもまた両藩出身者なので、堅実路線で政治をしていた証拠でしょう。

おそらくすべての大名に共通していると思いますが、百姓のつらい生活を改善してやろうとはあまり思わなかったと思います。ただ、政治を安泰にするためにはなるべく不満を与えない方がいいので、そういう意味での生活改善を考慮したと思います。

長くなりましたがあくまで参考程度に

投稿日時 - 2005-05-14 00:07:16

ANo.1

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ベストアンサー以外の回答(7件中 1~5件目)

ANo.8

人や時代によってやはり違うと思います。
上洛、とは違いますが、戦国初期の戦国大名北条早雲は室町幕府の職を辞して禅寺に入り、その後駿河に侵入して戦国大名になったのです。彼は、民衆のために減税をしたりと苦心しています。やはり、天下太平を願っていたのではないでしょうか。(この間「その時歴史が動いた」でも取り上げられていました)
ただ、戦国末期になると少し変化が生まれているかもしれませんね。生まれも育ちも「戦国大名」という人が出てきますし、織豊政権の時代はだいぶ下克上がなくなってきましたから、大きい大名は大きいし、小さい大名は小さいまま。純粋に「国を治めてみたい」とか「領地を増やしたい」とか、「民衆のために…」という人は少なくなってきた気がします。
でも同時に戦国時代も百年も経って戦にもだいぶ疲れていましたから、「そろそろ平和にしたい…」と思っていたのも事実でしょうね。

投稿日時 - 2005-05-27 21:47:53

戦国大名は現在の暴力団と同じと考えてよいかと思います。
縄張りがあって、そこの飲食店などに植木やお絞りを契約して貰って「ショバ代」とし、他のごろつきが来たら組員を派遣してたたき出す。
小さな組ではやられてしまうので連合を組んだり、子分になって万一の時には応援して貰う変わりに上納金を支払う。
大組織の親分になると勢力拡大のため、近隣のしまにちょっかいを出して併呑を企てるが、事が大きくなると手打ちをして収める。
かたぎの人には「困ったことがあったら相談に乗る」といいつつ、ちゃっかり上前をはねて損をしないようにし、任侠とかいって体裁を整える。
大名もこれと同じで、自分の領国を広げたいとは考えても、天下国家を考えることはなく、領民は暴力団とかたぎの関係で、いないと飯の種にならないから保護するけど、それ以上は考えてない、余裕があれば「名君」といわれたいので、領内経営にも配慮する、という関係でしょうか。
天下を見据えたのは、恐らく織田信長と伊達正宗のみで、秀吉は信長の路線を継承しただけで、独自の物はなく、家康は出来たものを奪っただけ。
武田や上杉は今で言う、反抗勢力ですし、毛利はがちがちの保守派。
織田や伊達が天下を握れば、次の段階として、世界に目を向け、海洋貿易国になったと思います。
中国人が華僑と呼ばれるように、倭僑が世界の港に進出して、東南アジア諸国には日本人町が出来、自由闊達な雰囲気で貿易が出来たでしょう。

投稿日時 - 2005-05-15 08:53:17

ANo.6

私個人の考えですと現在の政治家と変わらないように思います。政治がしたいと思うのでしたら市会議員や県会議員で十分やることは多いはずです。しかし、そうした中でもわざわざ国会議員になろうとする方々がいらっしゃいます。その国会議員の中においてもそのトップ総理大臣にまでなろうとしているどうなんだろうねえっていう人達もいます。このことを考えてもわかることでしょう。まあなかには本気で庶民の生活を改善したいという方もいらっしゃったかもしれませんがね。やはり都は文化の中心ですから物流などで他国より優位に事を運べるでしょう。たとえば道路は都を中心に整備されています。また、どんなに他勢力の力が絶大となった歴史においても天皇家が廃絶になったことがない事実からもやはり朝廷の権威はある意味絶大でしょう。また今でも大学受験などでは特に目立つ理由がなくとも首都圏の大学が人気ですし企業の本社が東京になることもその理由として挙げられるのでは!!

投稿日時 - 2005-05-14 23:25:08

ANo.5

 私は、戦国大名たちの全国統一の意識については、下の回答者さん達とほぼ似たように想像していますが。
 ただ、少し疑問に思っているのは、戦国時代の民衆の生活が本当に疲弊していたか?です。歴史の専門家では無いので、あくまで無責任な推測ですが。
まず、良く歴史ドラマやマンガに有るように、戦で民衆の家や田畑が破壊される件です。確かに、戦に備えて城下を焼き払ったり、敵を弱らせるために城下の田畑を焼き払う作戦は有ったようですが。ただ、守備側はもちろん、攻める側も戦に勝った後はその土地は自国領になるわけですから、そうそうむやみに破壊はしないと思います。
 意図的に破壊活動をしなければ、当時の戦闘だと弓矢や石つぶてと兵士どうしの接近戦が散発的に行われる程度ですから、非戦闘員や土地家屋への被害は近代戦とは比較にならない軽微なものではないでしょうか?
 あと、戦国時代というと毎日のように戦争が繰り返されているイメージですが、今も昔も戦争にかかる費用は巨大なもので、そうそうおいそれと戦争ばかり繰り返すわけにはいきません。また、戦国時代末期の信長軍以前は大半の兵士が農業と兼業でしたから、農繁期は暗黙の停戦期間でしたし。
 次に、江戸幕府のように戦争のない時代になると、下手に土着勢力に経済的な蓄積をさせると反乱の原因となるので、まさに「活かさず殺さず」の方針で民衆の冨を吸い上げる必要が有ったのに対し、戦国時代は生き残る為には富国強兵策が大事ということを多くの有力大名は認識しており、当時の冨の基本は農業ですから、おそらくかなり積極的に農業振興策をとっていたと思います。
 以上のことから、私は世間で想像されているほどには、後の江戸時代や前の足利時代に比べて、戦国時代の百姓が辛い生活をしてはいなかったのではないかと想像しています。従って、一般民衆が生活苦を理由に全国統一を切望していたとは思えないのですが。しかし、何時の世にもヒーロー願望は有りますから、信長や秀吉が全国統一を行う過程では拍手喝采をしていたかも知れません。

投稿日時 - 2005-05-14 18:49:03

ANo.4

戦国大名達の考えていたのはやはり武力による領国の安泰が第一でしょう。
それを拡大して版図の拡大を考えたのは織田信長を嚆矢とすると思います。
彼には全国統一の野望がありましたが政治体制はやはり武士階級優先であったと思われます。

その証拠に庶民の団結は妨げになると信仰の徒は皆殺しを躊躇いませんでした。
彼の跡を継いだ豊臣秀吉、徳川家康も、武士政権を確立し百姓には太閤検地、封建制で臨み年貢の納税者という観点でしか見ませんでした。
家康などは「百姓は活かさず、殺さぬ程に」と言っている位です。

上洛を一つの節目と考えたのは当時の政治の中心であり官位の任免を支配している皇室があったので天下に号令するには役にたつという思想があったのでしょう。 
しかしそれとても地の利がなければダメでしたが。

投稿日時 - 2005-05-14 13:17:12

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