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キリスト様の死因は

キリスト様は復活したので死因はないという論議は別として、あの当時の処刑つまり「はりつけ」にされた人の死因はなんなんでしょうか? 手と足を釘で打ち付けられて、はりつけられて飲まず食わず炎天下に何日もさらされた末のもがき苦しみながらの衰弱死なのでしょうか。 キリスト様の処刑の絵画をみますと脇腹に刺し傷があるようで血が流れていますが、槍で刺されての短時間での失血死なのでしょうか。 長年の疑問でまじめな気持ちからの質問ですが、お気を悪くされたらお許し下さい。

みんなの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.8

No.4さんの説明通りの窒息させてジワジワ殺していくというやり方でローマ統治時代だったので、ローマ人の手によりローマ方式の処刑だったそうです。 尚、歴史学者に言わせると、あの当時の処刑は一本柱で、十字では無かったのに・・・という話も聞いたことがあります。 もし十字でなかった場合、十字架って一体・・・とキリスト教のシンボル自体が危うくなってしまいます。 するとそもそもどうして十字架のイメージをキリスト教は考え出したのかって事になり、一体だれがそんなデマを流してイエスは十字に磔になったと言い出したのかってなり、イエスの教えとキリスト教の教えは違うんじゃないか 一体誰の思想がキリスト教の母体になったんだろう ってミステリアスさをさらに深めます。 イエス教ではなくキリスト教という名前なので、イエスの教えとは違ってもいいってなれば、まあとやかく言うことではないのですが。 とにかく多くの人間が協議の末考え出したちょっとストイックな思想だと思います。 イエスの思想とキリスト教の思想は違うんじゃないかって思うので、処刑にいたるまでの話しや処刑方式の信憑性を考えると、後から創られた話でイエスの死は利用されたのではないかと思えてきます。 そう考えると処刑方式がその当時はそうではなかったという話しに信憑性が増します。

korea2go
質問者

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どうもありがとうございました。 今朝法王さまが亡くなったとのことで 静かにお祈りしたいとおもいます。

  • todoroki
  • ベストアンサー率48% (2274/4691)
回答No.7

 聖書の記述をお読みになりたいのでしたら 先ほどの回答で参考URLで挙げたパッションのサイトが役に立つと思います。 名画で綴る最後の12時間ということで ユダの裏切り から 十字架から降ろされる まで 聖書の記述も同時に記載されていて、理解しやすくなっています。 パッション鑑賞後、パンフレットを読みましたが キリスト教者の立場からの解説もありましたので信頼度は高いと思います。

korea2go
質問者

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  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.6

聖書にある関連記述は比較的短いので、自分でお読みになってはいかがかと思い、以下に、聖書が読める参考URL(ところどころ文字化けするのですが、他のサイトがみつからないのでこのサイトを参照しました)、それと関連する箇所を記しました。 聖書にある主な関連記述としては以下の4箇所があると思います。 1、ヨハネによる福音書 19章の28節から37節 2、ルカによる福音書 23章の44節から47節 3、マルコによる福音書 15章の33節から41節 4、マタイによる福音書 27章の45節から57節 (それぞれの記述は1、2段落くらいの長さです。) 以下の参考URLのサイトにいくと、「~による福音書」というのは、画面左下のほうにリンクがみつかるかと思うので、それをクリックし、さらにリンク先のページ上部にある数字「1 2 3 ...」から目的の「章番号」を探しクリックします(目的の番号が画面上部にでていない場合は、とりあえず一番大きい数字をクリックして、リンク先のページでさらに目的の「章番号」を探してみてください)。 「節」というのは目的の章のページで、画面左はじにでている赤い番号のことです。 --- いろいろな回答が寄せられると思うのですが、聖書にある記述、聖書以外の書物に書いてある記述、あるいは「私はこう思う」という意見はそれぞれ区別して考えるべきではないかと思います。

参考URL:
http://www.kidok.info/BIBLE/cgi/biblevlist.php?VR=6&FR=H
korea2go
質問者

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  • todoroki
  • ベストアンサー率48% (2274/4691)
回答No.5

 私が読んだ本では、磔というのは単純な死刑ではなく あの無理な体勢を長時間しいられて体が衰弱して死んでいくのだとありました。 つまり、すぐには死ねなくて長く苦しむ残酷な刑罰です。 イエスはそれまでにむごい扱いを受け、ひどく衰弱していたので、 割と短時間で死に至ったようですが(それでも3時間以上苦しみました) 隣で十字架にかかっていた二人の囚人はそんなに簡単には死ねなかったことでしょう。  わき腹を槍で突くのは、本当に死んだかどうか確認するためです。 一番手っ取り早くて確実な方法ですね。  最後の12時間をあまりにもリアルに描いたパッションの公式サイトで見つけましたが その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、 ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、 足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。 (ヨハネによる福音書 19章 34節)  槍によって死んだのではないことは明らかですね。

参考URL:
http://www.herald.co.jp/official/passion/special/art/art13.shtml
korea2go
質問者

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どうもご教示ありがとうございます。 パッションの絵画でつづるキリスト様の最後の様子がわかりました。 裏切りの代価の銀貨30枚というのは今の日本円でいうと、どのくらいの価値だったんでしょう?

  • imp-dsc
  • ベストアンサー率25% (57/222)
回答No.4

実は窒息死です。 磔は基本的に手足首の関節ではなく、少し体幹側に釘(?)を打ち付けて身体を固定します。そうやって体を固定する部分を限定し肺を動かす筋肉をも限定する事が可能となるのです。 すると身体を固定する筋肉と呼吸する為の筋肉が同じであるため疲労が蓄積し呼吸できない状態=窒息に近づき・・・という具合です。これには個人差はありますが長いと数時間にも及ぶそうです。 絵画等の側腹部からの刺傷は確認の為と考えられます。 余談ながら、キリストは手のひらを釘で打ち付けられた様に描かれている絵はありますがあそこに打つと骨の間に入るので体重で引きちぎられるような感じで取れてしまいます。だから少しマニアックな言い回しだと前腕部の骨と骨の間に打ち込むと良いらしいです。 手首を骨折や捻挫等して病院でX線撮影してもらう機会があればより実感できると思います。

korea2go
質問者

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回答No.3

右わき腹を、槍で突かれたんじゃなかったでしょうか...?! 左だったらスイマセン。でも、わき腹を槍で突かれて亡くなったと記憶してます。 ハッキリしない回答でスイマセン。

korea2go
質問者

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回答No.2

槍で殺したと聞きます。 槍がどこを貫いたかわかりませんが、心臓などの内臓への攻撃もありえるでしょう。 ↓殺した事について書いてます。

参考URL:
http://mitleid.cool.ne.jp/longinus.htm
korea2go
質問者

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  • asuca
  • ベストアンサー率47% (11786/24626)
回答No.1

両脇の下から槍で刺されたことによる死因です。 志望までに時間がかかったということは記述は見あたらないので失血しというより失血性ショック死かもしれません

korea2go
質問者

お礼

ありがとうございました。 あまり苦しまずに死んだということですね。 でも手と足に太い釘が刺さって体重を4点で支えて十字架に貼り付けられるというのは想像を絶する痛さでしょうね。足を重ねて1本の釘で、となると足にかかる痛さは倍増でしょうね。

korea2go
質問者

補足

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     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題についてあらためて問います。何かを論破するためだけのものではないかとの批判を受けてのことでもあります。それについては この命題は そのとおり論理を問題にしているという答えなのですが ほかの見方による批判についても 受けつけたいと思いました。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  念のために言えばこれは 哲学です。よろしくどうぞ。    * この哲学だけでは 中国の理不尽さには対抗できないという情けなさを噛みしめつつの再掲でもあります。その中国脅威論をからませてもご投稿ください。