闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

このQ&Aのポイント
  • 闇の中にいた人が光を見るためには、神が人間となり、人間として闇の中に入ることが必要です。
  • 人間としての経験によって、光を見ることができますが、神の存在は人間の限定した能力や知識では到底理解できません。
  • 人間イエスかつ神キリストの物語は、人間と神の関係や信仰を普遍的なものとして示すために存在しています。
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闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

 まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。    という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

質問者が選んだベストアンサー

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noname#211048
noname#211048
回答No.8

お礼とひとつ > ひとつだけ。つまり あたかも自分たちが神になろうという魂胆だけは いただけないように思われ ます。 これを 例によってぶらじゅろんぬ造語ですが アマアガリ・シンドロームと名づけます。 神様のように思えたり、私自身が恥ずかしくなって目を軽く伏せてしまうのは、ほんとうに普通の民としての生活をおくってらっしゃるような 例えばひとつひとつを慈しんでいたり曲がったことはすぐ正しておるような人です。瞳が澄んでいらして ついあたまを低くしてしまいます。 真正なひととはそういうひとだと思っております。 これだけお返事入れておきます。わたしも休みます、ゆっくり休んでください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 真正なひととはそういうひとだと思っております。  ☆ という理論に立つとき そのひとは つねに相手に合わせて(相手の欲するところに対してこたえるために話を合わせて) ときには破廉恥なことさえをも 言ったりやったりすることがある。  右よりも右 左よりも左になって言ったり振る舞ったりすることがあり得る。のではないかと思っています。  と言いますか けっきょく暴れん坊タイプとそうではない理論のままのタイプと ふたつあるかも知れません。とは思いました。  いま――《教えて! goo 》で一問とともに――ここではこの《闇・光》の一問のみをもうけています。  受け身のかたちでそのまま開いていて 休息をとるかたちにしています。  でも お互い一たんおつかれさまでしたと行きましょうか。ではでは。

bragelonne
質問者

補足

 ほかのいろんな質問を見ていると 何だか――勝手ですが――お寒いので 思い切ってさらになお質問を挙げてみました。  方針転換というのでもなく。

その他の回答 (7)

noname#211048
noname#211048
回答No.7

・・・といいましても 学問や芸術や信仰心によって得られるecstasy は快感で一線こえた感じもあるが、結婚して家族をもって線香花火をすることを否定することはできないよね。・・・ですかね。 連続投稿ごめんなさい。お礼文や過去質問主文でかかれるお二階についてです。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。つまり 雲の上をあるくような・アマアガリ的な快感は 大きな花火や仕掛け花火を打ち上げているような華々しくも大いなるまぼろしを追い求めている側面がある。  線香花火の地道さを知らなくなってしまいがちだ。・・・ですかね。  ご回答をありがとうございます。

noname#211048
noname#211048
回答No.6

こんばんは。頭の動かし方をかえての再投稿です。 理解を確かめるために質問主文をなぞるかたちにしました。 ある知性が 心の高き時に『純粋存在なるまぼろし』をみた。『孤高』を体験した。 この幻にとりついた人がおった。その孤高に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその『いと高きもの』に近づいたとき、彼は喜んだが、まわりの人を見回しても 関心をもつような者はおらんかった。----誰も高きものを求めてはおらず、たとえば、日々のささやかな生活で十分であった。 しかし、『いと高きもの』の彼は諦めなかった。この快感の得られる我の理想はみなの理想になり得るものである。この神聖さをこの世にもたらすべきだと考えた。この世を常世の国-----永久にかわらない神域にすべきだと考えた。 その上に この世(一階)に対する理想の世(二階)として この世と理想の世とが分け隔てられることになった。この世自体が理想の世である・との認識が否定される始末になった。 抜け落ちてしまったところもあるでしょうが、混乱しないように纏めてみました。 >女性のかたでしょうか。 女です、okwave登録時にまちがえて男性ボタンをおしました。 ただ、調べてみると出雲の祭り?では男の子に女装をさせるようで、アマテラスさん男説がちらっと目に写りました。確認はしていないです。 〉http://okwave.jp/qa/q9018992/a25087906.htmlhttp://okwave.jp/qa/q9019593/a25089312.html

bragelonne
質問者

お礼

 すてゅ2580さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  女性の方でしたか。  つまり わたしは化けの皮が剥がれると べらんめえ調になりますので そのときには 乱暴になってしまったかと反省します。  アマテラスは スサノヲが自分(=アマテラス)の治める国つまりタカマノハラをおとづれて来るとき 自分の国を奪おうとして来るのだろうとうたがって すでに鎧か何かをつけてつまりは武装したそうですよ。つまり その話からは 女性であると推測されます。  あっ つまり 髪を男性のかたちに変えたというところからです。  アマテラス種族と言いますか その人びとにも自分たちの望みや悲願があるようです。  伊達に国家の運営に向けて努力したわけではないようです。いのちを賭けてやっているのかも知れません。  理想もあるのでしょうね。  ひとつだけ。つまり あたかも自分たちが神になろうという魂胆だけは いただけないように思われます。  これを 例によってぶらじゅろんぬ造語ですが アマアガリ・シンドロームと名づけます。      ちょっとわたくしもマンネリに落ち入ったかと感じています。  休みを取って またがんばろうと思います。  今回もお茶を濁しました。あしからず。    

回答No.5

bragelonneさん おはようございます。 昨日の回答は、暗闇(悪)も許されると、受け取れかねないので、bragelonneさんが良く質問する「自由意志」という見地から、アウグスティヌスの著作、「自由意志」から要点を抜粋して回答します。 自由意志1巻8章・9章にアウグスティヌスは 「人間をして動物にまさるものとなすのは、精神(メンス)と霊(スピリトゥス)を持っていることとしています。 そして、動物の生存行為はすべて、身体の快を求め苦痛を避けることで、最も低い性質としています。さらに、人間は賞賛・名誉・富への支配欲があり、これをは動物にはないが、「欲情」としています。 そして、「欲情」は「理性」に服さない欲求であり、アウグスティヌスは「悲惨」な者とする。 魂がもつこういう動きを「理性」が支配する時、人間は秩序のもとにある、として、「知者」とは、欲情が精神の支配に服して抑えられている人と定義してます。 そして、11章に、精神を欲情の仲間にさせるものは、自らの「意志」、あるいは、自由な決定以外のものではないとしています。 そして13章で、「意志」は「善き意志」であるべきとして、賞賛に価する「幸福な生」を受けて一生を過ごすかはどうかは、「意志」によってであり、また恥ずべき「悲惨な生」を受けて一生を過ごすかどうかも「意志」であるとしています。 つまり「悪」を行う人は、悲惨で、愚かな人であり、人によれば人間でなく動物的、快楽のみを追い求める。 最後にこの曲を添付します https://www.youtube.com/watch?v=L4LncgLFawQ では、お礼においての考察をおまちしています。

bragelonne
質問者

お礼

 おはよう ワトソンくん。ぢゃなかった。イクナートンさん。ご回答をありがとうございます。  ★ 昨日の回答は、暗闇(悪)も許されると、受け取れかねない  ☆ そのとおりです。  ★ そして、11章に、精神を欲情の仲間にさせるものは、自らの「意志」、あるいは、自由な決定以外のものではないとしています。  ☆ そうですよ。おのれの心つまり意志にさからう自由度をもその意志は持つ。  それは ウソ・イツハリから始まっている。  ウソによって 存在ないし人格ないし要するに自由意志なる善に傷がつく。つまり 善の欠けが生じる。人間は自分でこの善の欠け〔としての ひと言で言えば 悪〕を欲した。  この主題が 出発点であり 最後までつらぬかれるやはりテーマですね。  だから エデンの園でのエワとアダムによる《背き・裏切り》からじんるいの物語が始まっている。    それは いいのですが あとの部分としての要約は―― 一たん褒めておいてそのあと貶すという手法を採らないのを旨としている人間ですが―― あまりにも優等生っぽい。無難なところをまとめておいた。という印象しか残らない。  わるいとは言いませんが そういう感じですね。    つまり 《自由意志》の主題というのは もし信仰という見方の中におけば さらに重大な主題が伴なわれていますよ。  《自由意志と恩恵》です。  人間どうしのあいだでは 互いにその意志行為は 自由です。それぞれの意志が選択した自由行為どうしのぶつかり合いになります。これが 社会です。  ところが 人間と神とのあいだでは じつは・じつに 自由意志は――つとめて人間の側に立って擁護しようとしたのだけれど――神の意志に勝てなかったとアウグスティヌスは語っています。  極端に言えば 人間の自由意志は 神の意志に《隷属》するよりほかにない。のではないかと。  この主題は 《シンプリキアヌスへ》という小論でアウグスティヌスは 論じています。(三位一体論そのほかでも扱っていますが この小論がくわしいです)。  人間は 自由意志の自由をすべて神の意志にささげなければならないとさとる地点にまで来る。(いくらよき理念にもとづくものであっても それを含む一切のハカラヒの無きことを 親鸞は 目指した)。  そのように 〔それでも 初めは〕自分の意志として ふるまう。(ハカラヒを無くそうというハカラヒであるのだが)。  それが いつしか出来たときには じつはそこでハタとさらにさとって あなたは こうべを垂れ腰を折り膝まづく。そのあなたに対して その手を取り上げて起こしてくれるのは 神の意志である。と。  これが 神の恩恵である。  《めぐみ》は つまり かえって人間の自由意志をそこに来て 建てる。のだと。(ヨブの物語に似ていますね)。    ★ ♪ 愚か者よ  ☆ これは やはり《光と闇》の話に似ていますね。闇を重んじ過ぎていないかというのと同じように 愚か者であることを 顧みているのでしょうが 卑下する立ち場ともちょっと違う部分さえもが現われている。つまり すでに自慢している部分が垣間見られます。これは だめだと思う。哲学としては。  ゆったりとした曲調は なじみやすい。かな。

noname#211048
noname#211048
回答No.4

No2です。お礼欄を読んで、学問?のところは今から勉強して咀嚼します。回答ができないので一先ず置いておきます。 > アマテラスさんもすがすがし となればいいのになあ。(であってますかね。) スサノヲさんが死の国は嫌かなんかで生を目指した・生きた(アマテラスさんは怒ったけれど)すがすがし となった。 天地逆転(とかなんとか)で、スサノヲさんに代り、アマテラスさんが死の国を納める。たとえば 死の国=社会・在ではなくイメージ・を治める。社会は横の広がりならば女性のアマテラスさんの仕事にいいと思ったのですが・・・。 独り言ちっくですが、社会問題なので 考えたかったわけです。 ご教授くださいとはいいませんけども、どうなのでしょう。 無茶苦茶かな。 女性なので すこしはアマテラスさんの気持ちを理解しやすい立場なのかなあと思って投稿です。死の国は荒れ放題なのじゃないのかしら。太陽が納めたら、もとあるところにおさまるのだは。その代わり農家生まれは農家を継ぐし、大工は大工・・・ 農家から官僚にいく 自由なりなんなりはなくなんのかもしれないし 独り言ですけれども。もんもんとしてました。

bragelonne
質問者

お礼

 むつかしいなぁ 今回。まづは ご回答をありがとうございます。  こちらも独り言チックにまいります。  アマテラスお二階さんは一階に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うかたちの議論です。  なぜ大政(ムラムラのマツリにもとづく共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かると考えます。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のかたちとして平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており そういう問題をとしてもあつかうことができる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアなる光をとおして――《をとおして》――世界を捉え カミにささげものをしマツリをおこなった。  ヨセ人は この光なるイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。マチガイである。  ますます精進し いよいよ人間的となったことが 裏目に出ている。  イリ知性のスサノヲ市民らは 一般にあやまち得るスサノヲ人間語をしゃべっている。  この人間語から普遍的な要素要因を取り出し抽象的にして人びとに共通の概念をみちびき出す。この普遍語は 科学語であり 人間の振る舞いについては倫理的な人格語である。要するにあたかもあやまち得ざるアマテラス普遍語となる。  神聖にして侵すべからざるアマテラス語をしゃべる人間が出現した。  この無謬性の神話につつまれたところから マの違いが現われた。  アマテラス普遍語が 方言となった。人間そのものは あやまち得る存在でしかないから 普遍語はオモテの現象またはタテマエとなり ホンネとのあいだに二枚舌現象が起きる。ないしダブルスタンダードが けっきょくのところ誰の目にも明らかに分かるようになった。  これは 普遍語が訛っている。方言である。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか悲惨な歴史もあったにもかかわらず 総じて無難にこなして来ていた。  時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。新国立? エンブレム? また 財政的・経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員およびツクヨミ官僚の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?       ★ 女性なので すこしはアマテラスさんの気持ちを理解しやすい立場なのかなあと思って投稿です。  ☆ プロフィールを見たら 男性とありましたが 女性の方ですか?  ちょっと だらだらとした文章になってしまいました。読みづらいでしょうが 《死の国とそれをおさめること》とか わたし自身がまだあいまいなままですので 文章もそのままとしようと思います。あしからず。

回答No.3

bragelonneさん こんばんは。 「(θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。」 という部分だけ、少し掘り下げます。 bragelonne哲学の基盤でもある、アウグスティヌス神学は新プラトン主義の考えをキリスト教と融合されたので、プロティノスの一者からの光(善)が届かないところに闇(悪)はあるとして、 「善の欠如が悪。」 というのがキーワードになると思います。 つまり、聖書では、光は闇に打ち勝つと高らかに書かれてますが、プロティノスの思想では闇を肯定している。 これは、中世の神学者のスコトゥスだったか、オッカムだったか、忘れましたが、闇というものがあるからこそ、光が引立つ。言い換えれば、悪があるからこそ、善は引立つということを、画家が絵を描く際に、美しい色ばかりでなく、醜い色を混ぜるからこそ、美しさが引立つと言ってます。 この考えは、以前、a_honaさんに回答しましたが、イギリスのエドマンド・バークが「崇高と美の観念の起源についての哲学的研究(1757年)」において、「美」という「調和」「完全」に対し、「崇高」という苦痛や危険を乗り越えた後の「喜悦」を重視して、絵画において、「曖昧さ」「欠如(空虚・暗黒・孤独・沈黙)」を重視した理論を作り、この考えは大陸に渡り、カントの判断力批判の中の美の概念や19世紀のイギリスの風景画家、ターナーに多大な影響を与えています。 話は変わりますが、誰が書いた本だったか、忘れましたが、たしか「自然哲学」という本の中で、ある日本の哲学者は「暗闇」の夜の環境こそ哲学の時間であると書いてました。 ようするに、暗闇では、五感の、視覚というものが、制限され、その代わり聴覚が敏感になる。視野がせばまる暗闇においては、認識できる対象が限られるため、思考は、おのずから、自己の内面に向かい、自己と対話する、貴重な時間とのことです。 電気が煌煌とした都会において哲学をするには、ふさわしくないかも。例えば夜空を見上げても、星は数えられるほどしかなく、ピュタゴラス教団のような、星の運行から哲学するなどということは出来ない。 現在において哲学が廃れているのは、エジソンが電球を発明したことによるのではないか。 しかし、私は眠気に打ち勝ち、勉強するには、家の近くの24時間煌煌と明かりのついた、セブンイレブンの百円コーヒーは欠かせません(笑)。 現在、コーヒー2杯とホイップドーナツを買ってきて、食べながら回答してます。 夜明けと共に働き、日没と共に仕事を終える生活に憧れもしますが、都会生活が染み付いたのか、コンビニなしの生活は考えられません。 本当の月も出ておらず、電灯もない、暗闇の道を歩くのは、やはり勇気がいるかもしれません。 幽霊が出るかも。夏の怪談話は涼しげにさせられます。 では、お礼にてbargelonneさんの考察をお待ちしております。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ つまり、聖書では、光は闇に打ち勝つと高らかに書かれてますが、プロティノスの思想では闇を肯定している。  ☆ 《光のほかに闇が存在すると認めること》と《闇を肯定すること》とは違うのではないか。つまり  ★ 闇というものがあるからこそ、光が引立つ。  ☆ というほどに 闇をとうとぶのは 行き過ぎではないのでしょうか。  ▲ (パウロ:ローマ書3:5~8) ~~~~~~~~~~  5: しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。  6: 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。  7: またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。  8: それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ たしか「自然哲学」という本の中で、ある日本の哲学者は「暗闇」の夜の環境こそ哲学の時間であると書いてました。  ☆ ちょっと違うように感じます。  歴史は言わば夜から始めますが それは光を得たゆえに始めるのです。光を得ていなければ まだ始まる気遣いはないと言えます。  もっとも その夜に光を得たということはあり得ましょうが。  インスタントですが コーヒーは飲みます。いまは アイスにして。  百円コーヒーと言っても 高くつくのではないの?  このところ バークがよく出て来ます。  テレビで誰かしらが言ったし(西尾幹二でしたか) アガサ・クリスティーのミス・マープルのテレビ・ドラマ化したものでも 出て来た。(《 Murder is easy. 》だったか)。

noname#211048
noname#211048
回答No.2

非知であり非経験であるから、非知も知も非経験も全経験もできて、これ以上の想いやお恵みは他にないと思ってしまいます。 もし仮にそれが父か祖父かのスサノヲが与えられた神の国ならば、上記の悦びは「二番煎じ」というものでしょうか。あるいは、違うならば違うかもしれません。 →スサノヲと天照(と、ツキヨミはどうなのだろう・取り敢えずどちらにしても)お二方が(あるいはその他の登場人物も含められるかして)一緒になる世界は 平たくいって、平和かなと思いました。意気消沈の平和ではなくて! 多種の認識?が飛び交うなかで、だけれどもそのことを知っている から混沌ではない・・とか。 (α)必要のない表現は開示欲求どまりです。神様からはまだ遠い。・・・とおもいます。 Okwaveの哲学欄観ては調べものしてます。前回(覚えてらっしゃらなくとも)丁寧なお返事にお返事返さずごめんなさい。いつも有難うです。

bragelonne
質問者

お礼

 すてゅ2580さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ もし仮にそれが父か祖父かのスサノヲが与えられた神の国ならば、上記の悦びは「二番煎じ」というものでしょうか。あるいは、違うならば違うかもしれません。  ☆ ええっとですね。そうですね。  (あ) 信仰――つまり 普遍神とわれとの関係――があたえられることと われに神の国が生起したということとは ほんの少し違いがあります。  (い) 神の国という表現をする場合には そのひと(この場合 スサノヲ)がまわりの人びととつくる共同体のことをも 視野に入れて述べています。  (う) この質問での主題としての信仰は スサノヲならスサノヲただひとりについて――ことさら一人を取り上げて――問題にしています。  (え) 核心は どちらも同じです。スサノヲについてなら     わが心 すがすがし。  と自己表出する瞬間がそれです。あるいはつまり わが心の灯心に火がともされた一瞬のことです。  (お) そしてこのように《わが心に非思考の庭が成る》という瞬間の出来事は ひとそれぞれに固有のことですから 《二番煎じ》という見方とは別だと考えます。  (か) 汲めども尽きせぬ水がわが心の泉より湧き出るようになることは ひとりの人にとって一生に一度のことです。そのあとで脱線しても 棄ててしまっても その一度は一度です。一度っきりのことであって ほかには無いのだと思います。  ★ →スサノヲと天照(と、ツキヨミはどうなのだろう・取り敢えずどちらにしても)お二方が(あるいはその他の登場人物も含められるかして)一緒になる世界は 平たくいって、平和かなと思いました。  ☆ (き) ツクヨミは 言わば官僚です。事務係あるいはシンクタンクです。  (く) 一にも二にも アマテラスの心が癒されることが スサノヲとの和解の最大のテーマだと考えます。  (け) アマテラスにも スサノヲと同じく《わが心 すがすがし》と言う事件の起きることをいのります。  ★ 意気消沈の平和ではなくて! 多種の認識?が飛び交うなかで、だけれどもそのことを知っている から混沌ではない・・とか。  ☆ (こ) インタムライズムといった社会制度へ移行する過程として――つまりそのようなまだただ頭の中での展望の段階としてでもの過程として―― 議論が展開されるようになれば 具体化するものと思っています。  (さ) お二階さんの引っ張る《アマテラス公民圏主導 - スサノヲ市民社会従属》なる連関が 反省されるようになることです。  (し) けっきょく今はあたまで歩く逆立ちの《 A - S 》連関制ですから。《多種の認識》も飛び交っていても 声の大きい認識によってかき消されるか または そのデカイ声のほうへ誘導されて行ってしまう。  (す) それとも はっきりと国内の勢力としての《反日》の声が 一定の位置を占めるか。――これは はっきりと《 S圏主導 - A圏従属 》なるインタムライズム連関制へと移行する過程を見据えた上でその声を挙げるのでないと なかなか現実的ではないと思います。  ★ (α) 必要のない表現は開示欲求どまりです。神様からはまだ遠い。・・・とおもいます  ☆ まだあいまいであったということですね。  (せ) ペテロを初めとする弟子たちにも イエスなる男がキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であるというコトは 分からなかった。(言葉では そう言ったりしていますが)。  (そ) つまり イエスが十字架じょうに去って行ったそのあとやっと――のちに物語においてだけとしても――キリストであったとさとる。  (た) 神キリストは その後ろ姿をしか人びとは見ることが出来ない。ということになるのだと思います。その意味で 弟子たちを始めとする人間は  ★ 神様からはまだ遠い。・・・とおもいます  ★ お返事返さずごめんなさい。  ☆ いえいえ だいじょうぶです。うけたわまりました。

回答No.1

今回は、 なんだこれは。 これが正直な感想だ。 友人として言おう。 イエスすらも捨てろ。 君自身として神のみに生きろ。 君は私と同じ仏陀の罪の途上だ。 いやか? 喜んでやっているのはあたしも判る。 その先に、ジジイはどんな仮面ライダーを名乗るんだ。 業務上の連絡をしておこう。 平成仮面ライダーは全員私の弟子で、昭和時代の初代仮面ライダーを君が名乗り出るなら、師匠として君を推薦しよう。 ジジイになった今から、ライダーバトルに参戦したくなったら、私に判るようにこの場で書き込むだけで、スムーズにそれは実行される。 男を誇る戦いが君にあるなら、ジジイでも仮面ライダーになれる。 君は絶対悪的に圧倒する私が認める友人だ。 この資質は、私が人類の裏切り者となってまでも悪を愛する事と一致している。 ジジイ。 若返りたければそう言え。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ (【Q:スサノヲ・・・】No.5お礼欄) ~~~~~~  《信仰》というのは 何も認識はない。認識しているものは何一つない。んですよ。  ただ 《かみ》という言葉をわが心に受け容れたというだけ。  何らあたらしく認識がくわわったということは ない。  《非思考》です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ブッダは ふるい。  イエスは 何かと説明が必要なときには 名前を出す。いまも有効だ。ずっと有効である。  ご回答をありがとうございます。  怪傑ゾロくらいが いい。  あるいは 眠狂四郎。

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     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題について問います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題についてあらためて問います。何かを論破するためだけのものではないかとの批判を受けてのことでもあります。それについては この命題は そのとおり論理を問題にしているという答えなのですが ほかの見方による批判についても 受けつけたいと思いました。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  念のために言えばこれは 哲学です。よろしくどうぞ。    * この哲学だけでは 中国の理不尽さには対抗できないという情けなさを噛みしめつつの再掲でもあります。その中国脅威論をからませてもご投稿ください。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。