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ウィトゲン的な思考途上は我欲的な人間を生み出すか?

kyabetuの回答

  • kyabetu
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回答No.2

我欲的な人間ということではないと思います。 初期においても彼はひたすらに哲学的問題を解こうとしたのであり、その結果出てきたのが哲学的事柄について書かれてきた多くの命題や問いは誤りなのでなく「無意味だ」という見解です。そこには偽であることと無意味の区別やそれを支えた真理条件意味論など様々な概念装置があります。彼の哲学的沈黙も語りうることと示すことの区別という哲学的洞察に支えられたものであり「言っては虚偽になる」のではなく、語りえないものを語ることは「無意味だ」。それは示されるのであり沈黙せざるを得ないという言語観に貫かれている。 後期の言語ゲームという考えはもっと根源的なものである。 例えば人間が語れるのも動物とは異なった理性的能力があって語りうるのだと考える人もあろう。しかしこれは誤っている。動物は考えないから話さないのでなくただ単に話さないのである。我々は、命令し、問い、語り、雑談するがこのことは歩いたり食べたり飲んだり遊んだりすること同様、我々の自然史の一環なのである。 人が話すのは、猫が木登りするのと同じような次元なのである。言語ゲームとは言語を話すということが一つの活動ないし生活様式の一部であることを解明したものであり、言語ゲームを成立させているのは理性的根拠でなく慣れ親しんだ生活様式に他ならない。話すことは生きることと不可分という視点が必要だ。 他者と教え教わる交渉的世界は出てきても、我欲という世界は出てこないように思われる。

caballero
質問者

お礼

ありがとうございます。 >他者と教え教わる交渉的世界  これは、生活様式等の一部のことですか? >それは示されるのであり沈黙せざるを得ないという言語観に貫かれている。  無意味を語る事は出来ないという事ではないのですか?すべてが内在するものであり、それの外にはでる事が出来ない=語れない=沈黙。 語りえないものは理性的根拠でなく慣れ親しんだ生活様式でとらえられているということでしょうか? >理性的能力があって・・・・  これは、超音波が聞こえるこうもりと、聞こえない人間、理性の進んだ人間と比べて進んでないこうもりという所に話す話さない、又、こうもり同士にも聴力の差がみられるのにたいし、人間同士でも理性の進んでるかそうでないかが見られるというところの話ですか? >他者と教え教わる交渉的世界は出てきても、我欲という世界は出てこないように思われる。  共有しているようでしていない、そこら辺が、言語ゲームの我欲的である所と思うのですがどうでしょう?

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