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新選組の伊東甲子太郎について

新選組の伊東は何故新選組に入隊したのでしょうか? 伊東の腕と頭脳、頭角ならば士官も出来たし西郷隆盛や桂小五郎のように目立った存在になったはずなのにと考えます。 水戸の人なので内向的だったのでしょうか? 当時の士官はそれ以上に難門だったのでしょうか?

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10550/33162)
回答No.3

当時は能力主義の時代じゃないんですよ。身分制度が残っていた時代です。 西郷隆盛は島津斉彬というお殿様に特別に目をかけられて抜擢されたので下級武士の子でありながら異例の出世ができました。その代わり、斉彬が急死すると反斉彬派から目の敵にされて島流しの憂き目にも遭いました。けれど時代が幕末という風雲急を告げる時代であったのと、隆盛自身が傑物であったので「討幕派のリーダー」として頭角を現しました。 桂小五郎(木戸孝允)は、元々が「まあまあいいとこのお坊ちゃん」です。 伊東甲子太郎は、元の身分も低ければ力のある偉い人に見いだされたということもなかったですし、まあそういう点では「持ってなかった」ってことになるのでしょうね、今風にいうとね。 それに新撰組だってそもそも仕官したわけではないです。武士が正社員なら、新撰組はただの請負業者です。会津藩預かりになった私設団体に過ぎません。カッコよくいえば正規軍に対するPMC(民間軍事会社)で、悪くいうと警察の下請けの半グレです。 武士ってのは昔から代々雇われる存在です。だからどこかで誰かが雇われるためには役職が空いてないといけないし、雇う藩の財源も必要です。日本の正社員はよほどのことがないとクビにならないですが、それが代々続くのが武士です。もし社員が代々受け継がれるなら、会社の規模が何らかの理由で大きくならないと「新規雇用」ってないですよね。

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  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (389/1196)
回答No.2

剣術の腕前だけでは仕官先はないでしょう、時代遅れなのです。 伊東甲子太郎は小利口で大物を気取った小物だと思います。 浪士隊にいち早く参加した、水戸浪士の芹沢鴨や道場主の近藤勇 などより、決断力・行動力に欠けます、行動力が無ければ世に 名を残す事は出来ません、形が整ってきた新選組に後から参加 して大物気取りで居れば排除されます。 >水戸の人なので内向的だったのでしょうか? この様な発想は何処から生まれるのでしょうか? 常陸国の佐竹氏は八幡太郎義家に繋がる源氏の一族です。 戦国時代は小田原北条や伊達と争った関東の雄なのです。 古くは、平家の味方して源頼朝に抗して、幕末では、尊王攘夷の 旗を最初に挙げて決起した、水戸天狗党は、水戸浪士が中心 なのです、芹沢鴨が目立たない程、決起盛んな土地柄ですよ。

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回答No.1

「士官」は正しくは「仕官」です。 江戸時代を通じて「仕官」はとても難しいものでした。もっとも、江戸中期くらいであれば、伊東道場の跡取りに迎えられるくらいの腕なので、どこかの小藩の剣術指南役くらいにはなれた可能性はあります。 でも実際にはもう新たな藩士、それも「水戸学を学んで勤王思想に傾倒」しているような人を抱えるような余裕のある藩はなかったでしょう。学んだのが洋学だったら可能性はあったでしょうけど。

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