締切り済みの質問

新撰組 水戸藩 

こんばんは、早速質問させてください。
今歴史小説を読んでいるのですが時代考証や人間関係などがややこしくよく分かりません。

以下に記述しますのでどなたか分かる方がいらっしゃいましたらお教えください。


浪士組が上洛した日の夜、清河八郎が幕府を裏切り朝廷のために働くと言う感じの演説をしていますがその時京都に残ったのが後の新撰組ですよね?

ここでどうしても分からないのが、何故その時、芹沢鴨がその場に残ったかです。
芹沢は水戸藩の人間で、水戸藩は尊皇攘夷思想の中心的な藩だったはず。
芹沢も水戸時代から『朝廷第一』と言う教育を施されていたと聞きました。
と、言うことは芹沢は尊王・・・つまりは朝廷側の人間で幕府側ではないのでは?と言うことです。

清河と共に江戸に帰ると言うのならば水戸藩の教え(=
朝廷第一)の通りだと納得も出来るのですが。

それ以前に、何故御三家である水戸藩がそのような尊王攘夷論などと言うものを掲げていたのかも分かりません。一体水戸藩はどちら側の人間だったのでしょうか?

朝廷側と思っても幕末は最後まで幕軍として戦っているようですし、じゃあ幕軍かと思いきや、井伊大老を桜田門外の編で暗殺したのは水戸藩士のようですし。

この辺が良く分かりません。

質問自体がゴチャゴチャしていますが、どなたかお教えくださると幸いです。
よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2005-10-08 17:06:41

QNo.1700299

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回答(4件中 1~4件目)

ANo.4

井伊直弼の政策に対し、水戸斉昭は共の者と3名で江戸城に出向いて徹底抗議をします。

その後、決まった日で無い江戸城への入城を咎められ、斉昭は隠居させられ、江戸城への入城を禁止されます。
水戸藩士は全員脱藩者で、水戸家に迷惑を掛けないよう心がけ、隠れ家で全員自害したと言う事です。

斉昭は強力な攘夷派でしたが、学があり、武力で外国船を掃討出来るなどとは考えていませんでした。
彼の押す一ツ橋慶喜の政策を見れば分かる通りです。

当時は、攘夷派と開国派に分かれていました。
黒船のやって来た頃、天皇は攘夷を強要し、幕府は困惑します。

幕府は、日清戦争の結果や、諸外国の軍事力を冷静に判断していました。
もう、開国以外に道はありませんでした。

この頃幕府は、
勝てるはずの無い攘夷を叫ぶ天皇を尻目に開国をします。

天皇の攘夷を決行した長州藩は、外国船を砲撃。
たちまち城を占領され、城主の切腹で事なきを得ます。

清河八郎の、天皇の攘夷の命を受け取り、関東で攘夷の挙兵の演説で、真っ先に芹沢鴨は京に残ると断言します。他の数名も続いて残ります。

この事から、清河八郎の攘夷の考えとは違う思想だったと思います。
(清河八郎は、幕府からは危険人物とマークされる。これからすぐに暗殺される。)

幕府に忠誠を誓うなら、幕府の開国政策を支持しているはずです。または、攘夷と言う思想を捨てて職務に専念したはずです。

新撰組の目的が、幕府の開国政策に反対し、攘夷を目的として京に登る「不逞浪士」の探索とすれば合点が行きます。
(長州の過激な攘夷派だけが敵であった。)

この頃は、攘夷、開国の争いであり、
理想は尊王、幕府、公武合体(両方)と言う程度でした。
その後、倒幕の動きが起き、激動の中に身を投ずる事になります。

投稿日時 - 2005-10-08 22:54:21

ANo.3

水戸藩は水戸学と呼ばれる尊皇思想が特徴です。
とはいえ、尊皇倒幕ではなく、尊皇尊幕の思想です。
(まあ、本流がなんぞという気概はあったでしょうが、水戸が天下を取ろうという意味はありません)
これはもともと徳川幕府というのは天皇から日本を預かるという意味でも当然でしょう。
光圀が水戸学を築いた頃には、天皇と幕府が戦うとは思いもよらなかったでしょうし。
ところが、幕末になると天皇と幕府が対決してしまうようになり、尊皇倒幕に傾く人物も出てきたということでしょう。

芹沢は尊皇派です。
天狗党に属していたことからもそうでしょう。
とはいえ、倒幕派ではなかったのではないでしょうか。
だからこそ、将軍の警護をするという浪士組に加わったと思われます。

面白い説としては、浪士組の正体が倒幕の兵であることを知っていて参加したという説もあります。
そうなると芹沢は尊皇倒幕派ということになりますね。
浪士組の中で有名ではなかった芹沢が隊長になれたのは、清川と内通していたからだという説です。

投稿日時 - 2005-10-08 18:40:12

お礼

まだまだ難しい世界ですが分かりました。
ありがとうございました

投稿日時 - 2005-10-23 18:54:08

ANo.2

少々不正確なところがあったので追加補足します。
将軍家定の死後、次の将軍をめぐっての争いが起きますが、このとき井伊大老によって斉昭は蟄居させられ水戸藩の藩政も幕府からの干渉もあって諸生派ににぎられます。
この斉昭の蟄居や藩政への干渉に反発した一部の尊皇攘夷派の元?藩士が井伊大老の暗殺に参加したわけです。
その後の水戸藩の情勢は前に書いたとおりで、幕府の瓦解までは諸生派が権力を握り、幕府の命によって活動します。

投稿日時 - 2005-10-08 18:32:35

ANo.1

水戸藩が尊王だったのは、もともと水戸光圀に源流があります。光圀は天皇正統の歴史『大日本史』を編纂させました。
ただ、その頃はまだそれほど尊皇派の力が強かったということはなく、幕府との関係も正常でした。
転機が訪れたのは徳川家斉の時代で、藩主が死んだとき、財政難の水戸藩は家斉の子供を養子に迎えて財政難を乗り切ろうとしましたが、反対派は藩主の弟を立てるべきだとして、結局藩主の弟が水戸藩を継ぎました。これが徳川斉昭です。
このとき徳川宗家から養子を迎えようとしたのが重臣を中心とする一派で、その反対派が尊皇派でした。
こういういきさつがあるために藩主になった斉昭は尊皇派をもりたててゆき、重臣層を中心とする一波(諸生派)との抗争が激しくなりました。
斉昭が死んだのちあとをついだ藩主は凡庸で諸生派が力をもりかえして、さらに抗争が激しくなりついに天狗党が決起して内乱にまでなりましたが、これは幕府の後押しもあって天狗党(尊皇派)が破れ、尊皇派はほとんどが殺害されたりされて壊滅状態になりました。この抗争の過程で井伊直弼の暗殺にかかわる者も出ました。
そのため幕末の水戸藩は完全な幕府派です。
しかし、幕府が倒れると生き残った尊皇派が新政府の後押しで水戸に戻ってこんどは諸生派を粛清しました。そのため一部は会津に逃れて戦ったりしています。
幕末の水戸藩はこのような血を血で洗うような内紛を繰り返していたために明治には人物が払底して、あまりナノある人物が出ていないとも言われます。

投稿日時 - 2005-10-08 17:31:50

お礼

分かりやすく説明していただきありがとうございました。とても助かりました

投稿日時 - 2005-10-23 18:55:25

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