• ベストアンサー

源為義

源為義は、義家の孫にあたり、河内源氏の棟梁を継いだので、この流れにある源頼朝は、清和源氏の嫡流であると言えるのでしょうか?お答えください。

  • ithi
  • お礼率100% (5539/5539)
  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数6

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (674/1409)
回答No.3

>源頼朝は、清和源氏の嫡流であると言えるのでしょうか?  昨今では、頼朝の父「源義朝」は、廃嫡あるいは庶長子で河内源氏の棟梁を継げなかったので関東へ下向したとの説が出ています。=非嫡流  ⇒異母弟の義賢(次弟)が先に任官しているのに、義朝は関東下向時は無位無官だったりと明らかに扱いが悪い…。  また、義朝が関東で有力豪族の後見を受け勢力を強化する様に成ると大蔵合戦で義賢を滅ぼしています。  後に保元の乱では、父(為義)と敵対し、父と弟を処刑しています。  ⇒義朝は、河内源氏として行動していない…。  (そのせいか、義朝は平治の乱で敗れた後に河内源氏に長年仕えた家人の裏切りによって討たれた。)  そもそも頼朝の権力って関東の豪族(北条氏など平氏も多い)であり、河内源氏などの源氏の勢力の支援は…。  ⇒なんなら義朝が攻め滅ぼした義賢の子(源義仲)方へ行っちゃってる…。  あと清和源氏で見ても、河内源氏って祖の源満仲の三男の系譜であり、満仲には長男の系譜(摂津源氏)や次男の系譜(大和源氏)があります。  頼朝の系譜は、後の室町時代(足利氏)が南北朝の争いの中で求心力を保つ為に…。  特に足利義満がこれを強調し、それまで源氏の嫡流を自他共に公認されていた村上源氏(朝廷から源氏長者に任命【奨学院・淳和院の両別当を兼任】)から、その座を奪っています。  まあ、村上源氏の祖(資定王(のち源師房))は藤原頼通(摂政太政大臣藤原道長の長男)の養子になっており、道長から藤原氏の相続まで認めらた人物で、その系譜からは太政大臣(源雅実)まで輩出しており、河内源氏より数段高貴な一族だと見られていた様です…。  ⇒村上源氏は、南北朝の時代まで鎌倉や室町の武士団に対抗する勢力として影響力を行使していました…。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。おそらく、北畠氏ですね。丁寧なご説明でした。

その他の回答 (2)

回答No.2

言って良いと思います。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (379/1170)
回答No.1

清和源氏の嫡流と言うより、八幡太郎 源義家の嫡流とした方が 宜しいかと。 源頼朝は、こちらを重視して、鎌倉八幡宮を建立しました。 源頼朝⇒足利尊氏⇒徳川家康・・・約700年間日本を統治しました。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。これは、河内源氏を清和源氏の嫡流と考える考え方らしいですが、やはり、これが正当な考えなんですね。

関連するQ&A

  • 源平嫡流

    桓武平氏は嫡流 高棟王の流れ、 清和源氏は嫡流 摂津源氏 という理解でいいのでしょうか? 伊勢平氏も河内源氏も傍流という説があるのですが、。

  • 源氏がミナモトと名乗らなくなったのは・・・・

    三つ質問が有ります。 (1)武士の源氏がミナモトと名乗らなくなったのはいつ頃からなのでしょうか? 頼朝が幕府を開いてから? とすると木曽義仲は当時は木曽とは呼ばれてなかったのでしょうか? それとも頼朝が伊豆頼朝(伊豆は例)とでも呼ばれていて、源氏の棟梁となった事で源頼朝となったのでしょうか? (2)清和源氏は誰の時代から武士に降下したのでしょうか?八幡太郎はすでに武士ですよね? (3)明治維新の頃まで公家に源を名乗る方が居たと記憶しているのですが、その方の名前とどこの系列(清和など)の源氏か教えてください。その後、源という名前を通常?の名前に変えたのでしょうか? 個々にでも構いませんのでよろしくお願いします。

  • 河内源氏と他の清和源氏の関係は?

    河内源氏と他の清和源氏の関係は? 河内源氏の源義朝や頼朝と摂津源氏や美濃源氏に甲斐源氏といった他の源氏は主従関係にあるんでしょうか?それとも会社における上司と部下みたいな関係だったんでしょうか?それか単なる協調関係だったんでしょうか?平氏に対してまとまりに欠けているような感じがするので教えてください。

  • 源氏はなぜ関東へ?

    西の平氏、東の源氏とずっと思っていましたが頼朝に続く源氏の祖は河内国(大阪府)が祖だとか? 有名な八幡太郎義家も河内国が基盤だと最近知りました 都に近い河内国からなぜ何もない荒野だらけの関東へ行ったのでしょうか ライバルの平氏が都にいるからでしょうか?

  • 源義経

    源義経は家族思いだったと思います。 兄、頼朝に呼ばれ、兵の指揮官に任じられました。 平家を次々と攻略します。 そこに目とつけた天皇が、天皇の外敵をも倒してと官位を与えたと思います。 兄、頼朝は、棟梁だと自負していました。 余計、ねたみが出たのか、弟の義経が関東に近づいたら、そこより近づくなと、門前払いしました。 門前払いされたら、天皇に近づくと思います。 妬んだ頼朝は天皇に悪評を言い、義経を追い出しました。 義経は、今度は、東北に逃げました。 でも、妬んだ、頼朝は、東北まで攻撃し、殺しました。 もし、皆さんが、嫉妬深い、頼朝が身近にいたとします。 義経が自分ならどうしますか?

  • 源氏と平氏

    清和源氏と桓武平氏は2大軍事勢力ですが、平清盛と源頼朝に至る源平合戦までの経緯と両者が滅んでも傍流は戦国時代まで続きました。その盛衰を見て両者で何が違っていたのでしょうか。 源平合戦までは源氏の武勇伝が多く、平氏の武勇伝は少ないのです。名前だけ挙げると、源氏の頼信、頼義、義家、義綱、為義、為朝、義朝、義仲、義経、頼朝。平氏の将門、貞盛、忠盛、清盛。 源平合戦の後では平氏の数が圧倒的に多いのです。源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。 しかし、その後に大名になった平氏が少ないのです。源氏は足利、新田、佐竹、今川、武田、大内、土岐、斯波と大名になり、平氏の北条、千葉、三浦、伊藤、桑名はいずれも滅んでいます。不思議だなあと思っています。

  • なぜ頼朝は助命されたのか

    本日の大河ドラマに描かれていたように,謀反人の嫡子である源頼朝が平清盛に助命されたのは,清盛の義母である池禅尼の懇願によるものだという説が有力です。 しかし,よく考えると,海千山千の清盛が,いくら義母の懇願によるものといえ,将来の禍根を残すとは思えません。 私個人としては,「政治的理由」((1)河内源氏以外の他の源氏等に配慮したもの,(2)どっちみち反平氏(平家)勢力は,頼朝以外の源氏を「お神輿」にするので,別に頼朝を処刑する必要はない,等)により,助命したと思うのですが,この件に関する最近の「通説」はどのようになっているのでしょうか。 お教えいただければ幸いです。

  • 歴史の本で疑問に思うこと

    こんばんは。よろしくおねがいします。日本史初心者です。幕府についての疑問です。 幕府を開くことができたのは、足利などの源氏の流れ を組むことが条件らしいのですが、 「幕末、毛利は自分達で幕府を開こうと他から思われていた。」 というような記述がありました。 疑問は大江氏(毛利)が藤原朝臣だとすると、太政大臣になれても征夷大将軍の職をもらえたのでしょうか。 また、明智は多分近江源氏の支流土岐源氏というふうに考えると、 明智も幕府を開けたのでしょうか。前田利家はインターネットで菅原朝臣だと知りました。 疑問は義家などのいる清和源氏以外の村上源氏などでも将軍になれるか? また、源氏以外の平藤橘でも将軍になれるか?です。 伊達家は幕府になるための式目を作ってあったそうですが・・・。

  • 嫡流を大事にする用語

    長幼の序という歳上を大事にする言葉はありますが、 源氏の義家系と義光系であったり御三家の尾張紀州水戸の順であったりより嫡流に近い家柄を優先するような言葉ってあるのでしょうか?

  • 清和源氏について

    こんばんは。 源平時代の源氏で「源」と名乗っていたのは嫡流だけのように思います。(間違ってたらごめんなさい。)でも武田、木曽、足利、新田などそれぞれ土着した土地の名前を使っていますね。源氏のネームバリューは絶大で、領国経営にもにらみが効いて何かと都合がいいのはずなのになぜ「源」を名乗らなかったのでしょう?本流の一族しか「源」を名乗ってはいけない決まりでもあったのでしょうか?