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徳川家康と金山について

徳川家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃五カ国から関東八州に転封された時に、多くの金山を失いました。これは大きな痛手でしたか?石高は、倍増したので大丈夫でしたか?教えて下さい。

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  • eroero4649
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回答No.1

いわゆる「武田の金山」は信玄の代に開発されてほぼ信玄一代で掘り尽くされたところが多かったようですね。 また金山は、世間のイメージとは違って武田家をさほど豊かにはしませんでした。実は武田領ってその全期間を通じてかなり深刻な「銭不足」に喘いでいたのです。 戦国時代に銭として流通していたのが中国の永楽銭でした。今でいうとUSドルですね。つまり外貨だったのです。今でも経済が安定しない発展途上国ではその国の通貨よりUSドルのほうが通用するということがありますが、室町時代の日本もそうでした。 輸入品であり外貨なので、内陸国の武田領ではいわゆる「外貨不足」にあったのです。ゼニが手に入らないから思うような買い物ができません。「武田家は鉄砲を軽んじて騎馬軍団にこだわった」なんていわれますけれど、別に鉄砲を軽んじていたわけではありません。武田家も鉄砲は注目していました。けれど鉄砲が自国生産できないので「輸入」しなければならず、購入にはなんといっても現金が必要です。それに火薬も現金で購入しなけりゃいけないし、鉄砲は消耗品です。撃つとそのうち熱と衝撃で割れて使えなくなる。「ゼニが沢山ないと維持できない兵器」なのです。 武田家では戦費の調達のために金山を利用したのですが、「外貨不足」は深刻でこれがどうしてもクリアできなかったのです。 武田家はその銭不足をなんとかするために重税を施していました。単純に比較はできないけど、武田領の税金は他に比べると2~4倍くらいの重税でした。それに加えて「臨時徴収」もあったので、かなりエグいです。 その見返りとして信玄が家臣に認めていたのが「略奪と人身売買」でした。敵の領地に攻め込んで勝利したら、そこで略奪して誘拐して、誘拐した人間を働かせるもよし、奴隷として売ってゼニを手に入れるのもよし、としたのです。 というわけで、信濃の人々には主に二つの選択肢がありました。「信玄について重税を背負わされるが戦さに勝てば略奪が思いのままにできる」か「信玄に敵対して、負けたらメチャクチャに略奪される」か、です。 なお、信玄の当初の戦略は「佐久郡を経て関東に進出する」だったと思われます。最初に侵攻しているのは南佐久郡だからです。佐久郡は土壌も豊かな地域です。そこから割と初期に西上野を伺っているんですよね。 なんですけど、諏訪氏と対立したことなんかがあって佐久郡を経ての関東進出は不可能になり、おそらく「他に選択肢がない」という状況で諏訪郡や現在の長野市方面に進出していったのであろうと思われます。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

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  • gunsin
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回答No.2

#1さんの回答に有りますように、各地の金山は枯渇状態でした。 江戸時代初期に、佐渡で新たに、相川金銀山が見つかり、大きな 財源となりました。 ---------------------------------------------------------------------- 第五代の学者将軍は、相川金銀山も何れは枯渇すると予想して、 現在の為替みたいな制度を考えて実施しましたが、400年前に、 受け入れられる訳がなく、幕府保留の小判がかえって流出する事に 成り頓挫しました。 島原の乱で大量に農民を殺したら米造りの担い手がいなくなったを 反省して、各藩は新田開発を進めると並行して農民に新しい技術 導入の為、文献が読める様にする為に農民に文字を教えました。 八代将軍吉宗の頃は、一反当たりの収穫量は3割増加していたので 幕府の財政は一息つく事が出来ました。 田沼意次は民間の力で新田開発を進めましたが、賄賂政治と 揶揄され頓挫しました。 水野忠邦は消費税を商人に課そうとしましたが、頓挫しました。 金の含有量を減らした小判を流通させましたが、庶民は解って居て 慶長小判を基準として、含有量の少ない小判を換算して取引を してました。 佐渡金山の枯渇と共に,、各藩が軍備増強で、南北戦争終了で不要 になった鉄砲を買い求めた為に小判が大量に海外に流出したので、 狂乱物価となり米騒動が頻発して、江戸幕府は終焉となりました。 米国はロシアから購入したアラスカの支払いに鉄砲を売った 利益で行ったと言われてます。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

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