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家康の関東転封

関白豊臣秀吉は天正18年小田原の役をもって全国を統一し、臣下の徳川家康をそれまでの東海5か国から関東に転封しますが(厄介払いも込めて)、もしこの時家康への加増を伊豆1か国程度に留め、関東には自分の直臣を配置していたら歴史は大きく変わっていたと思いますか?

  • 歴史
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  • tak7171
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回答No.3

ほとんど変わらないと思います。 徳川を東海から関東に移封した後、秀吉はその故地に豊臣恩顧の小大名を配置しましたが、秀吉没後は雪崩を打って徳川配下になりましたね。彼ら小大名の後背地に豊臣シンパの大名をズラッと並べてもそうなったんです。東海地方に徳川を置いたままにして関東に小大名を配したら、それら小大名は徳川に遮られて孤立したような状態ですから、秀吉死後には、実際の歴史にもまして徳川に対する抑止力にならなかったでしょう。 それに関東は徳川という大大名がその全力を発揮して開発しなければ使えるようにならなかった土地でした。仮に徳川以外の大大名を配置しても、関東という開発も進んでない僻地に配された大名はそれを不満に思うでしょうし、下手に大領土を与えたら徳川への抑止力どころか逆効果になりかねません。仮に豊臣政権で徳川以外の大大名を配したとしても、蒲生氏郷は短命でしたし、前田利家も家康より早く没しています。毛利輝元では移封するには遠すぎて不満に思うでしょうし、上杉景勝・宇喜多秀家では力不足です。伊達政宗に至っては逆効果の最たるものになるでしょう。 更に実際の歴史でも、質問者様のIFが行われたとしても、どちらにしても豊臣政権の基盤の脆弱性は何ら変わりませんし、移封でも弱体化しなかった徳川がそのまま先祖伝来の地にいたならば更に強勢になるのは必然のことです。秀吉より先に家康が死なない限り、やはり歴史は変わらなかったと思います。

nobunaga1560
質問者

お礼

ご回答感謝します。関東に配された豊臣恩顧の大名は孤立して家康に取り込まれてしまうかもしれませんね。それこそ狸おやじの得意とするところですね。

その他の回答 (4)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.5

nobunaga1560 さん、おはようございます。 大体において変化はなかったと思います。ただ、江戸が居城にならないので、駿府か伏見、もしくは大坂が首都になったと思います。

nobunaga1560
質問者

お礼

ご回答感謝します。未開発な・・それでも広大な関東平野は魅力だと思いますが・・

noname#211010
noname#211010
回答No.4

変わらない

nobunaga1560
質問者

お礼

ご回答感謝します。

回答No.2

まぁ変わってたかも… 秀吉にとっては家康の関東移封は 警戒する家康を遠ざける目的でしたが 結果的には伊達、最上などの反秀吉の結束を固めてしまったわけですね ただ 伊豆1カ国となると 当然徳川の家臣は不満でしょうし 秀吉死後決起した可能性も高い… しかし豊臣政権が確立した可能性は低いでしょう 秀吉の基盤はあまりにも脆弱です

nobunaga1560
質問者

お礼

ご回答感謝します。家康に250万石与えたのがそもそもの間違いだと思ったんですが・・・

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10485/32980)
回答No.1

結果的に徳川幕府になった可能性は高いと思いますが、その幕府がどこに開かれるようになったか、ひいては日本の首都がどこになったのかを考えるとそういう意味では歴史が大きく変わっていた可能性は考えられますね。 もし、近代日本の首都が大阪だったとしたら、関東はどうなっていたんだろうかと思うとね。

nobunaga1560
質問者

お礼

ご回答感謝します。小田原でなく拠点を江戸に移した(秀吉の助言らしい)家康の先見性たるや、さすがとしか言えないなあ。

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