• ベストアンサー

「お前でも息子は可愛いのか?」

徳川家古参の家臣であり、徳川四天王の一人に名を連ねる酒井忠次。 酒井家の石高は10万石であり徳川の譜代としては低い 忠次が家康に息子の家次の石高を増やして欲しいと頼んだとき家康は 「お前の様な奴でも倅がかわいいのか?」と吐き捨てて結局酒井家の石高は加増されませんでした… 家康の長男・信康が織田信長に切腹を命じられたとき後見人だった忠次は信康を助けなかった事を家康は根に持っていた と言う話ですが 酒井家の石高が低く抑えられたのは単に手柄を立てなかったからで 家康の逆恨みってのは作り話だと思うのですがどうなのでしょうか? 酒井家は家次の代以降 1度も転封や改易をされていませんし

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数6

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.1

家康の逆恨みなどは無かったと思いますが、確かに臼井3万石は少ないです。 家康の寵臣の井伊はともかくとして、本多・榊原のほうが確かに軍功は多いですが、もともとは酒井家が徳川譜代筆頭です。それを考えると10万石と3万石は恨み言が出てもおかしくありません。ただ酒井家がその後も冷遇されたわけじゃ無くて、大坂の陣以降は越後高田藩10万石に移封され手厚く遇されてますよね。となると個人的には家康は当時の当主である酒井家次の戦闘指揮能力に疑問を持っていたのだと推測致します。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

その他の回答 (2)

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2174/4818)
回答No.3

>「お前の様な奴でも倅がかわいいのか?」と吐き捨て 有名な、逸話ですすね。 >家康の逆恨みってのは作り話だと思うのですがどうなのでしょうか? 私は、ウィキ何とかは信じていないのですが・・・。 ※知り合いのアナウンサーとか某金融機関グループの取締役も「多くのウソが載っていて、笑ってしまう」という話を多々聞きますからね。^^; たぶん、他の譜代大名・旗本に対する牽制の意味も含んでいるのだと思いますね。 外様に比べて、多くの譜代は「石高が低い」ですよね。 井伊家にしても、武田家家臣から徳川家臣に転身した家です。 ※面白い事に、大坂夏の陣では真田・井伊の旧武田家臣団同士が衝突しています。 徳川に対抗出来る勢力が無くなった今、「譜代家臣を優遇せよ!」という意見は多くあった様です。 石高を増やす事は、外様を取り潰す必要があります。 が、外様を多く取り潰すと「反徳川機運」が高まり幕府にとって危機が訪れます。 かと言って、「秀吉の様に、他国を征服したり」「薩摩の様に、琉球を征服したり」は不可能です。 そこで、酒井忠次と示し合わせて「譜代でも、厳しく」を見せつけたのでしよう。 「あの酒井忠次でも、加増が拒否された」 このインパクトは、大きいですよ。 >酒井家は家次の代以降 1度も転封や改易をされていません この事実からも、上記「示し合せがあった」と見做す事が出来るのです。 本当に恨んでいたのなら、秀忠・家光の時代に「左遷」となっています。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.2

azuki-7 さん、こんばんは。 どうやら、父忠次に比べて戦功に恵まれなかったようです。父が隠居した後の合戦が小田原征伐です。その後関東入封の後、下総国臼井3万7000石の大名になりましたが、関ケ原の合戦には秀忠軍に従軍して本戦に間に合いませんでしたし、大坂冬、夏の陣では内容がパッとしませんでした。たぶん、父親に比べ経験不足と戦闘指揮能力に不足を家康が感じていたんだと思います。 ただ、秀忠、家光の代になるとその冷遇ぶりが変わります。譜代筆頭ですからね。その後越後高田10万石を皮切りに子供の忠勝がさらに家督を相続すると出羽国庄内14万石にまで出世しました。この家は代々左衛門尉を名乗ったことから俗に酒井左衛門尉家といいます 酒井忠勝 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E5%8B%9D_(%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%9B%BD%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9%E4%B8%BB) 酒井家次 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%AE%B6%E6%AC%A1 酒井忠次 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

関連するQ&A

  • 何故井伊家は彦根から国替えがなかったのですか?

     徳川譜代大名の武功派は江戸幕府が安定すると、次第に地方に遠ざけられていきました。  井伊、酒井、本多、榊原など、家康が天下取りに行く過程で、忠勤を励みました。  井伊、以外の譜代大名は秀忠以後、何度も転封、国替えになっています。しかし、井伊家は彦根から動くことなく、幕末を迎えました。何人も大老を輩出しています。  藩祖直政が家康の寵愛が深かったと思いますが、それだけの理由でしょうか?徳川幕府草創期の功臣たちは、国替えばかりでなく、改易、断絶になっている譜代家も多いです。  井伊家は譜代随一の禄高ですが、何故、他の譜代家に比べ厚遇されたのは何故でしょうか?

  • 正誤問題

    (1)1605年、徳川家康は秀忠に将軍職を譲った。これは全大名に対して将軍職が徳川氏によって世襲されるものであることを明示した上で、徳川家の世がこの先も続くことを知らしめるためであった。 (2)関ヶ原の戦いで西軍方についた領地は改易・転封され、その結果譜代大名が出現する契機となった。 (3)大名統制のために定められた法令を武家諸法度に違反した大名は改易・転封・減封の処分がなされた。幕藩体制確立期においては城の無断修築など多くの大名がこの法度の違反による改易である。 (4)幕藩体制下においては、有能な大名であれば親藩や外様でも幕府の役職に就く例は存在した。 この中で正解が2つあります。どれでしょうか? また、間違っているものはどこが違っているのでしょうか?

  • 酒井 忠次 と 小五郎 という名乗りについて

    酒井 忠次(さかい ただつぐ)の 幼名 は「小五郎」なのでしょうか? 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、何歳ぐらいから何歳ぐらいまでの間、「小五郎」と名乗っていたのでしょうか? (⇩)下記のページによると、生涯 の所に、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。 と書かれています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 生涯 の所に、 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。 と書かれていますが、質問があります。 酒井 忠次(さかい ただつぐ)の 幼名 は「小五郎」なのでしょうか? 幼名と通称は違うものなのでしょうか? 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、何歳ぐらいから何歳ぐらいまでの間、「小五郎」と名乗っていたのでしょうか? 酒井 忠次(さかい ただつぐ)の幼名は、「小五郎」なのかどうか? 幼名と通称はどう違うのか? 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、何歳ぐらいから何歳ぐらいまでの間、「小五郎」と名乗っていたのか? 等、 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、いつぐらい から いつぐらい まで「小五郎」と名乗っていたのか? 等、 酒井 忠次(さかい ただつぐ)と「小五郎」という名乗りとの関係について、詳しく教えてください。 〔参考URL〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1#%E7%94%9F%E6%B6%AF 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。

  • 家康

     豊臣秀吉は家康を恐れて、当時未開発だった関東(エド)に転封しましたが、関東(エド)は平野の上に水も豊富だったので、家康の勢力をかえって豊かにすることになってしまいました。  そこで思うのは、「秋田や岩手」または「山陰」などは面積も結構あり石高も多いと思います。だけど、地理的なもの(雪がおおいなど)や現在の過疎ぶりを見ると、もしここに家康を転封したら、徳川幕府はなかったのではないかと思います。  いいかえると、、関東のかわりに家康が「秋田や岩手」または「山陰」に転封されたら、そこでも家康は努力してその地を江戸のように発展させることができたのでしょうか。そして、徳川幕府を開くことができたのでしょうか。  気になるので、教えてください。

  • 酒井忠次が小五郎と名乗り始めた時の徳川家康の年齢は

    酒井忠次が “小五郎” と名乗り始めた時点での徳川家康の年齢は、何歳だったのでしょうか? (↓)この下記の “酒井忠次” の wiki のページによると、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 右側の四角い枠囲みの中の「別名」の項目の所には、 小平次(幼名)、小五郎、左衛門尉(通称)、一智(号) と書かれており、 (↓)「生涯」の項目の所(の初めの2文)には、 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。 と書かれています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1#生涯 そこで質問があります。 酒井忠次が小五郎と名乗り始めた時点での、徳川家康の年齢は何歳だったのでしょうか? 酒井忠次が小五郎と名乗り始めた時点での、徳川家康の年齢は何歳だったのかを教えてください。 <参考 URL> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1#生涯

  • 徳川家康と金山について

    徳川家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃五カ国から関東八州に転封された時に、多くの金山を失いました。これは大きな痛手でしたか?石高は、倍増したので大丈夫でしたか?教えて下さい。

  • 井伊家への反感

    徳川譜代大名のなかで領地・格式ともに一番は 新参者である井伊家。 譜代中の譜代でもあり、代々家老格ともいえる 両酒井家や多数の一族をかかえる本多家からは かなりの反感をかったものと思います。 何故家康は井伊家を厚遇したのでしょうか?

  • 関ヶ原以降の豊臣石高について

    関ヶ原以前豊臣家の石高は二百万石ですよね。 で関ヶ原以後の石高は家康によって六十五万石になりましたよね。で不思議に思うのですが関ヶ原の戦いは豊臣家対徳川家の戦いではなく豊臣家の内部争いでそれを東軍の総大将家康が豊臣をまとめたわけでこの時点では少なくても形式上は家康は豊臣家の家臣なわけで関ヶ原の戦い後家康が豊臣家を二百万石から六十五万石したけどなぜ家臣である家康が豊臣家を二百万石から六十五万石にできるのですか? 普通出来ないですよね。 そこらてへんがよくわからないので教えてください。

  • 家康の関東転封

    関白豊臣秀吉は天正18年小田原の役をもって全国を統一し、臣下の徳川家康をそれまでの東海5か国から関東に転封しますが(厄介払いも込めて)、もしこの時家康への加増を伊豆1か国程度に留め、関東には自分の直臣を配置していたら歴史は大きく変わっていたと思いますか?

  • 酒井抱一の出家について

    江戸時代の画家・酒井抱一は姫路藩酒井家という大名家の出身ですが、浄土真宗本願寺派(西本願寺)にて出家しています。 そこで疑問なのですが、なぜ西本願寺なのでしょうか? 酒井家といえば徳川譜代の家柄なのに、親徳川の東本願寺ではなく、徳川と疎遠であった西本願寺を敢えて選んだのはなぜでしょうか? もしかしたら抱一の意思は関係なく、元々酒井家が本願寺派の門徒の家だったのかもしれませんが、その場合はなぜ本願寺の東西分裂の際に酒井家は徳川譜代として自然な東本願寺を選ばず、敢えて西本願寺を選んだのでしょうか? また、徳川家康の腹心であった本多正信の墓が西本願寺の大谷廟堂にあるのも同じ理由で不思議です。なぜ親徳川の東本願寺ではないのでしょうか?