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仏教について詳しく教えてください。

今昔物語を読んで仏教に少しだけ関心を持ちました。 が、書店で仏教の漫画を読んでも仏教の絵本を買って読んでも何が良いのかわかりません。 古代から現代まで日本では仏教が人々の信仰心に根付いている。ぐらいしかわかりません。 法華経と浄土三部経の購入も考えています。現代語訳です。 やめておいた方が良いですか?

noname#259920
noname#259920

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  • apple1963
  • ベストアンサー率47% (8/17)
回答No.4

日蓮信者です。 私はもう少し佛教知識を学ばれてから、<法華経と浄土三部経の購入>を考えられた方がよろしいと思います。 阿含部と呼ばれる経典(サンスクリット語)やテーラワーダで用いられる経典(パーリー語)の方が、最初に読まれるには最適です。釈尊が身近に感じられることでしょう。人間としての釈尊が少し分かってくると思います。 <法華経と浄土三部経>は、日本の佛教では重宝されているお経ですが、壮大な物語の体裁をとっているので、中身を正しく把握するのが困難。私が初めて<法華経>(書き下し)を読んだ時には、何が何だかわからなかったくらい理解が難しいです。 読めば分かりますが、あきれる程に自画自賛されてる内容です。恐らくはそこばかり心に残り、何故<法華経>が佛教僧達に受け入れられたのか、多分全く分からないと思います。

その他の回答 (3)

  • v3050v78
  • ベストアンサー率36% (43/118)
回答No.3

法華経を信仰している者です。経文の中で一番難しいと思いますが、勉強する価値はあると思います。「浄土三部経」ですが、ご存じかとは思いますが、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」で、釈尊(お釈迦様)はこの「無量寿経」に「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と説き、「法華経」には「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と説いて、四十余年の経教はすべて法華経に導くための方便の教えであり、法華経のみが真実の教えであると明かしています。この浄土三部経は、「浄土宗・浄土真宗」で所依の経典としてその教えの根幹であるとされていますが、先ほどもお釈迦様がいうように、この四十余年の間に説かれた方便の教えで、未顕真実であります。しかも唯一真実経である「法華経」を「千中無一(せんちゅうむいつ)」「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」といって誹謗する念仏宗は、釈尊の教えに背反しています。この念仏を信仰する事はまさに無間の業を積む所為にほかなりません。「無量寿経」には、西方極楽浄土の阿弥陀仏が念仏を称える者を救うと説かれていますが、例外として「唯五逆(ただごぎゃく)と誹謗正法とを除く」と言っています。すなわち阿弥陀仏自身が、正法である法華経を謗るものは救えないと断言しているのでありますから、念仏宗の信仰者は自分たちが本尊と仰ぐ阿弥陀仏の本願にも背いている事を知るべきであります。又質問がありましたら私の分かる範囲でお答えいたします。なお、これは釈尊の教えに基づいて解釈するもので、単に他宗派を誹謗するものではありません。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (378/1169)
回答No.2

読んだだけでは内容まで理解出来ません、何年も修行して、上位の 僧から教わります。 近くのお寺の坊さんに、教えて貰うのが宜しいかと。 お寺に行く前に予備知識として読破して置く事も有りですね。 法華経なら日蓮宗と創価学会。 浄土三部経なら浄土真宗。

  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2130/10803)
回答No.1

食べるものもなく、働くところも満足になく、それでいて、飢饉などが起き。 年貢の取り立てもきつい時代、 飢え死にする人が、たくさん出る、環境の中で、仏教などが盛んに、信仰されてきたのです。 その時代に生きている人にとって、 現世では、辛いことばかり、どんなに努力しても、どうにもならない。 その逃げ場として、死後の世界があると、説いたのです。 仏教の教え(お経などに書かれている内容)のように生きれば、 死後、天に昇り、仏として生きて行けますよ。 (裕福な生活ができますよ) 死んで49日、地上で修業を積めば、天に昇り仏になります。 盆は、仏が、生きて居た地上の家に帰るとき。 家では目印として、提灯をぶら下げ向かい入れるのです。 盆踊り等をして楽しいひと時を過ごし、又天に帰るのです。 苦しい時の、精神的な逃げ場が、宗教なのです。 知識として、勉強するのはよいでしょうが、はまってたくさんのお金をつぎ込むのは、良くないと思います。

noname#259920
質問者

補足

ありがとうございます。 私は日本古典の源氏物語や日記文学、古事記が好きです。 それらの繋がりから今昔物語集を読んでいます。が、何故か仏教系には殆どイマイチな気持ちです。 儒教の論語や中国史も好んで読む事があります。

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