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北条と豊臣秀吉について

北条は、なぜ豊臣秀吉と戦う道を選んだのですか?武田・上杉との戦で小田原城で籠城して持ちこたえた成功体験があるからという話を聞きましたが、秀吉と武田・上杉は、違うことになぜ気付かなかったのですか?

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  • eroero4649
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回答No.1

いや元々、北条家は秀吉の支配下に入るということで方針は決まっていたのです。ただ京都に氏政が行くか氏直が行くか、実際は降伏だったとしても体裁としては相応のものを用意してくれないと北条家としても関東武士としての体面もありますしで、秀吉側と交渉していたのです。 けれどその交渉がなかなか進まず、氏政か氏直の上京の時期の話し合いをしているうちに秀吉が攻め込むことを決意したのです。 おそらく、秀吉としては最初から北条家は潰すということで決まっていたのではないかなと思います。そしてそこに家康を置いて家康を遠ざける。最初からそういう戦略があったのだと思います。 なので秀吉はわざと交渉を進めさせないで、小田原攻めの準備を水面下で進めていたのだと思います。 ただ北条家にも落ち度はありまして、それが後に「小田原評定」という言葉になったように、決断を先送りにしていたことですね。 家康は秀吉に近い立場にいますからそのことに気づいていて、北条家の尻を叩く手紙を送ったりしています。けれど北条家は関東地方で京都とは遠く離れており、また元々幕府や公家とのパイプもなかったので京都の政治事情に疎くて秀吉の真意に気付かなかったのでしょうね。 「支配下に入ることは決まってるんだから、わざわざこんな遠くまで大金かけて攻めてくることはしないだろう」と甘く見ていた部分はあったのだと思います。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。いつもありがとうございます。

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