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豊臣秀次について

関白豊臣秀次は、なぜ秀頼に政権を譲る意志を太閤秀吉に示さなかったのですか?そう示せば、秀吉に殺害されることもなかったし、幼い秀頼の後見人として、影響力を保持することができたと思うのですが。秀次は、あまり能力が高くなかったのですか?

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  • eroero4649
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回答No.2

要するに質問者さん的には秀次が秀吉の弟である秀長のような役割になることができれば豊臣政権は安泰であっただろうということなのだと思います。 私も、それには同意です。しかし、羽柴秀長のような人物が二代続くというのは絶対に無理な話だと思います。秀長という人は日本史上に燦然と輝く「理想のナンバーツー」です。どのくらい理想かというと、堺屋太一氏によって「発掘」されるまでその業績が誰からも評価されなかったというくらいです。自分の存在を徹底的に殺すことができる。透明になるまで黒子に徹することができた羽柴秀長という人は日本史上を見ても稀有な存在だと思います。 そんな人がほぼ同じ時代に2人続くというのは無理です。秀次も切腹させられたときにはまだ28歳だったということですから、非常にやる気もあるし血気盛んな年齢でもありますよ。能力が高くなかったから粛清されたのではなく、能力が高いから粛清されたのです。 「狡兎死して走狗煮らる」という言葉がありますが、優秀な人ほど安定した政権では「邪魔」になるのです。 もし秀次が秀長のように黒子に徹することができたとしても、そういう人材がずっと続くことはないですから、そうなったら豊臣政権は続かなかったと思います。 豊臣政権の弱さは、その身内の人材難と天才創業者の宿命(さだめ)のような「官僚組織の弱さ」にあったのです。 その点が家康がすごかったところで、彼は「将軍がどんなにバカでもちゃんと政権が回る、鉄壁の官僚システムを作った」のです。これで200年間、一度も反乱を起こさせませんでした。 なお、この徳川システム的な鉄壁の官僚システムは、トヨタや自民党など、日本の大きくて安定的な組織では共通して持っています。日本においては「こうしときゃ組織は潰れない」のです。 トヨタは豊田一族の社長が仮にどんなバカをやってもそれで屋台骨は揺るがないですし、自民党でどんなバカが総裁になっても政治は滞りなく回るシステムが作られています。ただ逆にいうと、すごく優秀な人がトップダウン式で行おうとしてもそれはできないようになっています。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

その他の回答 (1)

回答No.1

秀吉は若いころは非常に聡明で思慮も深く更には強運の持ち主であったが故に貧乏足軽から天下人へのし上がったのではと思います。 しかしそんな秀吉も年を重ねていくうちに非常に疑り深くなり天下統一するころにはどうにもならない頑固なじいさんへと変貌していきます。 無意味な朝鮮出兵を繰り返したりあれだけ秀吉に貢献した黒田官兵衛を簡単に牢屋にぶち込んだり・・ 史実では日本を5つに分け、その内4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると言ったそうですが秀頼誕生に焦った秀次は「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し、次第に情緒不安定となった。とありますが本当はどうか今や分かりません ずっとできなかった子供がおじいちゃんになってようやくできてこの子を跡継ぎにと考えて一番邪魔な存在英次です。そして都合よく英次が動揺してるとの事を聞いた秀吉は謀反にでっちあげた可能性も・・ それと関係ありませんが秀頼は実は秀吉の実の息子ではないというのが有力ですね。 色々な作者の小説をお読みになるとこんな考えもあるんだと新たな発見ができるのでオススメです。

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