• 締切済み

論理学に関する質問

この二つの定義のどちらも正しいとすると矛盾が生じるのは何故ですか? (恐らく自分が何か間違えていると思うのですが、何が悪いのか分かりません) 1 .排中律の言葉による定義 : 命題は成立するか成立しないかのどちらか以外は起こらない。 2 . 排中律の論理式による定義 : 「P ∨ (¬P) は真」の事である ソース : http://www.ozawa.phys.waseda.ac.jp/pdf/ronritoshugo.pdf 説明 ∨の定義 : 与えられた複数の命題のいずれか少なくとも一つが真であることを示す論理演算(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%92%8C) ∨の定義によって、P ∨ (¬P) は真を満たすためには、Pか¬Pが真であればよい よって、Pが真であって、¬Pは偽ではなくうんこだと仮定しても、P ∨ (¬P)は成り立つため、2の排中律の論理式による定義に違反はしていない しかし、1の排中律の定義には違反している よって二つの定義が正しいとすると矛盾している 先にこれから言われそうなことに対して質問しておきます 1 . 命題には、真か偽しかない そのため、偽でもないうんこというものがあるのはおかしい 1の質問 : 命題には真か偽しかないのであれば、排中律がある意味は何ですか? 2 . Pが真であるとき、¬Pは偽であるから、うんこではない 2の質問”Pが真であるとき、¬Pは偽である”が正しいといえるのは、何故ですか?

みんなの回答

  • f272
  • ベストアンサー率46% (7998/17100)
回答No.1

> 1の質問 : 命題には真か偽しかないのであれば、排中律がある意味は何ですか? 命題には真か偽しかないというのが排中律です。 > 2の質問”Pが真であるとき、¬Pは偽である”が正しいといえるのは、何故ですか? それが¬Pの定義です。Pが真であれば¬Pは偽であり,Pが偽であれば¬Pは真である。

関連するQ&A

  • Pが偽である時、¬Pが真であることの証明

    Pが偽である時、¬Pが真であることの証明が分かりません 矛盾律 :「P ∧ (¬P) は偽」の事である。 排中律 : 命題は成立するか成立しないかのどちらか以外は起こらない (http://www.ozawa.phys.waseda.ac.jp/pdf/ronritoshugo.pdf) Pが偽,¬Pが偽でも、P ∧ (¬P) は偽なので、上の定義の矛盾律には違反していない Pが成り立っていないで偽、¬Pが成り立っていないで偽で排中律も違反していない どうやったら証明が可能でしょうか?

  • 論理学に関する質問

    1 . 排中律や矛盾律は総称して何と呼ばれていますか?(名称を知りたいだけです) 2 . 排中律や矛盾律は、証明ができるものでしょうか? それとも公理や定義に近いものですか?

  • 論理数学

    論理記号「ならば、→」は、前提が偽であるとき、結論が真あるいは偽にかかわらず含意命題が真と定義される。 の理由がわかりません。わかりやすく教えていただけないでしょうか。

  • 量子論理

    量子論理 量子論理(Wikipedia)からの引用です。 『古典論理と大きく異なるのは分配律、すなわち p ∧ (q ∨ r) = (p ∧ q) ∨ (p ∧ r) (p、q、r は命題を表す) が必ずしも成り立たない点である。例えば一直線上を動く粒子を考え、次のようにおく。 p = "粒子は右へ動いている" q = "粒子は原点の左にある" r = "粒子は原点の右にある" すると命題"q ∨ r"は恒に真だから、p が真ならば p ∧ (q ∨ r) = 真 一方、p が真ならば不確定性原理により位置と運動量は同時には確定できないから、2つの命題"p ∧ q"と"p ∧ r"はいずれも偽である。ゆえに (p ∧ q) ∨ (p ∧ r) = 偽 となって、分配律は成り立たないことになる。』 この説明は間違っていると思うのですが、みなさんはどう思いますか? ちなみに、この説明は参照文献、G. Birkhoff and J. von Neumann (1936), The Logic of Quantum Mechanicsのp831がもとになっているのかと思います。

  • 「命題AとBには論理積の関係がある」←正しい言い方

    命題Aと命題Bについて次の4つの関係が成り立つ時、 A∧B→真 A∧¬B→偽 ¬A∧B→偽 ¬A∧¬B→偽 下記の言い方は合ってますか? 1.「AとBには論理積の関係がある」 2.「AとBの論理積は真であり、AとBの否定論理積は偽である」 より適切なものがあれば教えて下さい。

  • 論理式を作る!

    次の条件を満たす最短の論理式を作りたいんですが、 うまく作れません>< 1)p,q,rで2つ以上が真なら真、2つ以上が偽なら偽の論理関数 カルノー図より、pq+pr+qrという論理式を導き、 これをp(q+r)+qrとしました。これ以上は無理でしょうか? 必要ならば、→、≡、排他的論理和も使えます。 また 2)p,q,r,sのうち、いずれか3つが真で、そうでなければ偽となる論理関数 の論理式を導きたいんですが、これはカルノー図も使えません>< ご教授ください。

  • 形式的な恒真命題と存在論

    同一律、排中律、矛盾律などの恒真命題が存在論と絡んだ場合、どのような哲学的問題が起こるでしょうか?

  • 命題「存在は定義できない」について。

    「存在は定義できない」という命題が真か偽か、意見が分かれると思います。 ハイデガーなどはこの命題が真であるとの立場をとり、西洋哲学(=哲学史)を勉強した人などもこの主張を支持する人が多いようです。 私はこの命題が偽であるとの立場で論理的な説明を試みたのですが、途中で疲れてしまいました。 疲れてしまう理由は、「どこの誰かが何か言った」などという論理的ではないリファレンスが登場して、これを逐一否定しようとすると枝葉末節に入り込んでしまうからなのです。 そこで、「どこぞの某がこう言った、ああ言った」というリファレンスを無しに、命題が偽であることを説明できないかと考えています。 方法論は、公理的集合論(axiomatic set theory)を用いるのが良いと思っています。 あくまで「存在は定義できない」というのは公理ではないとし、他に、一般に合意可能な内容をいくつか公理として選択し、最終的に「存在は定義できない」という命題が偽であると立証したいのです。 数学や論理学など得意な方、どなたか、手伝っていただけないでしょうか? 質問:命題「存在は定義できない」が偽であることを立証できますか? (なお、これが命題である以上、これを公理には選択できません。)

  • 背理法の定理を排中律から証明できません。

    よろしくお願い致します。 先ず、 Pを命題とし、「→」は含意を表す。 Pが真→¬Pは偽 Pが偽→¬Pは真 Pが否定の否定が真ならばPは真 Pが否定の否定が偽ならばPは偽 Pが真であるか,またはPの否定が真であるかのいずれかである. が成立しているとします。 これらから背理法が正しい事を証明したくと思ってます。 先ず、「矛盾」の定義はP∧¬Pが真となる事です。 ですから P→Qが と (P→¬Q)∧¬(P→¬Q) の真偽が等しくならなければ背理法が正しい証明法とはいえません。 つまり、 P→Qを示したい((P→Q)=true)時、代わりに ((P→¬Q)∧¬(P→¬Q))=true を示す事である。 しかし、 ((P→¬Q)∧¬(P→¬Q))は (¬P)∨(¬Q)∧¬(¬P∨¬Q)と書け、更に ¬(P∧Q)∧(P∧Q) でこれは自動的に恒偽命題となってしまい、 P→Qと真偽が一致しません。 とい事はP→Qを示すのに背理法 ((P→¬Q)∧¬(P→¬Q))=trueが使えなくなってしまいます。 一体、何処を勘違いしていますでしょうか?

  • 論理学を議論上で応用することについて

    あるテーマの議論中(仮に政治問題1とします)の理論についての質問です。 ある人物甲が「AしたいならばBという発言は矛盾で適切ではない」という主張をし、それに対し 別の人物乙が「AとかAしないという見解(ないし矛盾無矛盾を問題にすること)は誤りである」と反論 もう一人の人物丙は「政治問題1の当事者はAとは言っていない」という反論をしました。 それを受けて甲が 「私の主張は形式論理学上「P⇒Q」に当て嵌めると真理値表上Pだけ偽でもPQ共に偽でも「P⇒Q」が真となるので乙丙の反論は妥当ではない」 「乙丙の行為は前提Pを否定することによって主張全体を否定する行為であり不当、 なぜならばPは論理学上「ならば」で括った仮定でありそれに反論するのは論点のすり替えになるから (ここの意味はさっぱりわかりませんが、甲の主張をほぼそのまま流用しました)」 という見解を下しました。 この甲の理論は正しいのでしょうか? ※論理学云々以前に甲乙丙の議論上の誤謬詭弁関連はここでは置いておき、 甲の最終的な主張が正しいか否かの質問になります※ そもそも甲の主張は形式論理学上非命題だらけで 論理演算子では括れないはずなのでそこからもう既におかしい気がするのですが、 ならばの前件後件でPQに分ければいいだけ、という主張の一点張りです。 論理学、こと条件法や非命題論理には弱く「なんか違う気がする」以外の反論が出てこないもので。 あと、政治に関する議論などは論理学上の論理的妥当性云々以前の問題、即ち 論理・議論の健全性が主で討論が繰り返されるはずであり 健全性優先とすれば反論は一定程度妥当で、そうなったならば 論理学での真理値は必ずしも「議論上の反論行為そのもの」という領域にまで 反映可能と思えないのですが如何なのでしょうか。