Tefu_Tefu の回答履歴

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  • 自然界が生み出した最高の芸術作品とは何か

      虹、真っ赤な夕日、オーロラ、富士山、サンゴ礁、摩周湖、かげろう、・・・・いろいろ考えられよー。 しかし自然界が生み出した最高の芸術作品として唯一つを選ぶとするなら、やはり女体の美を除いて他にあるまい。  

  • 貴方が最も愛してるものは何ですか?

    子供でも 孫でも 恋人 配偶者でしょうか それとも他に何か愛してきたものがあるでしょうか? 何を一番大切にして愛して来ましたか? なかなか子供には敵わないので 最も愛したものの一つは 何ですか? と言う質問にさせて頂きます。 音楽をこよなく愛する 読書を愛している 世界人類を愛して止まないとか 色々あるかと思います。お金でもいいですよ^^ 美人、イケメンでも構いません 簡単に分かりやすく教えて下さるとありがたいです。 何をこよなく愛しますか?

  • 気高き罪は 我にあり

    ~~~ ご挨拶 ~~~ ようこそおいでくださいました。 私の妖しい哲学課にご興味をお持ちいただきまして まことにありがとうございます。 ~~~ まえがき ~~~ 我々が生きるということは、何を以て生きると言えるのだろうか。無償の物を奪いあい、つねに貧しく、人を見たら泥棒と思え、そんなことのために、我々は生きているのだろうか。 否、我々は、生きるための物を、無償で手に入れてはならない。 生、そのものが望むことは、穏やかで、安らかな時であろう。ならば、それを得るためにのみ、気高き罪を受けよう。それにもまして、痛み苦しみ、代償を払おうではないか。気高き代償である。 我々は、決して古き歴史から、栄華のまつりごとを取り入れてはならない。なぜならば、古き享楽の呪縛をも取り入れてしまうからだ。 我々は、新しく作らなければならない。今あるまつりごとに対して、抵抗の構えを見せなければならないのだ。 あべのみっくす3本の矢で、低賃金労働は、解消されただろうか。いずれもその矢は、我々に向けられているのではないだろうか。もしもその矢で、やまと国の民が射られるようなことがあれば、我々は、闘う姿勢を見せなければならない。 企業においても、それが言えるのではないだろうか。重労働系社員の生活を考えるならば、 経費削減など不承知千万である。社員の安全をはからなければ、安定した業績など不可能であろう。まして技術職ともなれば、その熟練した能力は、代えがたいものである。彼なき後、一体誰が良いものを作れるだろうか。 (私は普通のOLなので、技術系は詳しくは知りません。私の給料は高いです。) ほう・れん・そう などとバカの一つ覚えしか言えない管理職は去れ。各課ミーティングでじゅうぶんなのだ。これからは横繋がりの系統図に書き換えられるべきであり、機密と言わず、問題を共有し、管理職は肩の荷を下ろし、皆で解決する時代ではないだろうか。 ~~~ 質問 ~~~ 私は会社のお荷物でしょうか? ご高覧の上、皆様の哲学的なお考えを頂ければ、うれしいです。

  • 生きながら死人となりてなりはてて思いのまま・・・

    生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき 至道無難禅師の言葉とのことですが、今朝NHK教育テレビで鈴木大拙を紹介する中で出て来ました。 私は昨年末に妻を亡くし、この世の無常を感じ、"後追い願望"に支配される毎日です。 そして、伊丹十三さんの「楽しいうちに死にたい」とか、「自死という生き方」を著して自死を決行された哲学者、須原一秀氏の主張に気持ちがぴったり合い、彼らに従いたいという気持ちで生きていますが、 この至道無難禅師の言葉は、死の捉え方がちょっと違うように思えました。 生きながら死人となりてなりはてているのに、思いのままにするわざにするワザなんて有り得るのだろうか? しかも、それが「良い」と言ってる。 私は俗人の一般人ですので、成るだけ平易に抽象的な言葉を使わないで、前述の禅師の言葉をもう少し詳しく説明していただけないでしょうか? もう少し考えるきっかけにしたいと思います。 宜しくお願い致します。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • 記憶する手

    私の手は二つあって どちらにも五本の指が付いている。 掴む事もできれば、離す事もできる。 いろいろな物を触っては確かめ 在るという感触を伝えてくれる。 この手は 冷たさも暖かさも、痛みも知っている。 感覚という記憶が詰め込まれているかのようだ。 私が今までやってきた事も、みなこの手が成し遂げてくれた。 私の思うがままに動き、動かしてきた。 けれど この手は道具ではない。 道具とは手の延長となる物。 太く、そして皺だらけのこの手は一体何なんだろう? 何がしかの希望がある時、人は手を見ない。 見る必要がない。 手を見るという絶望のシグナルは何を伝えようとしているのだろう?

  • 仏教のお経について

    通夜、告別式、法要等で、僧侶が読経しますが、今のままで意味があるのか疑問に思います。 一部、参加者も、紙を見ながら一緒に唱えますが、読んでも、意味が分からないことが多いです。 元々は、サンスクリット語だと思いますが、その音を、日本語の平仮名や漢字にあてはめただけのものが多く、読んだだけでは、意味不明です。 それよりは、日本語に翻訳して、それを読み上げてくれた方が、お釈迦様が話した内容の意味が伝わる、と思うのですが、どうでしょうか? ありがたみが無くなるのでしょうか? 私は、今のような、呪文のような読経を聞くだけよりも、お釈迦様の伝えたかったことが参加者一人一人の心に残って良いと思うのですが。 話の内容より、音が大事、という主張もあるかもしれません。 密教系はマントラを使うので、そういうこともあるかもしれません。 その場合、平仮名や漢字にあてはめたものは、イントネーションやアクセント等が、元々のサンスクリット語と随分違っていて、年数が経っている分、英語とカタカナ英語の違い以上に異なっていると思います。 それでも、意味があるのでしょうか? 詳しい方、よろしくお願いします。

  • 神に近づくには

    神に近づくとはもちろん精神的なことですが、苦しみを多く経験した人は神になれるという言葉もあります。 もしそうであるとき、困苦が続いたあまり、何も感受しない、感じなくなっているような心理状態というように、精神疾患的に何も感じないことと同じになるのでしょうか? 瞑想的な悟りが神に近付く唯一の方法とは私も思ってませんが…つまりは悟りの精神状態はどうなっているのかなあという質問です。

  • 「平成25年」、「2013年」についての外国人質問

     日本語を勉強中の中国人です。「平成25年」と「2013年」と比べて、現代の日本人にとってどちらがわかりやすいのでしょうか。前者のほうが正式のような気がします。「平成25年」のような表記は、日本の方の頭のなかで、普通数学の計算はいりますか。すぐ2013年のことだとわかるのでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • りんごは禁断の果実?

    テレビを見ていたら、聖書・創世記における禁断の果実は「りんご」として、話が進んでいました。聖書にそんなことは書いていないと思いますが、そのように考えれるようになった根拠は何なのでしょうか?

  • A、・・・Bじゃない

    こんばんは。 A! Bじゃない。ですよね。

  • 神のイメージ

     三位一体論から入ります。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ したがって――と言ってもこれは タトエですが―― ひとは神の似像(にすがた)であると言われるわけですが そのすがたを 三位一体なる神に似ているという意味に採ると 次の図式が得られます。   ○ (神学および ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから 神のイメージを考えるにあたって次の図式を取り出します。  ○ 三位一体(神)と三一性(経験存在) ~~~~~~   神: 父なる神―――子なる神―――聖霊なる神:三位一体   ____________________   人: 記憶行為・・・・・・知解行為・・・・・意志行為:三一性   国家: 司法・・・・・・・・立法・・・・・・・・・行政   :三一性      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問題は端的に言って 神なる三位一体は 時空間を超えており 父なる神と子なる神と聖霊なる神とのあいだに 時間差がない。というのに対して 人間や社会においては 記憶(秩序作用)や司法の判断内容と 知解(認識)や立法(法律条文)と そして意志や行政の執行内容と これら三者のあいだに いかんせん 時間差がありまたその内容にも 食い違いが生じるということ ここに問題はあります。  三位一体は 即時に その一体性が成ると考えられるのに対して 経験世界における《三一性》は 互いの内容に齟齬を来たし 実行が成されるときに 時間差がある。  これが 神のイメージを示そうとしたひとつの説明です。  問いは 次です。  1. もしこの神のイメージがその図解のとおりだとすれば そのような神の意志は 存在すると思うか?  2. むろん人間には分からないという前提で言うのですが 経験世界における行為や出来事にかんして じつは神の意志が そのままではないが はたらいていると見る見方は ありうるのか?  3. つまりそれは ものごとが即時に成るのではないわけだけれども 神にとっては千年が一日だと言われるがごとく 少しづつ 神のこころづもりに沿って じんるいの歴史はいとなまれて来ていると見る見方は ありうるのか?  4. つまり 三位一体なる神にあっては すべてその意志は即時に成るのだが じっさいに人間とその世界にあっては 時間差をともないつつにでも 成就――たとえば 自由の――に向かってあゆんで来ている〔と見る〕のか?  5. それとも 神のイメージは まやかしであり まったくのまぼろしであると見るのか?  6. つまりは ここで《非思考の庭 つまり 信仰》の観点を持ち出すなら この信仰は いったい何をのぞんでいるのか? 何を 将来ヘむけて予感しているか? あるいは 信仰もまぼろしであって 何もないか?

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • 人間の幸せとは欲を叶えること?

    キレイ事を抜きにすると人間の幸せとは自分の欲を叶える事なのですか? ここで言う欲望とはいわゆる金欲や色欲です お金持ちになっていい女を抱いて人からチヤホヤされたい、というのが人間が最も叶えたい幸せなのでしょうか? 人の為になる事をする、全てに感謝して生きる、その瞬間瞬間を楽しむ、物事に集中している時間が多いこと、なんて言うのは本当はそれらを叶えれなかった人間がすがれるようにと用意されたガス抜き程度の詭弁なのでしょうか? そうは思いたくはないのですが、私は成功は手に入れた事がないので、よく分かりません しかし一回病気になった人の方が健康のありがたさが分かるのと一緒で、一回成功したことのある人の方が、普通の幸せを噛み締める事が出来るのであれば、やはり成功者のほうが幸せに近いと思うのですがどうでしょうか? 幸せは自分で決めること、というのとは違う視点での話しでお願いします

  • 漬かり度とその計り方

      漬かるとは何かについて哲学的に考察したいと考えている。 そしてこの漬かるとゆー概念を哲学の概念として確立したいと思っている。 まず漬かり度とは、人がどの程度漬かっているかの度合いと定義する。 漬かった人達にはある共通の特徴があることが認められる。 従ってその漬かりの特徴を備えているか否か、その漬かりの特徴がどの程度かを計ることによりその人の漬かり度を計ることが出来ると考える。 ただし心理学において漬かり度の計り方に関する理論は未だ存在しないよーである。 ではその漬かりの特徴とは何か。 漬かった人達を観察することによる経験的判断から次のことが言えそーである。 まず漬かった人達には以下のよーな諸特性が見受けられる。 1. 結論逃避性 何かを語るときいたずらにだらだらと断片的なことを語り、結論を示そーとしない。 自分でも結果として何が言いたいのかよく分かっていないからそーなるのであろー。 2. 無希求性 無を求める傾向がある。 全ては無であるとか、世界は存在しないとか考える性癖がある。 ではこの世は無なのかと訊きただすと、いや無ではなく空であるなどと言って逃げよーとする。 無と空の違いも分からんのにである、阿呆らしい。 3. 思考停止性 論理的に議論を進めてゆくと必ずあるところで思考停止に陥り、それ以上の議論が成り立たなくなる。 これは脳内に一種のモードスイッチがあって都合が悪くなると簡単に非思考モードに移行できるよーな構造になっているのであろー、セコイな。 4. ・・・・・ 5. ・・・・・ 6. その他いろいろ これ以外にも漬かりの特徴を示すものはいろいろあると思うが、どのよーなことが考えられるか皆にも訊いてみたい。  

  • 安土問答

      既に決着はついたと聞いているが、未だ決着はついておらんのかな。   http://www.geocities.jp/une_genzaburo/Saikouji.htm  

  • 漬かった人達

       どー見分ける。  

  • 安土問答

      既に決着はついたと聞いているが、未だ決着はついておらんのかな。   http://www.geocities.jp/une_genzaburo/Saikouji.htm  

  • 10^500もの別の宇宙が存在するとは

      最新の量子物理学理論に基づく計算式によると、我々の周りにはこの宇宙以外に10^500もの別の宇宙が存在する可能性があるとのことである。 あくまでも計算式上の話であるが。 原始でさえ10^500(つまり500桁程の数)も集めれば銀河系宇宙を遙かに凌ぐ大きさになるのであるが。 この話を聞いてわしは確信したな、やはり量子物理学は後退しておると。