Tefu_Tefu の回答履歴

全606件中101~120件表示
  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • 「どうでもいいもの」と「どうにもならないもの」

    世の中は「どうでもいいもの」と「どうにもならないもの」でできている。 とはどういう意味でしょうか?

  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • 耳なし芳一

    大学の哲学の授業で耳なし芳一について幽霊はいないという立場にたって説明せよ。という課題なのですがどうやって書いたらいいか検討がつきません。アドバイスお願いいたします。

  • 仏教

    仏教の真髄 教えてください。

  • 弱者の甘えとは? 弱者の傲慢(ごうまん)について

    早速ですが、 『ログ・ホライズン』というファンタジー小説の一節をご紹介します。 ~~~~~~~ 〈冒険者〉は自由です。私たちよりも自由な人間なのです。……わたし達は確かに〈冒険者〉より弱いかも知れませんが、だからといってその弱さに居直って良い訳がない。我らは我ら自身の弱さに甘え、彼の方々を道具のように使う権利などありますまい。 http://ncode.syosetu.com/n8725k/30/ ~~~~~~~ で、わたしが、賢明なる哲学カテの皆さんにお伺いしたいのは、 《弱者の(強者に対する)甘え》 です。 これは、哲学的に正当化されるものなのか? 強者は弱者を守る義務を有しているのか、いないのか? また、 『ログ・ホライズン』の別の個所では、 こうした《弱者の強者に対する甘え》を、 《弱者の(強者に対する)傲慢(ごうまん)》 と表現しています。 《弱者の甘え》は、《弱者の傲慢》なのか、いなか? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 弱者と強者を、 知識を持たない者と知識を有する者、 あるいは、 質問者と回答者 と置き換えて、回答していただいても、結構です。 大歓迎いたします。 「教えて!」で質問する者は、(回答者に対して過度に)甘えているのか、いないのか? 回答者は、質問者のお願い(要求? 要請?? 居直り???)に、どこまで、応えなければならないのか? そして、 質問者は、何を以って、回答者に応えるべきなのか? それは、『ログ・ホライズン』にあるように、礼(儀)なのか? お考えを教えてください。

  • 今現在は特別な時間なのか

      過ぎ去った時間は無限に続くが、我々は過去を呼び戻し感受することはできない。 未来の時間もまた無限に続くが、我々は未来を呼び出して感受することも出来ない。 今現在とは過去と未来が接触する一瞬の時間であり、過去でもなく未来でもなく唯一我々が感受することが出来る一瞬の時間であると考えられる。 今現在とは無限なる時間の中にあって唯一つしかない特別な時間ということになる。 しかし時間は均一なはずであり、特別な時間というものが存在してよいのだろうかという疑問が生じる。 更にこの無限なる時間の流れの中において、我々が過去でも未来でもない今現在なる一瞬の時間を捕えることは確率的に考えてゼロであり、不可能なはずなのである。 にも関わらず我々は常に今現在を捕え経験できているのは何故か。 考えてみると不思議である。 そこで1つ仮定してみた。 我々が一瞬の時間と見做す今現在は実は一瞬ではなく、過ぎ去った時間であれ未来の時間であれ、どの時間も今現在で在り続けていると。 つまり時間には過去も未来も無いのであり、どの時間も全ての一瞬一瞬が常に今現在として現在進行中であると考えるのである。 このように考えると今現在は特別な時間ではなくなり、時間は均一なものになる 我々は通常時間を1次元と見なすが、このように仮定するためには時間を多次元のものと見なさなければならない。 果たしてこのように仮定することは宇宙の法則に反するものであろうか。      

  • 弱者の甘えとは? 弱者の傲慢(ごうまん)について

    早速ですが、 『ログ・ホライズン』というファンタジー小説の一節をご紹介します。 ~~~~~~~ 〈冒険者〉は自由です。私たちよりも自由な人間なのです。……わたし達は確かに〈冒険者〉より弱いかも知れませんが、だからといってその弱さに居直って良い訳がない。我らは我ら自身の弱さに甘え、彼の方々を道具のように使う権利などありますまい。 http://ncode.syosetu.com/n8725k/30/ ~~~~~~~ で、わたしが、賢明なる哲学カテの皆さんにお伺いしたいのは、 《弱者の(強者に対する)甘え》 です。 これは、哲学的に正当化されるものなのか? 強者は弱者を守る義務を有しているのか、いないのか? また、 『ログ・ホライズン』の別の個所では、 こうした《弱者の強者に対する甘え》を、 《弱者の(強者に対する)傲慢(ごうまん)》 と表現しています。 《弱者の甘え》は、《弱者の傲慢》なのか、いなか? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 弱者と強者を、 知識を持たない者と知識を有する者、 あるいは、 質問者と回答者 と置き換えて、回答していただいても、結構です。 大歓迎いたします。 「教えて!」で質問する者は、(回答者に対して過度に)甘えているのか、いないのか? 回答者は、質問者のお願い(要求? 要請?? 居直り???)に、どこまで、応えなければならないのか? そして、 質問者は、何を以って、回答者に応えるべきなのか? それは、『ログ・ホライズン』にあるように、礼(儀)なのか? お考えを教えてください。

  • 仏教

    仏教の真髄 教えてください。

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか

     1. まづ タトエと推測とによって成り立たせようとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったか紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. という憶測としての発見を得ました。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. 余計でした。つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  余分と思っていないからなのですが 述べました。ご教示ください。

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか

     1. まづ タトエと推測とによって成り立たせようとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったか紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. という憶測としての発見を得ました。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. 余計でした。つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  余分と思っていないからなのですが 述べました。ご教示ください。

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか

     1. まづ タトエと推測とによって成り立たせようとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったか紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. という憶測としての発見を得ました。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. 余計でした。つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  余分と思っていないからなのですが 述べました。ご教示ください。

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか

     1. まづ タトエと推測とによって成り立たせようとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったか紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. という憶測としての発見を得ました。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. 余計でした。つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  余分と思っていないからなのですが 述べました。ご教示ください。

  • 蓑虫の宇宙

      蓑虫は蓑の中で考えていた。 「私」は宇宙である。 全てのものは私の内にある。 蓑虫の宇宙も立派な宇宙だよね。  

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか

     1. まづ タトエと推測とによって成り立たせようとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったか紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. という憶測としての発見を得ました。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. 余計でした。つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  余分と思っていないからなのですが 述べました。ご教示ください。

  • 人のためにできることとは何か

    立場の強そうな方にすがりつき、立場の優劣が変わったらいとも容易く手のひらを返す、人とは言えないもはや迷える子羊達が一見強そうに見える私にすがりついてきます。一見なので、ぼろが出て皆が離れていくのも時間の問題です。またこんなくだらないことに一喜一憂しなければならないのです。 迷える子羊達を救うために、私は何をしたらよいのでしょうか?勝ち負けで物を言うのも難ですが、物質的ではなく精神的勝利を得るにはどうしたらよいのでしょうか?私という概念を迷える子羊の脳に刻み付けて精神的安そもそも意味のない人生の方向を刻み付ける格好の材料は何なのでしょうか。愛?奉仕?すいません、頭がこんがらかっています。くだらないことに一喜一憂したくないのです。でも人と関わらなければならないのです。乱文失礼しました。回答よろしくお願いします。